【十六】役員活動
どうしてだか、小学校へ来ると、必ずどこかで彼の噂を聞く羽目になる。それはやはり西森さんといることが多いせいだ。聞きたくなくても、彼の名を耳にすれば、無意識にそちらに耳を傾けている自分を自覚しては、舌打ちしたくなる。
それでも、彼の悪い噂を耳にすると、嫌な気持ちになって、心の中で密かに弁護している私がいたりする。その内、その弁護が口から出てしまうのではないだろうか。
だから、今日の様に、以前聞いた彼の悪い噂が、密やかに広まり、やがて彼を窮地に陥れるのではないかと、恐ろしい予感に胸が震えてしまうのだ。
彼の傍で、あこがれの職業への夢を語る熱い瞳を見つめていたからこそ、今彼が掴みとったこの現実を、悪い噂などで手放すことが無いよう、今の私には密かに祈るしかできなかった。
そんな風にすこしナーバスな心境で始まった広報の会議だけれど、PTA新聞作りという初めてのことに興味をひかれ、いつの間にか噂話のことは忘れていた。
PTA新聞は学期ごとの年三回発行することになっていて、四ページで構成されている。メンバーが広報委員長、副委員長を含め二十人ほどいるので、二回の会議でだいたい仕上げる予定になっているらしい。一回目の会議は、企画、その企画に合わせて先生や児童への記事依頼、行事等での取材の割り振り等。二回目の会議までに、取材担当者が学年ごとの行事や運動会等の学校行事で写真撮影や説明などのメモを取って記事にまとめておく。そして、二回目の会議では、集まった写真やイラストを選び、記事を入力して見出しを考え、レイアウト用紙の上でレイアウトした後、チェックして、後は印刷会社へ持ち込むという流れだ。
メンバーを昼間作業するグループと夜作業をするグループに分けることとなり、それぞれ希望する方へ別れることとなった。
「篠崎さん、私も夜の部にするよ」
西森さんが、そう言ったので、私は驚いた。
「え? 西森さんは昼間でも出られるんじゃないですか?」
「広報へ誘ったのは私だし、夜の部も面白そうだし……」
夜の部の何が面白いのか分からなかったけれど、私の為に夜の部にしてくれると思うと、申し訳なかった。
「でも、子供達はどうするんですか?」
「会議がある日は、パパに早く帰って来てもらうから。ダメな時は、パパの両親も近くにいるの」
「いいんですか? 私も西森さんが一緒の方が心強いけれど……」
「篠崎さん、拓都君を連れて来るんでしょ? ウチの翔也も連れてこようか? 遊び相手に」
「あ、そのことなら、大丈夫になったんですよ。お隣のおばさんが、夜会議のある日は、拓都を預かってくれることになったんです」
ずっと親しくしていて、母や姉夫婦が亡くなった時に親戚の様にお世話になったお隣のおばさん。おばさんの家は、子供達も結婚して他県で暮らしているので、夫婦二人きりで、隣に住む私と拓都を娘と孫の様に可愛がってくれる。私も母を早くに亡くしている上、頼る人がいないので、甘えさせてもらっているのだ。
いつも夕食のおかずを持って来てくれたり、一緒に夕食を食べようと招いてくれたりと、実家へ帰って来てから、親しく付き合っている。その上、私がどうしても午後七時までに帰れそうにない時は、拓都のお迎えをしてもらうこともお願いしているし、自宅の鍵も預かってもらっている。本当に何から何までお世話になりっぱなしなので、何かお礼をと思って母の日に鉢植えのカーネーションとおばさんの好きな和菓子をプレゼントしたが、おばさんはそんな気を使う必要はないと、自分達がしたくてしているんだから甘えてもらえると嬉しいのだと言ってくれる。
先日、おばさんが「旬の活きの良いカツオを一本頂いたから、夕食を食べにおいで」と誘ってくれた。その時に、役員の話をして、夜の会議に拓都を連れて行くことをポロリと言ってしまった。だから、おばさんが心配して、拓都を預かると言ってくれたのだった。
その後、昼の部と夜の部に別れて話し合いを始めた。四ページの新聞を昼・夜の部それぞれ二ページずつ担当するのだが、前後の一ページと四ページを夜の部が、中の見開き二と三ページを昼の部が受け持つことになった。内容は毎年定番のテーマがある程度決まっているので、それに合わせて取材をし、写真・記事・イラストを用意するのだ。
一学期のPTA新聞の一ページ目の内容は、新年度の校長先生の挨拶文とPTA会長の挨拶文、新一年生のクラス写真とそれぞれの担任のコメント。二・三ページ目は、先生の紹介と一学期の各学年の行事の様子。四ページ目の内容は、企画物と各委員の新会長のコメントだった。
今日の会議が始まるまで一緒にお喋りしていた他のお母さん達は、みんな昼の部に行ってしまい、西森さんが夜の部にしてくれて、内心ホッとした。夜の部は広報委員長を筆頭に八名のメンバーと広報担当の先生二人が昼と夜それぞれ一人ずつ付いてくれることとなった。
一年生の子を持つ親は、私と西森さんだけだったので、一ページ目に掲載する一年の担任のコメントの依頼、回収を任された。依頼するコメントのテーマと文字数を示し、原稿用紙を封筒に入れて、後で各クラスの担任に渡し、回収は次回の学級役員会議の時に行うことにした。
印刷会社には、記事は全てデータの形で渡すので、後から書いてもらったコメントを、データ入力しなければいけない。依頼人から提出された手書きの記事を、表現が適切でないところとか、誤字脱字等の見直し、訂正を行った後、入力作業をする。
私は、最初から先生達にテキストデータの形で提出してもらったら、見直し訂正の修正だけで済み、楽なのにと、記事依頼の作業をしながら思っていた。しかし、これが今までの広報のやり方で、今年小学校に入ったばかりの新米保護者には、提案する勇気はとても無かった。
四ページ目の、企画物について話し合いが行われた。普段学校へ余り来ることが無く、学校の様子が分からない保護者に、学校のいろいろな取り組みや、その様子を知らせようというテーマになった。
その具体的な内容として、四年生以上が加入する必須クラブの紹介や学校でのバリアフリーやエコ活動の取り組み等色々な案が出たので、二学期や三学期の企画としても使うこととなった。一学期はまず、必須クラブの紹介と決まり、他のそれぞれの記事と共に担当を決め、今日できる作業を進めていく。
私にとって初めてのことばかりだったけれど、西森さんという経験者がいてくれたお陰で、割合スムーズに作業を終えられた。
次回は六月二十八日で、夜の部は午後七時に図書室へ集合ということになった。解散した後、西森さんと共に一年の担任へのコメント依頼の手紙を渡すため、職員室を尋ねた。
職員室の一年生の担任の机が並んでいる辺りを見ると、二組と五組の先生が座っていた。近づいて、広報からの依頼の説明をすると、快く引き受けてくれ、席を外している他の先生の分も渡してもらうようお願いをして、学校を後にした。
学童へ拓都を迎えに行った後、一緒に買物をして帰宅すると、もう午後五時半になっていた。けれど、いつものことを考えれば、まだまだ早い時間で、学童で宿題を済ませて来た拓都は、楽しそうにテレビのアニメを見ている。宿題を済ませたといっても、親への宿題でもある音読はまだだ。
そして、私はまだ干してあった洗濯物を取り入れ、夕食の用意を始めた。
今日は、一度も会えなかった。小学校へ行ったのに。
ふと、そんなことを考えた自分に驚いた。
情けない。忘れるのだと、リセットするのだと決意したのは、誰だったの?
私は呆然と蛇口から溢れ出る水流を見つめていた。
「ママ、お鍋から水が溢れているよ」
拓都の声に、私は慌ててシングルレバーを下げた。「拓都、ありがとう」ニッコリ笑顔で拓都を見れば、さっきまで水が溢れていた鍋を見つめて「ママ、お水もったいないよ」と一言。私はますます情けなくなったのだった。
*****
六月、太陽はもう夏の顔をして、プールには子供たちの明るい声が聞こえ始めた。
まだ泳ぐことの出来ない拓都でも、水遊びは大好きで、プールの授業を楽しみにしている。
「ママ、今日はね、お水の中に潜ったんだよ」
拓都がそんな報告をしてきたのは、二回目のプールの授業があった日だった。
「わー、拓都、凄いね!」
私は心から感嘆した。この間まで、お風呂で頭を洗っていた時に、顔に水が掛かるだけで、嫌がっていたのに。確かに今は、ゴーグルを着けても良いことになっているから、水の中に潜るのは容易なのかも知れない。それでも拓都のちょっとした成長も、嬉しくなってしまう。
「それでね、守谷先生がプールにおはじきをまいてね、それをみんなで潜って取りっこしたんだ。すっごく面白かったよ。それからね、守谷先生、泳ぐのがとっても上手だった。スイスイってすぐにプールの向こうまで、泳いじゃうんだよ。すごいよね」
拓都が嬉しそうに担任のことを、いつものように自慢気に話す。それを聞いて私は心の中で小さく溜息を吐いた。拓都に言われなくたって、彼が泳ぎ上手なのは、よく知っているのだ。
また蘇りそうになる記憶に蓋をすると、私は「すごいね」と苦笑した。
六月十五日、いつの間にか梅雨が始まり、拓都はシトシト雨のせいでプールができないとふくれっ面だ。
「今日は役員会議があるから、小学校へ行くよ」
私がそう言うと、雲の切れ間から太陽が覗いた様に、拓都の表情はパッと明るくなった。
「ママ、学校へ来るの?」
「うん、行くけど、丁度拓都が学童にいる頃だけどね」
「そっか。じゃあ、僕の朝顔見て来て」
この間から授業で朝顔の種まきをして、芽が出て、大きくなってきたと報告してくれた拓都が、目をキラキラさせて言った。
「わかった。よく観察してくるね」
そう答えると、拓都はまた嬉しそうに笑った。
前回の学級役員会議同様、私は三時半に早退し、小学校へ向かった。今回の会議の場所は、一年一組の教室だった。もうすでに西森さんは来ていて、「篠崎さん、お疲れ」といつもの挨拶をしてくれる。他の役員さんたちにも会釈をし、西森さんの傍まで行くと、私は拓都に朝顔を見てくるよう言われた話をした。西森さんも「翔也も、毎日、朝顔の様子を話してくれるよ。後で見てこようか?」と笑って誘ってくれた。
そうしている内に、担任達が入って来た。一ヶ月以上ぶりに見た担任は、もう夏服で、半袖のポロシャツと綿パンをはいていた。季節の移り変わるのを感じながら、私は「こんにちは」と挨拶をした。
今回は、クラスごとに意見を出し合って、後で全体の意見をまとめることとなった。それぞれの担任とクラス役員二名が、机を寄せて話し合うことになった。学級懇談の時と同じように、三つの机を寄せて座ると、担任がUSBメモリーを西森さんに差し出した。
「これ、広報で頼まれていたコメントです。どうせ後で入力すると思ったので、他の先生の分も一緒にこの中に入っています。メモリーは後で返してもらえればいいから」
え? 私が思っても言いだせなかったこと、彼は気付いてしてくれたのだ。
「わー、守谷先生、賢い! ありがとうございます」
西森さんは、嬉しそうにUSBメモリーを受け取った。
「私もデータで提出してもらえれば助かると思っていたんですが、今までの広報のやり方があると思って、言いだせなくて。助かります。ありがとうございました」
私は嬉しくなって、思わず正直に自分の気持ちを言ってしまった。
「後からそう思っていたと言うぐらいなら、提案すればよかったのに」
担任は私の方へ視線を向けると、冷たくそう言った。その視線に『君ならそのぐらいできるはずだ』と言われた様な気がした。
大学までの私なら、強気で負けず嫌いだったから、きっと言えただろう。大学の時のサークルの会長をしていた時も、大学祭の執行部相手に自分の意見をはっきりと言った。特に相手が男性だと、余計に燃えて、相手を負かしてやろうなんて思うぐらいだった。
でも今の私は、母親達の中にいて同化することも出来ず、かといって孤立するのも怖い。出産を経験している母親達に尊敬と畏怖の念を持ち、出産経験も無い私が母親などと言っていることに負い目を感じて、無意識に目立たずおとなしくしていようとしてしまう。
「そうですね。すみませんでした」
私は居た堪れない思いで、謝った。
「やだぁ、篠崎さん。そんなに真剣にならなくてもいいから。謝ることじゃないでしょ?」
落ち込みそうな私を救いあげる様に、明るく声をかけてくれる西森さん。心の中でありがとうとお礼を言うと、西森さんに笑顔を見せて頷いた。
その時、入口から誰かが入って来る足音がしたと思うと「守谷先輩」と言う声が聞こえた。その部屋にいた全員がそちらを向いた。入って来たのは、若い女性だった。彼女は全員に注目されて、少し恥ずかしそうな、バツの悪い表情をしながら、こちらに向いて歩み寄って来る。
「安藤さん」
担任が、低い声で咎める様に彼女の名を呼んだ。すると彼女は慌てた様に傍まで来ると頭をぺこりと下げた。
「すみません、守谷先生。見学させてもらってもいいですか?」
「井田先生の方は、もういいのか?」
「はい、もう今日はいいということでしたので……」
「じゃあ、その辺にでも座って見学していて。あ、彼女は、教育実習生の安藤さんです」
担任は、彼女に指図すると、私達の方を向いて、彼女を紹介した。すると彼女は立ったまま、またぺこりと頭を下げると、ニコッと笑った。
「お邪魔してすみません。教育実習をさせてもらっている安藤です。守谷先生とは大学が同じで、サークルの先輩、後輩だったんです」
彼女がそう言った途端、私はドキリとした。
サークルの先輩、後輩……。
彼女は今四年生だから、彼が四年の時に彼女が一年だったんだ。
「へぇ、何のサークルだったの?」
西森さんの好奇心に火が着いたようだった。守谷先生がらみの話だから、余計なのかもしれない。
「はい、折り紙サークルです」
ああ、やっぱり。
「ええ? 折り紙? なんだか守谷先生らしくない!」
「らしくないって、どういうことですか? 西森さん」
担任も現状を忘れて、思わず訊き返している。
「ねぇ、篠崎さん。守谷先生と折り紙って、似あわないよね?」
西森さん、こっちに振らないで!
私は心の中で叫んだ。
「そんなこと無いと思うけど……」
しどろもどろに答えたけれど、担任の顔は見られなかった。
「いやぁ、守谷先生なら、テニスサークルとか、イベント企画サークルとか、もっと活動的な感じのサークルの方が似合うでしょう?」
だから、私に同意を求めないで!! 西森さん。
私の心の叫びなど西森さんに届くはずも無く、同意を求める視線が痛い。
「守谷先輩は、とても真面目に折り紙に取り組んでいましたよ。折り紙といっても、巨大なロボットとかを折り紙で作っていたんですよ」
安藤さんは、守谷先生を援護する様に説明する。私は蘇りそうになる記憶を無理やり封印して、西森さん同様、驚いた顔をして見せた。
「安藤さん、もういいから。静かにできないなら、出て行きなさい」
担任の少し怒った様な声に怯んだ安藤さんは、「すみませんでした」と謝ると、傍の椅子に座った。
私たちが、給食試食会のアンケートの内容について話し合っていると、じっと見つめる視線を感じた。それは、安藤さんだった。彼女は丁度、私の正面になる辺りに座っているので、真っ直ぐに私を見つめている。私は思わず顔を上げて、彼女の方を見た。すると彼女は「あっ」と声を出した。
「もしかして……、美緒さんじゃないですか?」




