【十七】小さな嵐
「もしかして……、美緒さんじゃないですか?」
え? 誰?
私は、そういう彼女が誰かわからず、唖然としたまま彼女を見つめていた。
「すみません。私、安藤香織の妹の詩織です。美緒さんですよね?」
安藤香織。その名前を聞いて、一気に記憶が蘇った。高校の頃の友達で、クラブの仲間だった彼女とは、彼女の家にもクラブの仲間達とよく遊びに行く仲だった。
そういえば、彼女の家へ遊びに行くと、小学生の妹がすぐに私達の中に入り込んで、一緒に遊んでいたっけ。あのときの小学生が、今目の前にいる彼女?
「えっ? 香織の妹なの? あの頃、小学生だった?」
私がそう聞き返した途端、彼女は破顔一笑した。
「そうです。うわぁ、懐かしいです。美緒さんぜんぜん変わっていないけど。えっと、七、八年振りですよね?」
「もう、そんなになるのねぇ。そういえば、あの後、引越ししたんじゃなかった?」
「そうです。父が転勤族でしたから。今はK県にいます。私は大学でこちらへ戻ってきたんです。姉は短大を出て東京で就職しました」
そうだった。香織の父親は転勤の多い職場で、高校へ入る時に引っ越してきて、卒業と同時に又引っ越したのだった。結局この町にいたのは三年間だけだったっけ。
「そう、香織は元気なの? もう年賀状のやり取りしかしていないから」
「元気ですよ。キャリアウーマンになるんだって、頑張っています」
安藤さんは嬉しそうに姉の近況を伝えてくれた。
「ねぇ、ねぇ、篠崎さん、お知り合いだったの? 世間は狭いわねぇ」
西森さんが突然口を挟んだけれど、ニコニコして、会話に自然に溶け込んだ。
「そうなのよ。もうビックリ。懐かしいわね。香織にもよろしく伝えてね」
私も笑顔で西森さんに答えた後、安藤さんにもニッコリと笑った。
「はい。姉も驚くと思います。そういえば、美緒さんもM大でしたよね? 姉がそう言っていたのを思い出しました。私の大先輩ですよね。そうしたら、守谷先輩の先輩にもなる訳だ。あっ、もしかしたら守谷先輩と同じ時期に大学にいたことになりますよね? 守谷先輩は目立っていたから、ご存知でした?」
私はここで初めて、とても危険な方向へ話が向いていることに気づいた。屈託の無い笑顔で話す安藤さんには、何の邪心も無い。それでも私の心が危険レベルを超えたと警告していた。
「いえ、私は経済学部だったから」
差しさわりの無い返事をしながら、これ以上突っ込むなと心で願っていた。
「安藤さん、これ以上私語を続けるなら、本当に出て行ってもらうよ」
担任が痺れを切らして、脅すように言う。
「すみません。懐かしくて、つい……」
安藤さんは、担任の言葉に、一気にしぼんでしまい、素直に謝った。私も同じように私語をしていたので「すみませんでした」と謝った。そして、話し合いを続けようとした矢先、又安藤さんが「あれ?」と声を出した。どうにも彼女は、学習能力が無いようだ。
「どうして美緒さんが、ここにいるの?」
安藤さんは今更な質問をした。けれど、その疑問に一番気づいて欲しくなかった。
「そんなの、役員だからに決まっているでしょう? 何の見学をしているつもりだったの?」
私が答える間も無く、西森さんが合いの手を入れるように、さらりと答えると、クスクス笑いながら突っ込みまで入れている。しかし、安藤さんは、西森さんに突っ込まれたことさえ気づかずに、驚いた顔をした。
「ええっ? 美緒さん、お子さんがいるんですか?」
ああ、気付いて欲しくなかった。
「ええ、まあ……」
私はこれ以上訊かれたくなくて、訊くなオーラを出しながら、短く答えた。
「安藤さん、何度言ったらわかるんだ?」
担任は、少しキレ気味に睨んでいる。
「すみません。すみません。もう何も言いません」
安藤さんはぺこぺこ頭を下げると、声が出ない様に手で口を覆った。その情けない表情と仕草に、私はホッと息を吐いた。
安藤さんは、どう思っただろう? 私の年齢を知っていて、子供の年齢から考えたら、大学生の時に子供を産んだことになる。もうこれ以上、何も訊かないで欲しい。担任と西森さんの前では。
その後すぐ、他の教育実習生が安藤さんを呼びに来た。安藤さんの指導教諭が呼んでいたらしい。彼女は、私達に頭を下げると「失礼しました」と教室から出て行った。その後ろ姿を見送ると、私達三人は、大きく溜息を吐いた。あまりにタイミングが合ったので、西森さんがクスクスと笑いだした。
「なんだか、台風みたいだったわね。それにしても、篠崎さんと守谷先生が同じ大学出身だったなんて。こちらも世間が狭いわね」
西森さんの好奇心のスイッチがまた入ってしまったのだろうか。そのスイッチは、大きな爆弾のスイッチでもあるのに。
「それは、M大が地元の大学だからですよ。この小学校にもM大出身の先生は、多いですよ」
担任は、何でもないことの様に説明した。そう、偶然でも何でもない。この地元が狭い世間というだけの話だから。それで西森さんは納得できたのか、それ以上そのことに触れることは無く、私達は話し合いを再開させた。
「それじゃあ、アンケートの質問内容は、味・量・メニュー内容・盛り付けについての評価と、家で子供と給食の話をするか? その時、どんな話をするか? という質問と、それから、子供の好きな食べ物、嫌いな食べ物。この三点でいいですか?」
担任は、白紙の用紙に書きつけると、私達に確認した。そしてその後、他のクラスの質問内容と合わせて、アンケートの質問事項を決めて行った。
「給食試食会の当日は、最初と最後に学級役員さんに挨拶をしてもらいますので、言うことを考えておいてください。それから、試食会の進行やアンケートの説明等も学級役員さんが主になってしてもらいますので、よろしくお願いします。試食会が終わった後、アンケートを集めて、会議室でクラスごとに集計してもらいます。学級役員さんには申し訳ないけど、試食会の後、残っていてください」
一年一組の担任の先生が、最後に皆に向かってそう言った。
ええっ? 挨拶? 進行? 説明? 学級役員ってそこまでしないといけないの?
私は驚いて西森さんのほうを見ると、上の子ですでに学級役員を経験している彼女は、当たり前のように聞いている。
「西森さん、挨拶や進行係も役員の仕事なの?」
私は小さな声で西森さんに訊いてみた。すると彼女は、ニコッと笑った。
「そうよ、先生は子供達を見なきゃならないから、保護者への対応は役員の仕事なのよ。篠崎さんは、最初の挨拶と終わりの挨拶のどちらがいい?」
ええっ? そんなに気軽に言わないで。
みんなの前に立って挨拶するっていうことだよね?
「後の方がいいかも。でも、何を言えばいいか分からないから、教えてくださいね」
西森さんはフフッと笑うと、「了解」と一言言った。
なんだか今の私って、気の弱い何も一人でできない人間みたいだ。
中・高と学級委員なんかもして来たし、人前で話すことも、それなりにできるつもりだった。でも、今の私は、本物の母親達の前に出ることに気後れしてしまうのか、やはり、担任の目の前ということが、私を怯ませるのか……。
解散後、西森さんと給食試食会の打ち合わせをした。挨拶で言うべきこと、全体の流れ、アンケートの説明はどちらがするのか等、話し合っていくうちに、だんだんと学級役員のするべきことが見えて来た。それにしても、やっぱり役員って大変なのだと実感する。いくら守谷先生のクラスでも、役員になりたがる人がいないはずだ。
「じゃあ、来週の給食試食会は、三十分早めに集合しましょう。直前にもう一度打ち合わせしたいし」
「そうですね。先輩、よろしくお願いします」
私は少しふざけて返事をした。それは別段他意は無く、いつもの明るい西森さんの真似をしてみただけだった。だから彼女は、フフフと笑うと「任せなさい」と胸を叩いた。そして、ふと何かを思い出した様な顔になった。
「先輩と言えば、さっき、教生(教育実習生)の彼女が、篠崎さんは守谷先生の先輩で、同じ時期に大学にいたことがあるって言っていたでしょう? それだと、篠崎さんって何歳なの?」
私の「先輩」と言った言葉が、西森さんの好奇心のスイッチを入れたのだ。
「えっ?」
そう言ったきり、私は言葉を続けることができなかった。頭の中は、どうしよう、どうしようと騒ぎまわるだけで、冷静になれない。
「だから、守谷先生と同じ時期にいたとしたら、最大で三つ違いだよね? 確か守谷先生は今年三年目で、二十四歳ぐらいでしょう? だったら、篠崎さんは二十七歳ぐらい?」
頭の中で危険レベルが跳ね上がった。そして、西森さんに真実を言うのか、言わないのか、決断できないまま、私の表情は強張るばかりだった。そんな私の様子に気付いたのか、西森さんの好奇心旺盛な表情が、すっと萎んだ。
「ごめん。訳ありだった? プライバシーだよね。本当にごめんね。篠崎さんが別に何歳でもかまわないのよ。守谷先生がらみだったから、ちょっと気になっただけで」
西森さんは、自分の好奇心で訊いてしまったことを謝った。
そんな、謝ってもらうことじゃないのに。
自分の年齢さえ言えないなんて。
「こっちこそごめんなさい。変に気を使わせちゃって……。あ、あの私、今二十六歳なの」
そう言った途端、西森さんは驚いた顔をした。やっぱり、か。
今二十六歳なら、拓都は十九歳で産んだことになって、十九歳はまだ大学生で……。
誰だってそのぐらいは想像つく。
でも、こんなに親しくしてくれる西森さんに、何もかも黙り通すなんて、したくない。
「もしかして、学生結婚?」
ああ、また西森さんの好奇心をくすぐっただけだったのかもしれない。
「ごめんなさい。今はこれ以上言えない。でも、いつか、西森さんに話したい。話せるようになるまで、待ってほしいの」
「そっか、わかった。篠崎さん、若いのに、苦労しているんだね」
西森さん、いったいどんな想像しているんだか。
「別に、苦労なんか……。本当にごめんなさい」
「そんな顔しない! 私の方が訊いて欲しくないことを訊いたんだから。まあ、何か困ったことがあったら、いつでも言ってね。私にできることなら、協力するから」
西森さんはそう言うとニコッと笑った。彼女はいつも相手の気持ちを酌んでくれる。いい人と出会えたと、私は心から思った。
「ありがとう。また、いろいろとお世話になると思うから、よろしくお願いします。ところで、西森さんは何歳ですか?」
「え? 私? フフフ、何歳に見える?」
「ええっ? 私、人の年齢当てるのが苦手なんです。三十歳ぐらいですか?」
子供の年齢から考えて、恐る恐る言ってみる。西森さんの上の子は確か九歳ぐらいだったはず。
「うふふふふ、篠崎さんは、いい人ねぇ。私は、三十三歳よ。篠崎さんより七歳も上なのよ」
七歳年上といっても驚かない。私の今一番の親友である由香里さんは、十歳も上だから。
「なんだか社会に出ると年齢差ってあまり感じないですね。学生の頃なら絶対出会わないのに」
「本当にそうだよね。私が高三の時、篠崎さん中一だよ。そう考えると、年齢差を感じるなぁ」
西森さんのその言い方に、私は思わず笑ってしまった。
良かった。話題が明るくなって。
「そういえば、篠崎さんって、美緒って名前なんだね。可愛い名前だねぇ。これから美緒ちゃんって呼んでもいい?」
西森さんが、首を傾げて笑った。彼女は一歩私に近づいた。
三年前から自分の現状を詮索されたり同情されたりするのが嫌で、周りに壁を作って来たと思う。それでも、一人で拓都を抱えての生活は、破綻をきたす寸前で、人の優しさに頼ることも覚えた。
今回実家へ帰ってから、いいえ、彼に再会してから、また壁を高く築いている。人に知られるのが怖い秘密をたくさん抱えて、どこまで周りの人たちに心を開いていいか分からない。
西森さんは、信じていいよね? 誰ともなしに問いかけていた。
「じゃあ、私も千裕さんって呼びますね」
そう言うと、西森さんは嬉しそうに笑った。そして「私にとって、一番若い友達だわ」と言って、また楽しそうに笑った。
*****
「ママ、朝顔を観察してこなかったの?」
すみません。すっかり忘れていました。いろいろあり過ぎたので。
「ごめんね。二十二日に給食試食会があって、また学校へ行くから、その時は絶対に見るからね!」
ああ、今度こそ絶対に。心に言い聞かせる。
「うん。絶対だよ!」
そう約束したのに、その日また思わぬ出来事で、朝顔のことをすっぽりと忘れてしまうなんて、この時には想像もしなかった。




