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いつか見た虹の向こう側【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
第一章:再会編
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【二十】封印する想い

 私の中の私が愛した守谷慧という存在は、三年前のまま時が止まっている。今現実に目にする担任の守谷慧は、私の知らない彼だ。きっと、彼が目にする今の私も、彼の知らない私に違いない。二人の間に流れた三年という月日は、お互いを知らない人間に変えて、出会わせた。

 だから、彼が真実を知って、三年前の私の嘘に気付いたとしても、もう今の彼には時効でしかなく、気にすることは無いのかも知れない。

 とにかく、彼を意識しすぎる自分がいけないのだ。分かっているけれど、彼と再会した途端封印は解かれ、溢れ出た想いは傷となって私を苦しめる。

 こんな想いも、今だけ。この一年を乗り切れば、もうほとんど彼と会うことも無いだろうし、そのうち彼も別の小学校へ転勤になるだろう。そうすれば、又心の奥に封印して、永久凍土のごとく死ぬまでこの想いは閉じ込めてしまえばいいんだ。

 この一年さえ乗り越えれば……。


 給食試食会から約一週間後の六月二十八日、初めて夜行われる広報の第二回会議。

 いつもより早く拓都と夕食を済ますと、拓都をお隣のおばさんに預けて、学校へと急いだ。薄暗い中、電灯の灯った校舎へ入ると図書室を目指した。

 午後七時から始まる会議ぎりぎりに図書室へ入ると、もう全員が集まっていた。入るなり皆がこちらを向いたので「こんばんは」と挨拶をして、すぐさま手を振っている西森さんの隣に滑り込んだ。


 全員といっても、前回は広報の役員全員だったけれど、今回はその半数の夜の部の人達だけだ。八名のメンバーが図書室の大きな机を囲み、順番に担当の記事や写真を説明して提出する。西森さんが守谷先生から預かったUSBメモリーを示しながら、守谷先生の提案によりデータでの提出をしてもらったことを告げ、今後先生からはデータの形で提出してもらうと、入力仕事が軽減されるのでそうしてほしいと、要望を出した。そして、皆の賛同が得られると、私はやっとホッとした。

 委員長が今夜する仕事の流れを説明する。記事を入力してくれる人はいませんかと言うので、そのぐらいならと思って手を上げると、私一人で驚いてしまった。

 え? 私、出しゃばった?

「それじゃあ、篠崎さんにお願いするわね」

 そう言われて顔を上げると、委員長がニッコリと微笑んだ。私は委員長から入力の仕方の説明を受け、入力を始めると、他の皆は、見出しやレイアウトをガヤガヤと話し合い始め、私は与えられた仕事に没頭していった。

「美緒ちゃん、タイピング早いね。仕事で入力をしているの?」

 いつの間にか隣に来ていた西森さんが訊いて来たので、私はパソコンの画面から目を話さず「いろんなことをするけど、パソコンでの仕事が主ですね」と答えた。

「篠崎さんって、どこにお務めなの?」

 西森さんの反対側から聞こえて来た声に、手を止めて顔を上げると、委員長が微笑んで私を見ていた。

「えっ? 県庁ですけど……」

「ええっ? 美緒ちゃんって公務員さんだったの?」

「ええ、一応県職で……」

「へぇ、そうなんだ。意外な事実!」

「どうして意外なんですか?」

「いや、どこかの会社の事務員さんかなと思っていたから、公務員は想像外だった」

 なによそれと思ったけれど、まあ、これも西森さんのいつもの会話だよねと納得した。そんな私達の会話を委員長は微笑んで見ていたけれど、近づいて来たメンバーに声をかけられ、そちらを振り返っていた。私は、入力を再開し、西森さんは隣に座って、私の様子を楽しそうに見つめていた。


「ねぇ、ねぇ、中野さん。守谷先生の噂、聞いた?」

 委員長に話しかけたメンバーの声が聞こえ、私は西森さんと顔を見合わせた。またあの噂のことかと、お互い目線で会話する。中野さんというのは委員長のことだ。私と西森さんは、守谷先生というキーワードですぐに耳を澄ませた。

「守谷先生って、愛先生と付き合っているって本当?」

 愛先生と付き合っている?

 私の心臓は急にスピードを上げた。これは聞いてもいい話だろうか?

「誰に聞いたの?」

 委員長は少し声を落として訊き返した。

「友達なんだけどね、友達の友達が、守谷先生と愛先生がデートしているのを見たんだって。だから、委員長なら何か知っているかと思って……」

 声をかけた彼女も声のトーンを落として話しているけれど、すぐ横にいる私達の耳には充分に聞こえた。西森さんが驚いた表情をしている。これも想像外だったのだろう。私も同じだけれど。

「私も噂でしか知らないけれど、どうもそうらしいわよ」

「そうか……。守谷先生ぐらいカッコ良ければ、フリーのはず無いよね。でも、愛先生か……。確か、愛先生の方が年上だよね?」

「そう、二つ上だったと思う。でも、お似合いじゃない? いいことよね守谷先生にとっても。去年みたいなことがあると、いろいろ言われちゃうから、きちんとお付き合いしている人がいる方が、守谷先生にとっても良いことだよ」

「そうだよね。あの時もいろいろ言われていたものね。最近も守谷先生は大学時代、女遊びが激しかったとかいう噂があったし……」

 私はもう、二人の会話が耳に入らなくなっていた。横で西森さんが「愛先生か……」と呟いている。私はキーボードの上で手が止まったまま、点滅するカーソルを見つめていた。


 終わった後、校舎から駐車場まで西森さんと並んで歩いていると、西森さんが苦笑交じりに口を開いた。

「驚いたね。守谷先生のことだから、彼女ぐらいはいるかと思っていたけど、まさか愛先生とはね。思い返してみたら、PTA総会の時も二人で話をしている雰囲気、よかったものね。だけど、守谷先生は同じ学校の先生とは付き合わないと思っていたんだけどな」

 私はぼんやりと聞いていた。西森さんの言葉が私の耳を避けて通り過ぎていくようだ。

「ねっ、美緒ちゃん?」

 名前を呼ばれて我に帰ると、私はこちらを見ている西森さんに「えっ?」と訊き返していた。

「もう、聞いていなかったの? だから、委員長の言う様に、守谷先生はきちんとお付き合いしている人がいる方が良いって話よ。保護者とのことで変に誤解を受けるより、愛先生と付き合っていることが公になった方が、守谷先生にとっても良いことなんじゃないかな? って訊いているの?」

「あ……、そうですね」

 どうも頭がよく回らなくて、西森さんの言葉も上手く聞き取れない。心が全てを拒絶する。

「どうしたの? 何か心配ごとでもあるの?」

「いえ、大丈夫です」


 ダメだ、ダメだ。

 こんな状態だと西森さんに心配をかけてしまう。それよりも気付かれてしまう。

 美緒、分かっていたことじゃないの!

 彼女がいるだろうことぐらい、分かっていたでしょう?

 それが誰かわかっただけのことじゃないの!

 期待していたわけじゃないでしょう? 

 この気持ちはもう一度封印するのでしょう?

 もう、私と彼の人生は、遠く離れてしまっているのだから。


「美緒ちゃん、まさか……」

「いや、違います。ちょっと他のこと考えていて。ごめんなさい。心配かけて」

「そう? それならいいんだけど……。心配事があるのなら、相談に乗るから、何でも言ってね?」

「ありがとう。又いろいろ聞いてください。それじゃあ、今日はお疲れさまでした」

 ちょうど駐車場にたどり着いたので、私は逃げるように小学校を後にした。


 西森さんに気付かれてしまっただろうか?

 きっと変に思ったに違いない。

 誤魔化し切れていなかっただろうな。

 私は車を運転しながら、大きく息を吐いた。

 一番驚いたのは、取り繕え無い程、自分が動揺したことだ。

 バカだ、私……大バカだ。

 自分から手を離したくせに、再会して、逃がした魚の大きさに後悔したの?

 自分が恋愛から遠ざかっているからって、彼が他の女性と親しくしているのは、許せない?

 自虐的に何度も自分に突っ込みを入れる。

 美緒、しっかりしろ! あなたの選んだ人生は、拓都を立派に育て上げる人生でしょう?

 後悔なんてするな! お姉ちゃんにもお義兄さんにも胸を張れるよう、頑張り通すんでしょう?

 彼を傷つけてまで決意した思いを忘れるな!

 だから、彼が幸せになることを喜ばなければ……。彼の幸せを祈り続けなければ……。


 自宅の駐車スペースに車を止めた後、しばらく降りることが出来なかった。どうしようもなく流れる涙を止める術さえ、今の私には分からなくて。

 どうにか涙が止まった後、先に自宅へ入り、瞼を冷やしてから、拓都をお隣へ迎えに行った。

 情けない。自分の弱さが、周りのみんなに迷惑をかけてしまう。

 私は鏡の中の自分に誓った。彼のことで泣くのは、今日が最後。

 この想いも、弱い私も、もう一度心の奥に暗示をかけて封印する。

 彼と私は、ただの担任と保護者。ただ、それだけと。


 その夜、拓都を寝かした後、珍しい人から電話があった。

「もしもし、美緒? 元気だった?」

 やけに明るい声で電話をかけて来たのは、本郷美鈴だった。高校、大学と同級生で、一番仲の良かった彼女は、遠く離れた場所にいる今でも、時々電話やメールで連絡を取り合っている。

 彼女は大学時代教育学部の養護教諭コースだったけれど、同級生の彼氏が東京で就職するのに合わせて、結局民間の会社に就職したのだった。自分の希望した職種を諦めてでも、彼の傍を離れなかった彼女の想いの貫き方が、ある意味潔くて羨ましかった。

「うん、元気だよ。久しぶりだね。この前電話で話したのは、三月頃だっけ?」

「そうそう、あれから美緒、実家へ帰ったんでしょう? 拓都君は小学校へ入学したんだよね? どう? 小学校は」

 小学校と聞いて、心臓がドクリと跳ねた。脳裏に浮かんだ顔を、すぐさまかき消す。

「自分の母校だし、学校の勉強とか様子が懐かしいよ」

「なんだか美緒が小学生の保護者だなんて、不思議な気がするよ」

「まあね、自分でもそう思う。そうそう、お隣のおばさんには、とてもよくしてもらっているよ。よく夕食のおかずを持って来てくれたり、夕食に招いてくれたり。なんだか本当のお母さんみたいなの」

 お隣のおばさんは、美鈴の母親の姉で、美鈴の伯母にあたる。私の姉が亡くなった時も、私は何も考えられなくて、自分の友達に連絡することさえ気づかなかった。それをお隣のおばさんが、葬儀が済んでからだったけれど、美鈴に連絡してくれて、美鈴からすぐにお悔やみの電話を貰い、その年のお盆に初盆参りに来てくれた。

「伯母さんは面倒見がいいし、子供や孫がみんな県外にいるから、美緒と拓都君を娘や孫だと思っているんだよ。しっかり甘えとけばいいよ」

「充分甘えさせてもらっていますよ。それより、美鈴の方はどうなの? また小野君とケンカしたんじゃないでしょうね?」

 前回美鈴が電話をして来た時は、小野君の浮気疑惑でケンカして、その勢いで電話して来たのだった。

「ハハハ、あの時はごめんね。美緒に愚痴を聞いてもらって、落ち着いたよ。大丈夫だよ。今日は良い報告」

「良い報告って、もしかして、とうとう結婚?」

「フフフ、近いけど、結婚はまだなの。私達って時々ケンカするけど、その原因って仕事が忙しいために会えないこと多くて、必要以上に疑心暗鬼になっちゃうことなのよね。だから、少しでも二人の時間が持てるように、一緒に住もうって言ってくれたの。結婚はもう少し後かな? 彼ももっと仕事に自信が出来てから考えたいって言うし……」

 嬉しそうに話す美鈴の声を聞きながら、彼女の幸せそうな顔が浮かんだ。彼女は顔が派手な作りの美人で、性格もサッパリして、アネゴ肌っぽいところがあるけど、彼の前では乙女なのだ。

「そっか。おめでとう。良かったね」

「うん。でも、おめでとうはまだ早いわよ」

「同棲するなら、事実婚みたいなものじゃないの? その内、でき婚なんて言うんじゃないの?」

「ハハハ、出来ればそれは避けたいけどね」

 機嫌の良い美鈴の声を聞きながら、心から良かったと思った。

自分が希望していた職業よりも彼の傍にいることを選んだ彼女だから、結婚へ近づいていくのは嬉しい。

「でも、本当に良かった。小野君のアパートで一緒に住むの?」

「そう、彼の所は私の所よりも広いからね。今週末に引っ越しするのよ」

「そっか。また新しい住所教えてね? 何かお祝いでも贈るよ。何がいい?」

「結婚じゃないんだから、いいよ」

「でも、美鈴にとったら結婚みたいなものでしょう? 何かお祝いさせて?」

「じゃあ、エプロン」

「白くてレースがヒラヒラの?」

 美鈴が「そうそう」と笑うと、私もクスッと笑った。

 そう高校生の頃、二人でデパートへ買い物に行き、売り場に飾ってあった豪華なレースの白いエプロンを見て、「こんなエプロン、恥ずかしくてできないね」と笑いあったのだ。そのエプロンは、ウェディングドレスの様に見えたから。

「了解。すごく豪華なのを探すよ」

「フフフ、それじゃあ私も、美緒の時には、とっておきのを探してくるから」

 私の時? そんな日は、来ることは無いだろう。

「そうだね……」

 私は自嘲気味に答えた。

「そうだねって、少しは前向きになって来たの?」

「前向きって?」

「もう、恋愛も結婚もしないって言っていたじゃないの。今までは仕事と子育てに必死そうだったから。もう三年経って、拓都君も小学生になって、ちょっとは自分のこと考える時間が出来たんじゃないの?」

 ああ、そうだ。美鈴は、何もかも知っているのだった。

 今まで何も言わずに見守って来てくれたのだ。


 姉の死後、最初に電話をして来てくれた時、美鈴は『美緒には守谷君がいるから大丈夫だよね?』と確認する様に私に言った。きっと、姉夫婦が亡くなり、頼る人がいなくなった私に、慧の存在が支えてくれると言いたかったのだと思う。でも、美鈴には嘘がつけなくて、私は『慧とは別れたの』と告げた。慌てた様に『どうして?』と訊く美鈴に、私はそれまで抑え続けて来た心情をぶつけた。

 だって、まだ学生の彼に何を頼れっていうの?

 私には大きな責任があるのに、未来のある彼を巻き込みたくないの。

 私といると、彼まで不幸にしてしまうかもしれない。

 それが怖いの。彼まで失うことになったら……。

 もう、私と彼の人生はすっかり別のものになってしまったの。

 美鈴は根気よく黙ったまま、私が泣きながら吐き出すのを受け止めてくれた。そして、私が落ち着くのを待ってから、ポツリポツリと問いかけてきた。

 『彼はお姉さん夫婦が亡くなったこと、知っているの?』と。

 『彼とはなんて言って別れたの?』と。

 私は、彼は知らないし、知らせるつもりも無いと答えた。その上、姉家族は海外赴任のため一家で引っ越したと嘘を吐いたことも言った。そして、彼には好きな人が出来たと言って別れたのだと、告白した。

 それらを聞いた彼女は、反論もせず、ただ受け止めてくれた。


 私は、私を信じていてくれた彼を裏切ったのだから、もう二度と恋も結婚もしないと美鈴に宣言した。自分の決意を誰かに告げなければ、くじけそうだったから。

 あれから美鈴は、拓都と私の生活については尋ねて来たけれど、彼のことや恋愛のことなんかは、一切尋ねなかった。今までの様に美鈴自身の恋愛話は面白おかしく話すけれど、私にはけしてそんな話を振ることは無かった。

 あれから三年経って、今まで何も言わなかったのは、美鈴の思いやりだったのだと気付いた。そして、そのことをとても心配していてくれたのだと、今更ながらに理解した。

「私は、拓都がいてくれたら、それでいいの」

 私がポツリとそう言うと、電話の向こうで溜息を吐くのが分かった。

「美緒は恋愛事に不器用だから。でも、いつまでも拓都君も美緒の傍にいる訳じゃないんだよ」

 そう、不器用だから、この恋心も上手く消してしまえない。

 拓都もいつか私から離れていくことはわかっている。

 その時に拓都の負担になりたくないと思うだけ。

「拓都が結婚したら、私も婚活しようかな」

 私が自嘲気味に言うと、小さく「バカね」と呟く声が聞こえた。




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