【十五】噂の行方
一番の不安要素だった家庭訪問が終わり、私はやっと風薫る五月を肌で感じられるようになった。次に担任に会うのは、六月十五日の学級役員の二回目の会議だ。それまでの約一ヶ月間は、呼吸が楽にできそうな気がする。
最近拓都も、守谷先生の話ばかりではなくなり、お友達の話も出るようになった。西森さんの息子の翔也君の話が良く出てくるので、仲がいいのかも知れない。
その日は、残業をしたため、学童が閉まる午後七時にギリギリ間に合った。やはり、拓都が最後だった。「遅くなってごめんね」と謝ると、「今日図書室で借りた本を読んでいたから、大丈夫だよ。とっても面白かったんだ」と、ニコッと笑った。
いつの間にか一人で本を読めるようになったことより、無意識かもしれないけど、私に心配をかけまいとして、大丈夫と言う拓都の優しさに、胸が一杯になる。
これが、子育てのご褒美なのだろうと一人納得しながら、やっぱり私は拓都と過ごす日常が、私にとっての幸せなのだと自覚した。
家に戻ると、拓都が私宛の封筒を持って来た。学校から役員宛のお知らせらしい。その封筒には、五月二十日の金曜日の第一回全委員会会合の詳細及び、今年度の委員会メンバーの一覧が掲載されたプリントが入っていた。あの、学級役員になってしまった学級懇談の日に、委員会の希望を第三希望まで書いて提出した結果だ。
メンバー一覧を見て、ホッとした。広報のところに、西森さんと私の名前があった。第一希望が通ったのだ。
私はすぐに西森さんに、第一希望が通ってよかったということと、広報の方でもよろしくとメールした。送ったと思ったら、すぐに返事が帰って来るのが西森さんだ。
『今年は、守谷先生のクラスになれたし、委員会も第一希望が通ったし、もしかして、凄くついている年かも。ラッキー。こちらこそよろしくね』
西森さんらしいメールに、私はクスッと笑うと『宝くじでも買ってみる?』と返事をした。
*****
五月二十日金曜日午後二時、全ての委員会の第一回目の会議がこの日行われ、広報委員会の会合場所は、家庭科教室だった。私はまだ小学校の教室の配置を覚えていなかったので、西森さんと校舎入り口で待ち合わせるとことなった。午後二時なんて中途半端な時間だったので、仕事は午後から休みをもらい、ゆっくりと昼食を食べると、乾いた洗濯物を取り入れ、自転車で小学校へ向かった。
校舎入り口で、すでに来ていた西森さんが他のお母さん二人と話をしていた。近づいて「こんにちは」と言うと、皆がこちらを向いて「こんにちは」と返し、西森さんだけがいつもの様に「お疲れ」と言ってくれた。
「彼女、私と同じ守谷先生のクラスの学級役員なの。彼女も広報なんだよ」
西森さんは、私にニッコリと笑った後、他の二人に紹介してくれた様だ。そして、私の方をもう一度見て「この二人も広報よ。上の子の同級生のお母さんなの」と教えてくれた。
私は二人の方を見て「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「やだぁ、私なんかに頭を下げないで。そんなに堅苦しくしなくてもいいのよ。こちらこそよろしく」
一人のお母さんが、苦笑しながらそう言うと、もう一人のお母さんも「そうよ」と笑った。
会議の行われる家庭科教室へ向かいながら、西森さんと他のお母さん達が話しているのを、聞くとも無く聞きながら、彼女達の後ろからついて行った。他のお母さん達の内の一人が私を振り返り、ニコッと笑うと話しかけて来た。
「小学校は初めて?」
彼女はそう訊きながら、私と並んで歩きだした。私は彼女の方を見て「そうです」と答えた。
「いきなり学級役員なんて、大変でしょう?」
「そうですね。分からないことだらけで。でも、西森さんが一緒なので、助かっています」
「やっぱりあなたも、守谷先生ファン?」
いきなりそんなことを聞かれて驚いたが、きっと西森さんが、先程、自慢しまくったに違いない。
「いえ、私は、そんなこと無いです。西森さんには内緒ですけど」
最後の方は小さな声で言うと、彼女は「ホントに、西森ちゃんには参るよね」と言ってクスクス笑った。
西森さんは、知り合いが多いし、いろんな人に好かれていると思う。だから、守谷ファンだと公言していても、周りの皆も「またか」と思いながら、苦笑するしかないのだろう。
それにしても、小学校へ来た途端、これだ。西森さんと一緒にいたら、守谷先生の話題からは、逃れられないのかもしれない。
家庭科教室へ入り、すでに来ていた人達に「こんにちは」と声をかけると、振り返って挨拶を返してくれた。家庭科教室は、向い合せに三人ずつ座れるようになっている、六人掛けの大きな机が七つ並んでいる。黒板に向かって二つ並び、その後ろにもう二列、窓際の列だけもう一つ机が配置されていた。
私達四人は、空いていた一番後ろの窓際の机へ座った。他の人達も、思い思いの場所へ座って気楽なお喋りをしている。
「千裕ちゃん、ねぇ、ねぇ、聞いた? 守谷先生の噂」
家庭科教室に入ってくるなり、西森さんの姿を見つけると走り寄って来たその人は、周りに気遣い、少し声を落として西森さんに問いかけた。
彼女は、西森さんのご近所の仲良しのママ友らしい。今年度は学級役員ではなく、西森さんの住んでいる地区の地区役員なのだと言う。どうやら彼女も、守谷ファンのようだ。
彼女の問いかけに、私と西森さんは思わず顔を見合わせた。
もしかしたら、あの噂が広まっているの?
西森さんもそう思ったようで、少し顔をしかめた。そして、笑顔を作り「えっ? どんな噂?」と聞き返している。
「守谷先生って、大学時代、すごいプレーボーイだったんだって、女性を取っ替え引っ替えして弄んでいたんだって。なんだか、ショック!!」
ああ、私はやっぱりと思った。そして、西森さんの方を見ると、彼女も同じように思ったのか、私にコクリと頷いて見せた。
「ねぇ、その噂、誰に聞いたの?」
西森さんは彼女につられることなく、冷静に問いかけている。彼女の方は、自分の話に乗ってくれると思っていたのか、西森さんの冷静な反応に少し肩透かしを食らったようだった。
「えっ? 誰って、本部役員をしている友達だけど」
「そう。私ね、その噂の最初の出どころ知っているのよ。その話が出た時、一緒にいたから。でも、その時に本当かどうか分からない噂で、守谷先生の名誉を傷つけちゃいけないからって、その場にいた人達に、口止めしたんだけどな。やっぱり人の口には戸は立てられないか」
西森さん自身もこうなることは多少予測していたようだったが、人の口を経る度に、微妙に噂の内容が変わっていくような気がする。
人の口には戸は立てられない。その人は内緒の話のつもりでも、次の人に伝わる頃には好奇な噂でしかない。
「ねぇ、その噂は、嘘なの?」
西森さんのママ友は、やけに冷静な西森さんに驚きつつ、最初の勢いはどこへやらで、余計に声をひそめてボソリと訊いた。
「真偽の程は、本人しか分からないけど、大学生の頃の話だっていうし、私は今の守谷先生を信じているから。ただ、守谷先生のあの容姿じゃ、信じちゃう人も多いでしょうね。みんな噂より、自分の目を信じればいいのに」
西森さんは少し寂しそうに言った。本当に西森さんのいう様に、自分の目で見た守谷先生を信じてほしい。だけど、悲しいかな人は、噂に惑わされ易いものだから。
「そっか。そうだよね。千裕ちゃん、私も自分の目を信じるよ」
「うん。そうしてあげて。皆もこの噂、広めないようにしようね。誰かから聞いたら、今の守谷先生を信じた方がいいって、話してあげてほしいの」
西森さんの真剣な顔に、その机に座っていたお母さん達も、同じような表情で頷いたのだった。




