【十四】家庭訪問
ゴールデンウィークが終わり、いつもの日常が戻って来た。いつもの様に朝の準備をして、朝食を食べ終わると、数日前から懸念していたことを告げようと、拓都を見た。拓都は可愛らしい手を合わせて、「ごちそうさまでした」と言っている。
「拓都、今日ね、夕方、家庭訪問があるの。守谷先生がウチへ来て、お話をしてくださるのよ。だから、今日は早くお迎えに行くわね。午後四時半頃だと思う」
拓都は、いつもと違うことを言う私の顔を、目をパチクリと開けて見ている。
「午後四時半だね?」
拓都が時間を確認する様に言ったのは、最近時計の見方を覚え始めたからだ。やたらと時間のことを言ったり、確認したりしながら、時計をじっと見ている。そんな拓都を見つめて、私はニッコリと「そうだよ」と言った。
「ねぇ、ねぇ、守谷先生がお家へ来て、何のお話をするの?」
「ん……学校のこととか、拓都の話かな?」
「それは、僕も聞いてもいいお話?」
「大人の話だからダメだよ。先生が来たら挨拶だけして、自分のお部屋にいてくれるかな?」
「えー、僕の話なのに、僕は聞いちゃ駄目なの?」
「先生はね、拓都君はお家でいい子にしていますかって、訊くのよ。ママがなんて答えるかは、拓都には秘密。でも、拓都はいつもいい子だものね。大丈夫だよ」
私がニコニコとそう答えると、拓都は少し神妙な顔をして、「そっか。わかった」と返事した。拓都はいつも聞きわけがいい。その聞きわけの良さが、時々寂しくなる。
それにしても、とうとう、この日がやって来た。気持ちの整理も、心の準備もできないまま、毎日大きくなっていく、モヤモヤとした心の中の不安は、いつか私を飲み込んでしまいそうで、怖くなる。
初めて二人きりで対峙する。そのことが、私の不安と緊張のピークになる様で、何かとんでもないことを口走ってしまわないかと、自分が信じられなくなる。過去に触れず、担任と保護者の距離を保たなければいけない。
仕事を午後四時に早退し、午後四時半に拓都を迎えに行き、すぐに家に戻った。約束の午後五時まで落ち着かなくて、ウロウロと歩きまわる。掃除は今朝しておいたし、お茶を出す用意もしている。
本当は座敷に入ってもらおうと思ったけれど、座敷には仏壇があって、両親と姉夫婦の写真が飾ってある。それを見たら、姉夫婦が亡くなっていることを知られてしまう。写真を片付けるという手もあるけれど、拓都が見たら、言い訳ができない。
仕方なく生活の中心になっているこのLDKの部屋へ、入ってもらうことにした。前に一度彼が来た時も、この部屋だったっけ。
両親が建てたこの家は、最初は台所と居間がきっちり別れた部屋だった。でも、姉が結婚する時、同居するというので、リフォームしたのだ。フローリングのワンフロアーの半分にソファーとテレビ、もう半分は対面式キッチンとダイニングテーブル。拓都が宿題をするのも、このダイニングテーブルで、私が家計簿を付けるのも、このテーブルだった。
このダイニングテーブルに、再び彼を招く。
私は今日という日を迎えるにあたって、初めての家庭訪問なので勝手がわからず、すでに恒例行事になっている西森さんに、指示を仰いだ。
玄関先で対応した方がいいのか?
上に上がってもらった方がいいのか?
お茶は出すのか?
お茶菓子は要るのか?
考え出したらきりがない程、分からないことだらけだった。
『私は一応リビングに入ってもらうけど、先生によっては玄関先でという人もいるらしいよ。お茶は出すけど、お茶菓子までは出さない』
大ベテランの話をありがたく聞き、私も中へ入ってもらう準備をし、暑いので冷たいお茶の用意もしておいた。
何をこんなにドキドキしているのだと自分を叱る。
やっぱり二人きりになるのは、よくないのかもしれない。
三年ぶりなのよと、惑わす様な声が頭の中で聞こえる。この気持ちは未練なのか、後悔なのか。私の心は、あの頃からちっとも成長してなくて、彼を前にしたら、うっかりとあの頃の気持ちに舞い戻ってしまいそうで……。
美緒、裏切ったのは私の方だということ、忘れちゃいけない。
私は洗面所の鏡で顔を映し、両手で頬をパンパンと叩き、活を入れた。そして、暗示をかけるように大丈夫と呟いた。
時計が午後五時をさす頃、携帯の着信音がソファーの上に置いた鞄の中から聞こえてきた。どの位鳴っていたのか洗面所にいたので気付かなかったけれど、携帯を取り出そうとしたら切れてしまった。
着信記録を見ると非通知の表示。これは……。心臓がドキンと跳ねた。
次の瞬間、自宅の固定電話が鳴りだした。もしかして? とドキドキしながら受話器を取る。
「もしもし、篠崎さんのお宅ですか?」
「はい」
受話器から聞こえる懐かしい声。電話を通すと彼の声は少し低く聞こえる。
「すみません、守谷です。時間が遅れておりまして、今、前の方が終わったところです。後五分ぐらいで着けると思います。よろしくお願いします」
「わかりました。よろしくお願いします」
電話を切ると一つため息をついた。
はぁー、緊張する。
今までも学級役員として担任である彼の傍に座って話したことがあるけれど、二人きりというのは、辛いかもしれない。
「拓都、守谷先生、もうすぐ来るって」
テレビを見ていた拓都にそう声をかけると、振り返って嬉しそうに笑った。
後五分という時間が、時を刻む音が聞こえるかのように、ゆっくりと流れる。ドキドキと緊張で押し潰されてしまうのではないかと、また不安が首をもたげる。
もうすぐ、もうすぐこの家にやって来る。心臓の鼓動が、また少し早くなった気がした。
その時ふいに、玄関のチャイムが鳴った。それはあたかも、悲劇の舞台の始まりのベルのように、鳴り響いた。
ゆっくりと玄関のドアを開けると、長身の懐かしいその人の姿があった。あの頃のように斜め四十度に顔を上げると、緊張した視線が合わさった。とたんに「遅れてすみません」と彼が頭を下げた。「いいえ」と言って、私は目線を下げる。そしてドアを大きく開けると「どうぞ」と招き入れた。
「守谷先生、こんにちは」
私と一緒に玄関まで来ていた拓都が、担任が入って来るなり挨拶をした。拓都の満面の笑みに、担任も緊張を解いたのか、「拓都、こんにちは、お邪魔します」と言って、やっと笑顔を見せた。
「拓都、先生はママとお話があるから、自分のお部屋へ行っていてね」
事前の予定どおり、拓都にそう告げると「はーい」と返事をして、「先生、またね」と二階へ上がって行った。
拓都が行ってしまうと、また緊張した空気が覆い始めた。これは、私の緊張だ。拓都がいた方が良かったのではないかと、そんな考えがチラリと頭をかすめた。
ガラスのはまったドアを開け、ダイニングのテーブルに誘導する。お茶の用意をするため、対面式の流し台の向こう側へ行くと、大きく息を吐いた。まるで、今まで息を止めていたように、上手く呼吸が出来ない。また、呪文のように大丈夫と繰り返す。
お盆を持つ手が震える。私の動揺を悟られてはいけないのに、体は正直に反応してしまう。まだまだ修行が足りないなぁと思うそばから、何の修行だよ、と自分で突っ込みを入れる。大丈夫、まだ突っ込み入れる余裕がある。
ダイニングテーブルの傍まで行くと、一瞬目が合った。すぐに目を伏せて、失礼しますと呟いて、冷たい麦茶の入ったガラスの冷茶器を茶卓ごと持つと、彼の前にどうぞと置いた。
少しカタカタと震えたことに気付いただろうか?
あぁ、もう情けない。
上手くポーカーフェースとやらが出来ているのだろうか、今の私は。
「ありがとう」と言って、茶器を持ち上げて一口飲む彼の表情は、何やら余裕ありげに見えた。私は、彼の対面に座り、顔を上げると彼がボツリと言った。
「まだ、あの車に乗っているんだ?」
えっ?
一瞬何のことを言っているのか分からず、呆けた顔をしてしまった。
「だから、カーポートに停めてあるミニだよ」
なに? いきなりタメ口?
これって家庭訪問だよね。
でも、彼の指摘した私の愛車は、今目の前にいる彼と選んだものだったからだろう。
そう、私が就職する時、二人で見に行った中古車屋さんで一目惚れしてしまったミニクーパー。本当は軽自動車を買うつもりだったのに、もうそれ以外は考えられなくなってしまった。あの時、メカオンチの私の代わりに彼がいろいろ調べてくれて、アドバイスしてくれて、お店の人との値段交渉まで引き受けてくれた。予算が少なかったので本当に助かった。
「買い替える余裕がないのよ」
そう言ってしまってから、自分もタメ口だったことに気づき、焦った。
「旦那に買い替えてもらわなかったのか?」
だんな?
ナンノコト?
そして、私はフリーズした。
頭の中は旦那という言葉がぐるぐる回っている。
ああ、やっぱり、私は結婚していると思われているんだ。
姉夫婦が亡くなったことも、知らないだろうし。あの事故があった時、彼は春休みで他県の実家へ帰っていたから、わざと教えなかった。姉家族は海外転勤になったと話したのを、信じたのだろう。
それに、一緒に海外へ行っているはずの姉の子供が、今私の子供になっているなんて、思いもしないだろう。
全てはあの事故で、狂ってしまった。私が提案して、送りだした姉夫婦のデートの結末は、拓都から両親を奪い、私は償い切れない罪を背負った。
だから、手を離したのだ。これ以上罪深い私の人生に、彼を巻き込みたくなかったから。
もうこれ以上、大切な存在を、私の不幸体質の運命のせいで、永久に失くしたくなかったから。
あの時、彼に本当のことを話せば、きっと力になってくれたと思う。でも、それが辛かった。あの頃、大学生だった彼の重荷になるのが怖かった。未来ある彼の人生に影を落としたくなかった。
いいえ、そんなことは後から考えた理由。あの事故から葬儀が終わるまでの数日間、私は彼のことを思い出す余裕も無く、全て終わった時に思ったのは、もう私と彼の未来は別々になってしまったのだということ。
本当のところ、社会人になったばかりの私には、拓都の手を取るのが精一杯で、その後の拓都と生きていく現実で頭が一杯で、彼のことを考える余裕も無かった。ただ、発作的に、彼との未来はもうないのだと、自分に言い聞かせ、別れなければと考えていた。
私はあの日、好きな人ができたから別れてほしいと告げた。あなたには、なかなか言い出せなかったけど、職場の人に何度か誘われ、だんだんと好きになってしまったのだと話した。
これが一番、彼が反論できない理由だと、あの時は思ったのだ。
彼は、私がその好きになったという職場の人と、結婚したと思っているのかもしれない。
あの日決意した気持ちを貫かなければ。たとえ恨まれようと、そのように仕向けたのは私だから、彼を傷つけることになっても、自分が選んだ別れだったから、後悔はしないと誓ったのだから。
「あの車を気に入っているから替えたくないの」
またタメ口で返している自分に気付かなかった。
目の前の彼は、少し余裕の笑顔を見せて、また、タメ口で返して来た。
「ああ、ジュディだっけ? 名前まで付けるほど気に入っていたものな」
そう、私は愛車を相棒だと思って「ジュディ」と名前を付けていた。買った時は十年落ちの古い車で、パワステもパワーウィンドウも無かった。今どきと言われるが、私はこの車がかわいくて仕方がなかったのだ。
しかし、今は思い出に浸っている訳にはいかない。彼は、懐かしい車を見て、昔の様に二人きりになって、つい気持ちが過去へ飛んでしまったのかもしれないけれど、お互いに目を覚まさなければ。目の前のこの人と私の関係をはっきりしなくては、自分の心が崩れてしまう。
「守谷先生、家庭訪問の方を始めてください」
私の言葉に、ハッとした表情を見せた彼は、一瞬顔を歪ませ、思い直したように居住まいを正して、「失礼しました」と言った。
「拓都君は、学校では、今のままで特に気になることはありません。勉強に関しても、よく理解していると思いますし、積極的に手を上げて、発表もしてくれます。友達との関係も、上手くいっていると思います。お家の方で、何か気になることはありませんか?」
担任は、手元のノートを一瞥した後、スラスラと学校での拓都について説明した。
「いえ、特には……」
「それじゃあ、このまま見守ってあげてください。他に、学校のことや勉強のことなど、聞きたいことはありませんか?」
「今のところ、特にありませんので、又何かありましたら、よろしくお願いします」
私は少し頭を下げた。家庭訪問って、この程度の話なのか。
「それじゃあ、これからも役員としていろいろとご協力願いたいと思いますので、よろしくお願いします」
彼は立ち上がると、そう言って頭を下げた。そして、玄関へと向かって歩き出した彼の後を追いながら、この家の中で彼を見るのは、今日が最後なのだろうなと、その大きな背中を見ながら思った。
こんなに近くにいるのに、もう届かない。それはまるで別の次元にいる様に、交わることの無い二人のベクトル。
玄関まで来て、拓都を呼んだ。返事と共にトントンと階段を下りて来る。
「先生、もう帰るの?」
下りて来るなり、守谷先生を見上げて、友達にいう様に訊いた。
「ああ、拓都はしっかりお母さんのお手伝いをしろよ」
そう言って、担任は拓都の頭をクシャクシャとかき混ぜる。嬉しそうな顔をした拓都が、元気に「はい」と返事をしていた。
「それでは、失礼します」
担任はそう言うと、ドアを開けて出て行った。それを見届けた後、私はさっき彼が触れた拓都の頭を、そっと撫でていた。




