【一】いきなりシングルマザー
改稿版を新連載として公開していきます。
どうぞよろしくお願いします。
それは三月の始めの日曜日。
私のふとした閃きが、自分自身も周りの人々の人生も、大きく変えてしまう発端になるなんて、この時はまだ気付くはずもなかった。
私、篠崎美緒は、希望していた県職員に合格し、社会人となって約一年が経った。
早くに父を亡くし、苦労した母にいつも「女も一生続けられる仕事を持たないといけないよ。有利な資格を取ったり、男の人と同等の評価をしてもらえる仕事に就いたりして、自立しないといけないよ」と言われて育った。そんな母の苦労を見て来た私と姉は、母の言葉をしっかり胸に刻み、成長した。
姉は高校卒業後、看護専門学校を出て、看護師になった。私は、地元国立大学に進学し、公務員を目指した。
そして、念願かなって最初の辞令が下ったのは、実家から車で三時間の山と海に囲まれたK市にある、県の出先機関。生まれて初めての一人暮らしに、最初は戸惑ったものの、地方故の住民の人の良さに触れるに従い、そこでの生活にも慣れていった。
車で三時間の距離なので、ほとんどの週末実家へ帰って過ごしていた私は、三月初めの金曜日の夜、いつものように車で実家へ帰った。そしてのんびりと過ごして、職場のあるK市に帰るという日曜日の朝、何気なくリビングのカレンダーを見た。
そのカレンダーの三月二十二日のところに大きく花丸がしてあった。何の印だろうとしばらく考えて、思い出した。そうだ、姉の篠崎美那と義兄拓海の結婚記念日だ。
姉は看護師として働いていた病院で、入院患者だった拓海と出逢った。拓海の猛烈なアプローチの末、二人は付き合い始めた。
その頃まだ大学生だった拓海が卒業間近になった頃、姉が妊娠していることに気づき、拓海の卒業と同時に結婚した。そして拓海は婿養子として篠崎の家に同居してくれるようになった。母と姉夫婦と可愛い甥、そして私の五人の幸せな家族が出来上がった。その幸せは永久では無いものの、何十年かは続くものと信じていた。
だが、その五人家族の幸せはたった四ヶ月で終わりを告げた。長年の無理が祟ったのか、母はくも膜下出血で倒れ、帰らぬ人となった。両親共にこんなに早く別れなければいけない自分の運命を恨んだりもしたが、大好きな姉家族と一緒に居られることが、私を癒してくれた。
そんな姉夫婦の結婚した日が、三月二十二日だった。
しばらくカレンダーを見ていた私は、姉達の結婚記念日が土曜日だと気づいた。
姉達は結婚記念日といっても特に何をする訳でもなく、夕食が少し豪華になるぐらいだ。
そんなことを考えていた私は、ふと閃いた。
今年は私のお休みの日だから、甥の拓都の面倒をみて、姉達を二人きりでデートさせてあげようと。
それは、ものすごくいい考えだと思った。姉達はいつも拓都と三人で出かけているから、二人きりで出かけることはまず無い。たまには良いだろう。拓都も私に懐いているし、一日ぐらい親と離れても大丈夫なはず。もう三歳の拓都は結構しっかりしている。
そう思うとすぐに庭先で洗濯物を干している姉の所へ行った。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんたちの結婚記念日って、今年は土曜日でしょ。私がたっ君を見ているから、二人でデートしておいでよ」
振り返った姉は、私の提案を聞くととても嬉しそうな顔をした。
「美緒、いいの? 嬉しい。結婚してから、すぐ拓都が生まれちゃったから、デートってしてないの」
そんなことは傍で見ていたからよく分かっている。姉の喜ぶ顔を見て、私はとても満足した。
その日は拓都とお弁当を持って公園へ行こう。私も拓都と過ごす一日を考えて、嬉しい気持ちで一杯になった。
しかし、私の運命はその時、不幸の方へ舵を切った。
三月二十二日は思い描いた通りの青空になった。桜はまだ咲いていなかったけれど、ポカポカ陽気の春らしい日だった。
姉達もいろいろと計画を立てていたみたいで、喜々として出かけて行った。明日も休みだから、遅くなってもいいよ。と送り出した。
それから、拓都と二人でサンドイッチを作って、ジュースとお茶を持ち、近くにある大きな芝生公園へ出かけた。ここには遊具もあり、散策できる散歩道もある。
二人でのんびりとその公園で一日を過ごし、午後四時前に自宅に帰って来た。その後、おやつを食べたり、テレビを見たり、夕食の用意をして食べ終えた頃、私の不幸の運命を告げる電話が鳴り響いた。
その電話は警察からだった。
姉夫婦の乗る車が事故に合い、市民病院に運ばれたと、告げた。
私は警察の人が他に何を喋っていたのか聞こえていなかった。
ただ、姉達が事故にあって市民病院にいるということだけ頭に残り、電話を切った。そしてすぐに行かなきゃという気持ちが、私を動かした。
取るものもとりあえず、拓都を連れて市民病院まで車を走らせる。
どうぞ、無事で……。そればかりを祈りながらも、心の中を徐々に覆い尽くす、ドス黒い得体のしれないものを取り除くことが出来ない。怖い。心の底から怖いと思った。不意に母の倒れた日のことを思い出した。
あの日、母は職場の倉庫で倒れていたらしい。その日はたまたま倉庫で一人作業をしていたため、気付くのが遅れた。母の職場の人から電話をもらい、救急車で市民病院へ運んだと告げられた。あの日と同じ市民病院へ無事を祈りながら車を走らせる。これは、デジャブ? 考えちゃいけないと思いながらも、浮かんでくるのはあの日病院で見た母の白い顔。
お母さん、お姉ちゃんたちを連れて行かないで。
私が二人のデートなんて提案しなければ。
どんなに悔やんでも、もう遅い。
どうぞ、無事で……。
鼻の奥がツーンとなり、涙がたまり始める。泣いちゃいけない。泣くような運命を引き寄せてはいけない。
ぼやけ始める視界をぬぐうように瞬きをして、キッと唇を噛んだ。後ろの席のチャイルドシートに乗せた拓都がやけに静かだと思ったら、居眠りをしている。今日は一日お外で遊んで、疲れたのだろう。
この子のためにもお姉ちゃん、お義兄さん頑張って!
病院について、眠っている拓都を抱っこして救急の処置室へ行くと担当の医師が俯いたまま首を振った。
「残念ながら、二人とも即死に近い状態でした」
ナニヲイッテイルノ?
これは夢?
私は拓都を抱いたまま、受け入れがたい現実に意識を手放した。
気づくと白い天井が見えた。一瞬どこにいるのか、何をしていたのか、私は誰なのか、何も思い出せなかった。そして次の瞬間、意識の中に恐ろしい現実が津波のように押し寄せた。
意識が戻ったことに気づいた看護師が覗き込む。
「美緒ちゃん、大丈夫?」
あ、この人は、お姉ちゃんが結婚前に市民病院で働いていた時のお友達だ。
「はい。あの、たっ君は?」
「隣のベッドで寝ているわよ」
ニコッと笑った看護師の目に悲しみが見えた。
「あの……お姉ちゃんは?」
看護師は一瞬息をのんだような表情をして、伏し目がちに静かに告げた。
「美那は……、お姉さんとお兄さんは……、残念だったわね」
やはり、現実なのだ。
誰かに『何言っているの?』『夢でも見たの?』と言ってほしい。
こんな現実受け入れろと? 両親も姉も皆、私を置いて行っちゃった。でも、私はその時気付いた。隣のベッドに眠る小さな命の存在に。私は二十三歳のこの時まで肉親が側にいてくれた。でも、この子は三歳にして、親を亡くし、唯一の肉親はこの私だけ。しっかりしなきゃ。拓都のために。
それから、お葬式を終えるまで、どのように過ごしたかはっきり記憶にない。ただ、親戚は元々付き合いが無かったけれど、近所の人達とは姉がしっかり付き合いをしていてくれたお陰で、ずいぶん助けられた。特にお隣のおばさんは家族のように親身になって手伝ってくれた。
何もかもが済んで、実家で拓都と二人きりになった時、それまで拓都も私も少しも泣かずに来たことを思い出した。私はいいが、このまだ両親が恋しい小さな甥が、泣くこともせず、わがままも言わず、この数日間を過ごしてきたかと思うと、不憫で切なくなった。
姉達が事故を起こしたあの日、病院で目覚めた拓都と共に遺体安置室で姉夫婦と対面した時、拓都は「お父さんとお母さん、どうして寝ているの?」と聞いた。私は何の答も用意してなかったので、その時、思いついたままを言ってしまった。
「寝ているんじゃなくてね、体の中の魂だけお空に行っちゃったの。魂が無い体はもう眼を覚まさないのよ。お祖母ちゃんとお祖父ちゃんがね、淋しいからどうしても来てほしいって、たっ君のお父さんとお母さんを連れに来たのよ。これからはお空の上からたっ君を見ていてくれるって。たっ君にはお姉ちゃんがいるから大丈夫でしょ。ねっ」
そんな説明を拓都が理解したかどうかわからない。でも、拓都はコクリと頷いて、私の手を握った。私はそんな拓都を抱き締めずにはいられなかった。でも、その時は思いもしなかったけれど、私のこの言葉が私と拓都の涙腺の出口を完全に塞いでしまったのだった。
私は拓都と二人きりになった時、これからの二人の人生の決意について話した。
「たっ君、二人きりになっちゃったけど、お姉ちゃんがずっと傍にいるから大丈夫だからね。たっ君と私は家族であり、相棒なの。これから二人がとても良い相棒になるための合言葉を教えてあげる。これから、お姉ちゃんはたっ君のこと、拓都って呼ぶ。たっ君はお姉ちゃんのこと、ママって呼んで。そうすれば、二人はとっても良い相棒で良い家族になれるの。できるよね?」
拓都は頷きながら「わかった」と言った。
その日から私は、シングルマザーになった。