【二十三】疑惑の渦中
私は時計を見て、慌てて飛び起きた。寝過してしまった。昨夜なかなか寝付かれなかったせいだ。
はぁーと大きく溜息を吐き、昨日の自分を思い出して自己嫌悪に陥った。何度も同じことを繰り返して学習しない自分に、呆れ返る。
どうして、実家に帰ってきたのかな。
彼と再会さえしなければ、こんな思いをすることは無かったのに。この運命が恨めしい。結局は自分の反省を棚に上げて、運命ばかりを恨んでしまう。
だいたい、アイツもアイツよ! どうして実家へ帰らなかったのよ! どうして、この県で先生になっているのよ!
はぁーともう一度溜息を吐くと、私は急いで着替えて、朝の用意をするために台所へと向かった。洗濯機を回して、朝食の用意と自分のお弁当に取り掛かる。朝は時間との勝負なのに、出だしが遅れてしまったために、いつもより余計にバタバタしてしまう。
「ママ、おはよう!」
朝はいつも元気に起きてくる拓都だけど、今日はいつもより三割り増し機嫌がいいように思う。ああきっと、昨日、大好きな守谷先生のお家へ行ったせいだ。でも、このお喋りな拓都が、誰かにそのことを話してしまわない内に、しっかりと口止めしておかなきゃ!
「拓都、おはよう。あのね、ママと約束してほしいことがあるの」
私はしゃがんで、拓都と目線を合わせた。
「何?」
拓都はキョトンとした顔をして、私の顔を見つめる。
「あのね、昨日、守谷先生のお家へ行ったでしょう?」
「うん。とっても楽しかったよ」
拓都の目が、キラキラと輝きだしたのを見て、私は心の中で溜息を吐く。
「そう、良かったね。でもね、守谷先生のお家へ行ったことは、誰にも言わないで欲しいの」
「えっ? どうして?」
「拓都が守谷先生のお家へ行ったことをお友達に話したら、みんな行きたがるでしょう? でも、守谷先生もお忙しいから、みんなを連れて行けないのよ。だから、みんなが羨ましがるから、拓都は誰にも言わないで欲しいの。わかった?」
「うん。わかった」
何となくしょんぼりした拓都の肩をポンと叩いて、「さあ、おはようの挨拶をしてこよう」と仏壇のある座敷へと背中を押した。
朝食が終わると拓都が一枚のプリントを持って来た。それは、一学期の個別懇談のお知らせだった。七月二十日から二十二日の間の希望の日時を、第三希望まで書いて今週中に提出しなければいけない様だ。
それにしても……と、私は又溜息を吐いた。
彼に近づき過ぎないようにと思っているのに、また、彼と一対一で対峙しかければいけないなんて。
「わかった。明日提出できるように、書いておくから」
私は無理に作った笑顔で言うと、拓都を学校へ送り出した。そして、自分も用意をすると、いつもの様に愛車のミニに乗って出勤した。
*****
「あっ、美緒ちゃん、お先に。下駄箱のところで待っているからね」
西森さんはそう言うと、手を振って去って行った。
そう、今日は、気が重い個別懇談の日。
希望日時をどうしようか考えていた時、西森さんが電話をくれた。しばらく役員会議も無いから、個別懇談の時に時間を合わせてお喋りしようと誘ってくれたのだ。そして、その希望がすんなり通り、今日の懇談は西森さんの次が私という予定になっていた。
懇談は気が重いけど、西森さんとお喋りできるのは楽しみだった。その楽しみだけを考えて、今日は小学校までやって来た。早く嫌なことは済ませてしまわなければ。
「篠崎さん、お待たせしました。入ってください」
西森さんが出て行った後、担任はそう言って私を教室に招き入れた。
私の心臓は、これだけのことでも、ドキンと跳ねる。ドキドキと速まる鼓動を、私は保護者と言い聞かせて、抑える。
教室の窓際の机を向い合せにくっつけて、懇談スペースが作られていた。開け放された窓からは、梅雨明けの爽やかな風が入り込んでいた。
「失礼します。よろしくお願いします」
私は担任をまともに見ることも出来ないまま、頭を下げた。
「どうぞ、座ってください」
そう言われて、子供用の小さな椅子に座る。子供の机二つ分の距離に、彼がいる。
近過ぎる。
それでも、いつまでも下を向いたままでは、話もできない。私が思い切って顔を上げると、一瞬合った視線を、彼の方から手元の資料に落とした。
ああ、彼も居心地が悪いのだ。
元カノとこんな風に向かい合うなんて、嫌な気分だろう。それも、裏切られた相手なのだから。
今まで自分の気持ちのことばかり考えていたけれど、彼も同じように、私と再会したことに戸惑っているのかもしれないと、今になってやっと気付いた。
その時、私は言おうと思っていたことを思い出した。この間、拓都がお世話になったお礼を、言わなければとずっと思っていたのだった。
「あ、あの先日は、拓都がお世話になって、ありがとうございました」
私の声に顔を上げた彼は、一瞬驚いた様な顔をした。しかし、すぐにいつもの無表情に戻り、「いいえ、気にしないでください」と言った。そして、その後、言いにくそうにまた口を開いた。
「あ……そのことですが、誰にも言っていないと思いますが、もしも、誰かに尋ねられても、否定してください」
「えっ? 誰かに尋ねられるって?」
私は驚いてすぐに聞き返した。すると彼は、焦った様に言い訳をした。
「あの日、学童の先生は、私が拓都君を送って行ったことを知っています。そのことで誰かに何か尋ねられても、私は篠崎さんのお隣へ送って行っただけということにしておいてください」
それは、私とのことが彼女にばれると嫌だから?
それとも、去年の様に、保護者との関係を疑われたくないため?
きっとそのどちらもだろう。
私だって、他の人に知られたくない。人の噂の的になるのは、いろいろなことを含め、避けたいのだ。
それに私のことで、彼が不味い立場になるのだけは避けたい。去年のことがあるから余計に、彼の立場は微妙だろう。
「わかりました。でも、誰かに尋ねられる可能性があるのですか?」
そう、問題はそこだ。学童の先生は、担任が家まで送って行っただけだと思っている。拓都には口止めをした。それでも、そんなことを言うのは、誰かに何か言われたのだろうか?
誰かに、知られてしまったのだろうか?
「いや、もしものことを考えてです。篠崎さんを巻き込む様なことになっては、申し訳ないので」
「いいえ、お世話になったのは私の方ですから」
そんなもしものことまで考えて、私が巻き込まれるのを心配してくれたというのだろうか?
「あれは、私が勝手にしたことですから、気にしないでください」
彼は硬い表情のまま、そう言いきって、この話題はお終いにしたいようだった。これ以上言いあっても、同じことだろう。彼が気にするなと言うのなら、もう忘れた方がいいのかもしれない。
そう思って私は、遠慮がちに頷いた。
「それでは、一学期の拓都君ですが、これが通知表になります」
彼は先程の会話など無かったことの様に切り替えると、いつもの無表情な顔で淡々と言うと、私の目の前に、拓都の通知表を広げた。
私は拓都の通知表に目をやった。一年生だからなのか『できる』と『がんばろう』の二段階だ。確か、小学校の頃の成績って、三段階だったようなと思っていると、私の疑問を察したのかどうか、担任は通知表の説明をし始めた。
「一年生と二年生の通知表は、各教科の項目ごとに設定したレベルに達しているか、もう少し頑張った方がいいかの二段階での評価です。三年生からは、これに『よくできる』が加わって、より頑張っている教科の項目については、その成績が付けられます。拓都君は、どれもできているので、心配ないですね」
私は担任の説明を聞きながら、通知表を見て、拓都はよく頑張っているのだなと、喜びと安堵の気持ちに顔が緩んだ。
「学校での友達関係はどうですか?」
勉強のことは今のところ心配いらない様なので、気になっていた友達について訊いてみた。
「拓都君は誰とでも仲良くできるので、いつも誰かと一緒に楽しそうに遊んでいますよ。特に西森さんのところの翔也君とは仲がいいですね」
良かった。保育園が一緒だった子がいないから、一からの友達作りで、大丈夫だろうかと心配していたからだ。
「そうですか。良かったです。同じ保育園からのお友達がいなかったから、心配していたんです」
私はいつの間にか目の前の担任が、元カレだということも忘れ、思わず本音で言葉を返していた。
「拓都君は素直でとてもいい子だから、大丈夫ですよ」
彼は自然な笑顔でそう言った。私は不思議な気がした。
彼の自然な笑顔に、いつの間にか私の緊張も解けている。
いつも顔を合わす時は意識しすぎてドキドキしてしまうけれど、拓都のことだからだろうか。
拓都の話をしていると、私はきちんと保護者としていられるから。
先日の様に思い出の多い場所で彼と向き合うのは辛いけど、学校でなら保護者としての自分を保つことができる。役員になって、この数カ月の内に慣れて来たのもあるのかも知れない。
「他に心配事や気になることがありますか?」
「今のところは特にありません」
「では、初めての夏休みですので、規則正しい生活をさせる様にしてください。拓都君は学童でしたね。それなら、大丈夫ですね。朝顔の鉢は、篠崎さんが持って帰ってください。朝顔の観察も夏休みの宿題ですから」
締めくくりの様に最後の説明をすると彼の表情は、最初の頃よりずっと柔らかいものになっていた。私は「分かりました」と頷くと、椅子から立ち上がった。そして、通知表と夏休みに関するプリントの入った封筒を持ち、「今日はありがとうございました」と頭を下げて、教室を出た。
廊下には次の順番の保護者が待っていた。私は「お先に」と軽く会釈をして、校舎の出入り口へ向かって歩き出した。
私は、彼との関係が、少し担任と保護者らしくなった様な気がした。これでいいのだと、心の片隅でホッとした気持ちがゆっくりと広がりつつあった。
校舎の出入口の下駄箱のところまで来ると、西森さんと誰かが片隅の方で真剣な顔をして、話し込んでいるのが見えた。話をしているのは、確か、西森さんのご近所のお友達で、同じように守谷ファンの人だ。広報委員会の昼の部の人だったはずだ。
私が近づくと、二人は気配を感じたのか、驚いた様に私の方を見た。そして、二人で顔を見合わせている。
「千裕さん、お待たせしました」
「あ、美緒ちゃん、お疲れ」
西森さんは、私の方を見て微笑んだ。そして、もう一度一緒にいた友達の方を見て、「彼女なら口が堅いから、いいでしょう?」と尋ねている。友達も「仕方ないね」と頷いた。
何のことだろう?
「あのね、美緒ちゃん。このことは誰にも言わないで欲しいんだけど……」
やけにもったいぶって西森さんが話し始めたので、私は凄い秘密を打ち明けられるのかと、ゴクリと唾を飲み込み、頷いた。
「守谷先生のことなんだけどね、また不倫疑惑が起こったの」
えっ? 不倫疑惑?
「え? 守谷先生は愛先生と付き合っているんじゃないの? どうして、不倫疑惑?」
先日聞いた、愛先生との噂は間違いだったのだろうか?
それにしても、また勘違いされる様なことがあったのだろうか?
「そうなのよ。愛先生との噂は、本物だと思ったんだけど……。実はね、学校に投書があったらしいの。それも写真付きで」
写真付き? って、写真を撮られているってこと?
私が驚いていると、西森さんも眉間にしわを寄せた。
「ビックリよね? なんでもね、守谷先生の自宅マンションでこの学校の児童の母親と一緒にいるところを写真に撮られたらしいの。それも、子供も一緒にいたらしいのよ。時間も夜の十時を過ぎている様な時間で、子供は寝てしまったらしくて、守谷先生がその子供を抱いている写真らしいの。そんなに遅い時間に子供と一緒に守谷先生の自宅にいるって、普通じゃ考えられないわよね?」
私は気が遠くなりそうだった。血の気が引くって、こんな状態をいうのだと、頭の片隅で思った。そして、思い出した。さっき、彼が私にあの日のことを口止めしたのは、このせいだったのだと。
これはあの日のことだ。誰かに見られていたのだ。でも、どうして? 誰が何のために写真を撮ったの? 誰かが彼を陥れようとしているのだろうか? 彼は恨まれているのだろうか? 相手は私だと、知られてしまったのだろうか?
「そ、それで、相手の保護者は誰か分かっているの?」
私は思わず訊いてしまった。
「それがね、写真では分からないのか、守谷先生は問い詰められても、相手の名前は言わなかったらしいの。彼女のプライバシーがあるからって。ただ、不倫というのは否定して、昔の知り合いが困っていたから、子供を預かっただけだと言っているらしいの」
昔の知り合い……。そんな言葉に引っかかっている場合じゃない!
彼は私を庇ってくれたのだ。だから巻き込みたくないって言っていたのだ。
「誰が投書したか分かっているの?」
「そんなのもちろん無記名だから、分かるはず無いわよ」
西森さんの友達が怒った様に言う。
「私は守谷先生の言うことを信じたいと思うけど……」
西森さんもショックを隠せない様に言った。
「ねぇ、この噂、もう広まっているの?」
最初に厳重に口止めされたけれど、彼女達が知っているということは、他にも知っている保護者達がいるということで……。
「いいえ、まだ噂にもなっていないと思うの。私の友達、本部役員をしているのだけど、たまたま学校に用事があって行っていたらしいのよ。それで、偶然、校長先生と教頭先生と守谷先生が話しているのを聞いてしまったらしいの。彼女も大変なことを聞いてしまったって思ったみたいだけど、自分一人の胸にしまっておけなかったみたいで、私にだけって教えてくれたの。でも、私も一人で抱えるには大きい問題で、つい千裕ちゃんに聞いてもらったのよ。だから、もうこれ以上広めないで欲しいの。やっぱり、守谷先生にとっては、立場が危うい問題だと思うし……」
西森さんの友達もやはりショックが大きかったみたいで、動揺しているのが分かった。
「さっき、守谷先生は普段と変わりない感じだったから、今のところ、何か処分されたという訳でもないのかもしれないし、まだ、処分が決まっていないのかもしれない。守谷先生の言い訳を信じてもらったのかもしれないし。でも、去年のことがあるから、きっとまたかと思われていると思うの。守谷先生が担任から外されるってことが無いことを願っているんだけど……」
西森さんもかなり動揺しているようだった。
担任から外されるって、私のせいで? 私、どうすればいいの? 私は彼が庇っていてくれるのに、甘えていて良いの?




