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いつか見た虹の向こう側【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
第一章:再会編
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【二十一】大接近(前編)

 その日、そのことが発覚するまでは、ごく当たり前の普通の一日だった。いつもの様に定時に仕事を終え、拓都を迎えに行き、買い物をして、家に帰る。そんな当たり前の一日になるはずだった。

 その日、七月六日水曜日の午後五時に少し前、そのことは発覚した。

「ちょっと、この内容、去年の資料と同じじゃない?」

 同僚が上げた声に、周りのみんなが固まった。それは明日の会議の為に用意した資料で、最新のデータをまとめたものだった。しかし、使用したデータが去年と同じものだったようだ。

 私は青ざめた。その資料は私が責任者で作り上げたものだったからだ。

 明日午前の会議用ということで、すぐさま全員で手分けしてやり直すことになった。全員残業決定となってしまった。それも、私のせいで。


「篠崎さんらしくないミスね」

 周りのみんなは仕方がないと思ってくれているのか、苦笑しながらもすぐに仕事の割り振りをして取りかかってくれた。私は皆に謝りながら、今日はお迎えいけそうにないなと、お隣のおばさんにお迎えを頼もうと、電話をかけるために廊下に出た。

 電話のコール音は何度も繰り返すけれど、誰も出ない。どこかに出かけるという話も聞いていないし、この時間だったら、買い物に行っているのかも知れない。後でもう一度電話をしようと、自分の席に戻った。

「篠崎さん、お子さんは大丈夫なの?」

 同僚の言葉に我に帰ると、時間はもう午後六時前になっていた。

「ええ、遅くなる時はお隣のおばさんにお迎えを頼んでいるので。ちょっと電話してきます」

 もう一度電話をかけるが、やはり誰も出なかった。

 どうしたのだろう? この時間に出かけているなんて、今までなかったような。お喋りなおばさんだから、ご近所のお家でお喋りして、時間を忘れているとか?

 あまり長く席を外せないと思い、もう一度後で電話をしようと、再び席に戻って仕事を再開した。

 心の中は妙な焦りがじわじわと広がり始めていたが、今は仕事を進めることが大事だと、嫌な予感は振り払った。

 午後六時半、やはり電話は繋がらない。どうしよう……。学童は午後七時までだ。今の私は迎えに行けない。そうは言っても急にお迎えを頼めるような知り合いはいなかった。

 どうしよう……。頭の片隅で考えながら、仕事を進める。おばさんに連絡が取れないなんて、考えもしなかった。どうしよう……本当に!


 とうとう午後七時前になってしまい、私は覚悟を決めた。もう一度おばさんに電話をする。やはり、出ない。私は大きく息を吐くと、学童の電話番号をメモリーから呼び出して電話をかけた。

「もしもし、篠崎です。いつもお世話になっています。連絡が遅くなってすみません。あの、どうしても今日は仕事で遅くなるんですけど、いつも迎えを頼む人と連絡が取れなくて。それで、責任は全てこちらが持ちますので、拓都を一人で帰して頂けませんか?」

 無茶を言っていることは充分承知していた。でも、ここで押し通さなければ、余計に迷惑をかけてしまう。

「篠崎さん、それはできません。お子さんをこの時間から一人で帰すなんて。確かにまだ外は明るいですけど……」

「すみません。どうしても今すぐに帰ることが出来ないので、せめて明るい間に拓都を帰してもらえませんか? 拓都に直接話がしたいので、お電話代わってください」

 学童の指導員の松田先生は動揺している様だったが、拓都を呼んでくれた。

「拓都? あのね、ママの言うことを良く聞いてね。ママはどうしても今日はお仕事が遅くなるから、お迎えに行けないの。それにね、お隣のおばさんもお留守みたいで、拓都をお迎えに行けないのよ。だから、拓都一人でもお家まで帰って来られるよね? まだ明るいから、大丈夫だよね?」

「うん。大丈夫。一人で帰れるよ」

「そう、偉いね。じゃあ、学童の松田先生に、一人で帰れますって言ってくれる? それでね、お隣のおばさんのお家で待っていてほしいの。おばさんがお留守だったら、お隣の玄関の所で少しだけ待っていてくれるかな? すぐに帰って来てくれるから。待っている間は絶対に玄関の前から動いちゃダメだよ」

 私はお隣のおばさんがすぐに帰って来てくれることに賭けて、拓都を帰らすことにした。最悪なことを今は考えない。絶対大丈夫と自分に言い聞かせる。家の鍵もおばさんに預けてあるから、拓都一人では家にも入れないのだ。

 夏のことだから、夜でも寒くないし、お隣は暗くなるとセンサーで玄関灯が点くから、真っ暗では無い。拓都を一人で待たせることになるかも知れないと、頭の片隅で不安が警告するけれど、今の私にはどうしようもなかった。

 もう一度、指導員の松田先生に電話を変わると、全ての責任はこちらで持つので、今日だけは一人で帰してほしいと、頼み込んだ。今後二度とこのようなことはしないと約束して。

 電話を切ると、すぐにまたおばさんに電話をかける。やっぱり出ない。どうしよう……、子供の足でも約二十分で家に着く。もう一度二十分後ぐらいに電話をしてみようと、また仕事に戻った。


 自分の席に戻ってしばらくすると、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。取り出して見ると、知らない電話番号だった。誰だろう? 拓都に何かあったのだろうか。

 さっきからの不安がどんどん心を支配していく。心臓が大きく鼓動しだした。私は電話に出るために、また席をはずして廊下へ出た。

「はい」

「守谷です」

 えっ? どうして? でも、非通知じゃ無かった。

 私がすぐに返事が出来ずにいると、彼は続けて少し怒ったような口調で話し出した。

「篠崎さん、何を考えているんですか? こんな遅い時間に一年生を一人で帰らせるなんて!」

「すみません。どうしても仕事で帰ることが出来なくて。私が残業の時にいつもお迎えを頼んでいる人に連絡が取れないんです。それで仕方なく……」

「そうですか。それでは私が拓都君を送って行きます。拓都君が言うにはお隣のお家でお母さんの帰りを待たせて貰うらしいですね? お隣のお家へ送って行けばいいんですか?」

「そんな、とんでもないです。先生にそんなこと、してもらう訳にはいきません。まだ明るいから、拓都一人で帰らせてください」

 担任の申し出を、私は思わず断った。今更彼にお世話になる訳にはいかない。

「私は拓都君の担任です。少なからず自分のクラスの児童には責任があります。こんな時間に一人で帰ると分かっていて、知らんふりはできません。お隣のお家まで送るだけですから」

 ああ、そこまで言われて、反論もできない。でも、お隣は今、お留守だし……。どうしよう?

 彼が送って行ってお留守だったら、なんて言うだろう?

 でも、丁度おばさんが帰って来るかも知れないし……。どうしよう、どうしよう。

「じゃあ、今から送って行きますので、また送り届けたら連絡を入れます」

 私がグルグルと考え込んでいる内に、彼は痺れを切らせて、電話を切ってしまった。

 どうしよう? お留守だと分かったら……。そんなところへ帰らせたのかと、子供をお留守の家の前で待たせるつもりだったのかと、きっと怒るだろう。

 私はもう一度、おばさんに電話をした。呼び出しのコール音は、虚しく繰り返すだけだった。

 私が席に戻って仕事を始めると、すぐにまた携帯が震えた。私は息を吐いた。おばさんが帰って来ていて、間に合ったのか、それともやっぱりお留守だったのか。

 私は周りの人に、何度もすみませんと断って、携帯を取り出して廊下へ出た。

「はい」

「守谷です。篠崎さん、お隣はお留守みたいですが、拓都君が言うには、お留守でも玄関前で待つように言ったそうですね? お留守だと分かっていたんですか? 拓都君はお家の鍵も持っていないと言うし……」

 彼は怒りよりも呆れたという様な声で説明する。やっぱり、帰って来ていなかったか。

「すみません。お隣になかなか連絡がつかないので、もしかしたらと思ったんですが……。鍵もお隣に預けてあるんです。お隣が今夜出かけるということを聞いていなかったので、すぐに帰って来ると思っていたんですが……」

 どんなに言い訳したって、拓都を留守のお隣へ一人で帰らせたという事実は、取り消し様がない。

 どうすればいい? ここで拓都を置いて帰ってくださいなんて、言える訳がない。本当にどうしよう。

 その時、彼が大きく溜息を吐くのが聞こえた。

「わかった。俺の家で預かるから。大学の時と同じ所に住んでいるから、覚えているだろ? 県庁から近いし、仕事が終わったら、帰りに迎えに来て。一応、終わったら連絡を入れて。非通知で電話しなかったから、俺の番号は履歴に残っているだろ?」

 彼は急に砕けた言い方で早口に言いたてた。

 私は彼のタメ口に驚いてしまって、言っている内容を聞きとることが出来なかった。

 どうして? どうして、急に話し方が変わったの? 

 それは、あの頃を思い出す様な物言いで……。

 担任と保護者の溝を一気に飛び越えた様な口のきき方だった。

「えっ?」

 私は、彼の言葉が上手く理解できず、思わず驚きの声を上げてしまった。

「だから、これは担任としてじゃなくて、昔の知り合いとして、拓都を預かるから。仕事終わったら連絡して来て。わかったか?」

 昔の知り合い……。もう私は昔の知り合いでしかないんだ。

 そのことにショックを受けてしまう自分が痛かった。

 そんなことより、彼は今、あえて昔の知り合いとして、私を助けてくれるのだと言うのだ。

 その優しさが辛いけれど、今の私は、彼を頼るしかない。こんな形で、彼を頼ることになるなんて。

 あの時、彼を頼ることは出来ないと背を向けたのに。

「すみません。今日だけ、今だけ、お世話になります。二度とこんなことがないよう、気を付けますので。本当にすみません」

「ああ、二度とないよう、願いたいね。じゃあ、仕事の方、頑張って」

 電話が切れた後、しばらく呆然と立ち尽くしていた。

 こんなことになるなんて。これも運命なのなら、私は恨まずにいられない。

 彼の優しさに胸が詰まる。

 零れそうになる涙を、ぐっと奥歯で噛みしめて、私は仕事に没頭した。それこそ余計な思考が入り込まない様に。

 結局仕事が終わったのは、午後十時を回っていた。彼のお陰で、時間を気にせずに仕事が出来て、感謝せずにはいられない。もしも、あのまま拓都を一人で帰していて、この時間まで一人でお隣の前で待っていたとしたらと考えただけでもゾッとする。


『今日はありがとうございます。仕事は今終わりました。遅くまですみませんでした。今から拓都を迎えに行きます。マンションに着いたら電話をします』


 私は職場の駐車場に停めた自家用車の中からメールを送った。出来るだけ彼の声を聞かない様に、震える胸の内がバレてしまわない様に、電話をかけずにメールで仕事が終わったことを連絡した。

 彼のマンションは車で五分程の場所だ。まだ覚えている。忘れるはずなんか無い。何度も通った彼の部屋。社会人になってからは、週末はほとんど彼の部屋で過ごしていたのだから。

 マンションのそのたたずまいを見ると、思い出が一気に押し寄せて来た。もう二度と訪れることは無いと思っていたのに。

 到着して停めた車の中で大きく深呼吸をした。震えるこの気持ちを何とか抑え込んで、携帯の着信履歴の一番上の番号を選んだ。コール一つですぐに繋がった電話が、彼が待っていてくれたことを教えてくれる。

「はい」

 第一声の彼の低い声に胸が震えた。

「あの、今着きました。遅くなってすみませんでした」

「ああ、お疲れ。拓都、寝てしまったんだよ」

「すみません。いつもならもう寝ている時間なので……」

「拓都は俺が車まで抱いて行くから、ランドセルを取りに来てくれるかな?」

「はい。わかりました」

「じゃあ、待っているから……。部屋はわかっているよね?」

 いちいち確認するのはやめてほしい。忘れるはずなんかないのに。

 私は「はい」と答えると、電話を切って車から降りた。


 五階建てマンションの三階の一番奥の部屋。

 本当は部屋までは行きたくない。思い出に押しつぶされそうだから。

 ここに愛先生は来たのだろうか? きっと来たことがあるのだろう。

 ごめんなさい。こんな形でも、元カノが彼の部屋へ来るなんて嫌だろうな。

 二人の邪魔する気なんて、無いから許してください。

 心の中で頭を下げる。

 彼は愛先生に今日のことは言わないだろうけど、やっぱり、申し訳ない。

 エレベーターを降りて廊下を歩く。一歩一歩近づく彼の部屋のドア。

 鉄の扉の向こうは、もう私の知らない世界。



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