【十九】交差するベクトル
「美緒さん」
いきなり名前を呼ばれて、ドアの方を見ると、先程担任が入って来た時に開け放したドアから、教育実習生の安藤さんが入って来たところだった。
「あ、詩織ちゃん。こんにちは」
私は笑顔で挨拶をした。彼女の姉である香織と数年ぶりに電話で話せたからか、最初の時とは違い、ずいぶん親しみを感じていた。
「美緒さん、お時間あったら少しお話したいのですが……」
彼女が少し遠慮がちに言いかけると、私が返事をする前に担任が口を開いた。
「安藤さん、篠崎さんは教室で子供を待たせているんだ。無理を言ったらダメだよ」
えっ?
どうして、ここで口を出すの?
私が驚いた顔で担任を見ると、少し冷たい表情で安藤さんを見ていた。
「大丈夫よ。私がウチの子と一緒に拓都君を見ているから、心おきなくお話してね。この間もあまり話せなかったみたいだし」
西森さんがいつもの調子で、ヘラリと笑って言った。
「わぁー、すみません、ありがとうございます。少しだけお時間良いですか?」
安藤さんは嬉しそうな顔をして、西森さんにお礼を言っている。だけど、当事者の私がどうもカヤの外のような気がしてしまう。
「美緒ちゃん、そういうことだから、先に行っているね。ゆっくりお話すればいいからね」
西森さんに声をかけられ、自分がぼんやりとしていたことに気付いた。私はハッとすると、出て行こうとしていた西森さんの腕に、慌てて手をかけた。
「千裕さん待って。拓都は学童へ行くように言ってくれればいいから、先に帰ってください」
「あら、いいわよ。子供達は一緒に遊んでいる方が楽しいだろうし。気にしないで」
「いいえ、どちらにせよ学童へ寄らないといけないので。それに、千裕さんにも悪いし……」
「そっか。美緒ちゃんは、気を使い過ぎるから、学童の方がゆっくりできるね。わかった。拓都君を学童へ送って、帰るわね。私のことは気にしないでね」
気を使い過ぎるのは西森さんの方だと思いながらも、西森さんの優しさに甘えることにした。
「すみません。じゃあ、拓都を学童までお願いします。今日はお疲れ様でした」
私がペコリと頭を下げると、西森さんはフフフと笑って、「じゃあ、お疲れ。またね」と言って出て行こうとして、思い出したように担任の方を向いた。
「守谷先生、何ボケっとしているんですか? 今日はお疲れさまでした。またよろしくお願いします」
私達の話が終わるまで、担任は無表情でその場に立ち尽くしていた。西森さんの言葉に我に帰ると、「あっ、すみません。お疲れ様でした」と言葉を返した。そして、西森さんの後姿を見送ると、私と安藤さんの方を向いて「安藤さんはこの後大丈夫なの?」と声をかけた。安藤さんが笑顔で「はい、大丈夫です」と答えると、「それじゃあ、お疲れ様でした」と言うなり、踵を返して会議室を出て行った。
私は彼の姿がドアのところから見えなくなると、ホッと息を吐いた。途端に緊張が解けた。そんな私を見ていたのか、彼女は私を心配気な眼差しで見ると口を開いた。
「美緒さん、守谷先輩……あ、守谷先生がいると、緊張しますか?」
え? 私、そんなに分かりやすい態度だっただろうか? 私の緊張は、人にも感じるほどなのだろうか?
「いえ、そんなこと、ないよ。どうして?」
「守谷先生が出て行った途端、緊張が解けた感じがしたから。でも、守谷先生なら、それも分かるなって思って……」
ああ、又、彼の話か。この話に乗ると、調子に乗って喋られそうだから、今日は回避しなくちゃ。
「そんなことより、話ってなんだったの?」
「ああ、ごめんなさい。実は、この間、姉から電話があって、怒られました。人のプライバシーを詮索するなって! 美緒さん、不愉快な思いをさせて、ごめんなさい。あんまり懐かしくて、つい、いろいろ聞いてしまって……」
しょんぼりした様な顔で謝る彼女が、急にかわいそうになって、私は笑って「気にしてないよ」と答えた。
「香織と何年かぶりに電話もできたし、詩織ちゃんにも会えて、懐かしかったし……」
「わー、そう言ってくれると嬉しいです。私、あの頃、美緒さんに憧れていて。ウチのお姉ちゃんなんかより、ずっとおしとやかで優しくて。それでいて、キャプテンなんてするほどしっかりしたところもあるし……。理想のお姉さんでした」
「詩織ちゃん、買い被り過ぎよ。私なんてガサツで、気が強くて、頑固だし……。詩織ちゃんが思っているような女性じゃないわよ」
私は、彼女がいう私の姿と現実のギャップに思わず苦笑してしまった。
「そんなこと無いですよ。高校生の頃と全然変わらなくて。あっ、子供っぽいっていう訳じゃないんですよ。今はそれなりに大人の女性に見えます。ただ、雰囲気が変わらないっていうか、ホンワカした暖かいイメージで、笑顔が癒し系っていうのかな……」
「詩織ちゃん、もう無理しなくていいから」
私は彼女が一生懸命私を褒めようと苦戦しているのに、思わず笑みがこぼれた。
「そう、その笑顔! 美緒さんだって感じ」
彼女の言い方に、私はとうとう噴き出してしまった。
「もう、詩織ちゃんたら……」
「本当に美緒さん、全然変わらないよ。小学生のお子さんがいるなんて信じられない!」
知らないお母さん達に言われたのなら、笑顔で流せるけれど、昔の私を知っている彼女の言葉は、変に私の心に刺さった。彼女は事情を知らないのだからと思おうとしているのに、一瞬顔が強張り、どうにか作った笑顔は、不自然だったかもしれない。
「あっ、ごめんなさい。余計なこと、言ってしまって。いつも一言多いって、守谷先輩に怒られてばかりなのに」
彼女の何気ない言葉に、心がフリーズする。それは、何気に彼と彼女の親しさを表している様な気がした。私がいた頃のサークルでは、彼は女の子達とそんなに親しくなかった。それなのに……。
「守谷先生と仲いいんだね」
思わずポロリと言ってしまって、内心焦る気持ちを隠すように笑顔を見せる。これって、やきもちみたいじゃない。どうか笑顔が、不自然に見えません様に。
「そんな、仲いいなんて……。私が先輩に付きまとっているだけなんですよ。大学の入学式の時、サークルの勧誘をしている守谷先輩を見て、一目惚れだったんです。でもね、あんなにカッコいい人だから、恋愛対象なんて恐れ多くて、妹とか可愛い後輩の座を目指そうと思って、嫌な顔されても先輩の周りをウロチョロしていたんですよ。私って、結構打たれ強いっていうか、めげないっていうか……。お陰で、可愛い後輩ぐらいにはなれたかなって思っているんですよ」
ああ、余計なひと言のせいで、彼女のおしゃべりが止まらない。訊きもしないことを嬉しそうに喋る。私の返事なんて期待していないだろうけど、私は「よかったね」と笑っておいた。
私の知らない、別れた後の彼。このお喋りな、親友の妹と出逢い、彼女の積極的な行動にタジタジとして困りながらも、きっと突き放せず、可愛い後輩として受け入れたのだろうと想像する。
最初は冷たく突き放す様に寄せ付けない雰囲気がある彼だけれど、一度受け入れれば、とても優しく情に厚い人だ。彼女との関係がどのようなものかは分からないけれど、彼女の話を聞いて、胸の奥の治りきっていない傷が、またシクシクと疼いた。
私の知らない彼の三年間。私の知らない人たちと出会い、過ごし、思い出を重ねて行ったのだろう。私がそうであったように。
「詩織ちゃん、教育実習はいつまで?」
私は、いつまでも先輩の話題が止まりそうにない彼女に、別の話題を振った。
「今週いっぱいで終わりなんですよ。せっかく美緒さんに会えたのに。寂しいです」
私じゃ無くて、守谷先生に会えなくなるのが寂しいのでしょ? と心の中で突っ込む。だけど、「最後まで頑張ってね」と笑顔を向けた。その時……。
「なんだ、まだいたのか?」
いきなりドアが開いて聞こえて来た声に、ドキリとして思わず振り向くと、さっきよりは柔らかい表情の担任が立っていた。
「守谷先輩、すみません。もう帰るところです。さっき、先輩の話をしていたんですよ。クシャミしませんでした?」
やっぱり、この子は、一言多い。
私は彼女の言葉に、思わず顔をしかめた。
「おまえ、保護者に余計なこと言うなよ」
今までと違い、やけに砕けた担任の物言いに、普段彼女とそんなやり取りをしているのだと見せつけられている様な気がした。
ただの保護者でしかない私と、可愛い後輩の彼女。
安藤さんは、「余計なことなんて言っていません」と言いながら、私に向かって舌を出している。私はどうにか笑顔を返しながら、「じゃあ、これで……。お姉さんにもよろしくね」と彼女に言った後、「失礼します」と言いながら小さく会釈すると、彼の横をすり抜けて会議室を後にした。
こんな風に私達のベクトルは一瞬交差するけれど、その後はどんどんと離れて行く。この一年間は、長い人生からしたら、ほんの一瞬の交差なのだと思う。この一年が終われば、後はもう二度と交差することの無いお互いの人生。
それは私が選んだことなのだと、もう一度自分に言い聞かせた。
*****
「ママ、朝顔見てくれた?」
拓都の言葉でようやく朝顔の存在に気付いた私は、自分の迂闊さに落ち込みながら、謝った。
「拓都、ごめんね。いろいろ忙しくて……」
「僕ね、翔也君のママと翔也君と一緒に見に行ったよ。もう葉っぱが一杯出て来ているんだよ」
責めない拓都の優しさに許されながら、私はまた「ごめんね」と呟いた。
翔也君のママである西森さんにも、お世話になったんだ。後でお礼のメールをしておこうと思いながら、夕食の後片付けをした。そして、拓都と一緒にお風呂に入って、寝かしつけながら本を読んであげる。
これは、保育園の頃からの習慣で、市立図書館で借りた本を、毎晩少しずつ読むことにしていた。保育園の頃は絵本ばかりだったけれど、小学生になってからは、低学年向きの児童書を読むようになった。拓都も自分で読めるようになって来たけれど、自分で読むと文字の方に気がいって、お話の世界に入り込めないようで、もうしばらく寝る前の読み聞かせは続けようと思っている。
「ママ、またあの『にじのおうこく』を読んで欲しいな」
拓都の大好きな絵本『にじのおうこく』。時々この絵本を読んで欲しがるのだ。けれど、私は、この絵本は封印したいと思っている。この絵本は、担任である彼の兄嫁が書いた絵本だった。
絵本大賞を取って話題になり、私も気に入って購入していたこの絵本の作者が、彼の義姉の書いたものだと知った時は、とても驚いた。そして、一度だけ会わせてもらい、ますますファンになった。
彼女は高校生の頃、友達に絵を描いてもらって、このお話をインターネットで公開し、人気になったそうだ。周りの勧めもあり、絵本大賞に応募したら、見事に大賞を取ったということだった。
「うん。また今度ね」
そう言って誤魔化す自分が、情けなかった。彼と再会してから、手に取ることも出来ない絵本。どうして手元に残しておいたのかなと自分を恨みたくなった。




