第16話「あの世界、あの場所で」
「シズク! ちょっと、シズク! ねえってば!」
暗闇の中で、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
薄らいでいたシズクの意識が徐々に鮮明になっていき、やがて重たい瞼が開く。
ぐにゃりと歪んでいた景色が、色を持ち始め、ゆっくりと明瞭なものとなっていく。いつしか頭痛は消え去り、胃液の逆流してきそうな不快感はなくなっていてた。
ふと気が付けば、そこは先ほどまでいた部屋の中ではなかった。
目に映るのは、視界いっぱいに広がる青空、白い雲。そして、見知った顔の少女。
ぼんやりとその少女の顔を眺めていると、シズクの頬に大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あ…………やった……。目、覚ました……。シズクッ!」
そう言ったのは、濃紺の魔女帽子をかぶった銀髪の少女。彼女はシズクの体を起こし、そっと抱きついてきた。ふっくらとした小さな膨らみが、シズクの薄い胸板に押し付けられる。その瞬間、シズクの意識は完璧に覚醒した。
「お、おまっ、何やってんだよ! ミアラ!」
「う、うっさいわよ! いつまでも寝てるシズクが悪いんだからっ!」
口調こそ強いものの、その声は潤んでいた。シズクの耳元ではグスッと鼻をすする音が聞こえてくる。
いつもはこんなことをしないミアラに狼狽していると、すぐ近くから声が聞こえた。
「ミアラはシズクのことを心配していたんだ。今だけはそうさせてあげてくれないか?」
すべてを包み込むような優しい声。シズクは懐かしさに駆られて、すぐさま声の主の方へ視線を合わせる。
そこには、銀色の防具を装着し、赤いロングスカートを穿いている少女――フィールの姿があった。
「フィール。それじゃ、俺……戻ってきたんだな、この世界に」
「ああ、お帰りだ、シズク」
フィールが優しく微笑した。それに合わせてシズクも微笑みを返す。
もしかして、とは思っていたが、まさか本当に帰ってくるとは思ってなかった。シズクは改めて視線を巡らせる。
どこまでも広がる緑、青空、気持ちの良い風、それから仲間。紛うことなく、ここはシズクが生まれ育った世界だ。
自然と喜びが沸き上がってくる。今までどう頑張っても世界を越える方法を見つけられなかった。半ば無理かもしれないと諦めかけていた。しかし、こうして戻ってこれた。奇跡が起こったと言っても過言ではないだろう。
それに、久しぶりの自分の体だ。橋崎静久の体ではなく、シズク自身の体。腰の左側には、大枚はたいて買った愛剣もある。シズクは剣を鞘ごと持ち上げる。
「おおーっ。我が愛剣、シルバーバタフライじゃないか! よかった、錆びてない!」
驚きと嬉しさで叫ぶと、耳元で声が響いた。
「あ、あたしが磨いてあげてたのよ! 感謝しなさい!」
「そうなのか? サンキュな、ミアラ。ていうか、そろそろ離れてくれない?」
言うと、ミアラはそっとシズクから体を離した。赤くなった顔をシズクに見られたくないのか、ぷいっと顔を背け、艶やかな銀髪を翻す。
「あ、そうだ。フィール、そろそろあそこに行きましょ」
「ああ了解した、ミアラ。シズク、立てるか?」
フィールが右手を差し伸べる。
シズクは「おう」と頷き、フィールの右手を借りて立ち上がる。久方ぶりに自分の体を動かすというのに、思いの外難なく立つことが出来た。
「なあ、行くってどこにだ?」
「まあ着けばわかるさ。とりあえず行こう」
はぐらかされてしまった。どうやら答えるつもりはないようだ。
シズクはどこか不審に感じながらも、彼女らの提案に乗ることにした。久々に会えたパーティーメンバーなのだ。断るのは失礼だし、そもそも昔からシズクに拒否権はなかった。
シズクは、既に歩き始めているミアラとフィールの背中を追いかけて走っていく。
しばらく歩くと、行き着いたのは通い慣れた酒場だった。相変わらず古く、汚い酒場だが、それ以上に懐かしさが上を行く。
木製のウェスタンドアを押し開け、入店する。内装も外装と違わずボロい。けれど、今のシズクにはそれが逆に良かったりもする。
空いているテーブルに足を進めていくと、何人かの冒険者仲間から「おお、自称英雄のシズクじゃねーかぁ! 最近、ツラァ見ねぇと思ったけど、どこ行ってたんだぁ。元気してたか?」や「おっす、シズク。今まで何してたんだよぉ! 今度一緒に安酒飲もうって約束したのに、破りやがってぇ! この借りはいつか返せよ!」などいかついゴリラ野郎から、爽やかイケメンまで温かな言葉で迎えてくれた。しまいには、酒場中の冒険者が安酒を掲げてシズクの帰りを歓迎してくれた。
シズクは目頭が熱くなるのをなんとか堪え、空いている四人がけのテーブルに腰を下ろす。古びた木製のテーブルを隔てて、ミアラとフィールがシズクの正面に座る。
「シズク、泣きそうになってるわよ」
フヒヒ、と笑いながらミアラが煽ってくる。
「は、はあ!? 泣いてないし、ギリギリで踏ん張ってるだけだから。つか、さっきまで泣いてたお前に言われたくないっての」
「んなっ!? あ、あれは目にゴミが入っただけなんだからねっ!」
皿いっぱいに盛られた安肉を安酒で飲み下す。味はそこまで美味ではないが、仲間と食べるからこそ美味しく感じるのだろう。
「あ、そうだ。なあミアラ、俺ってどのくらい意識飛ばしてたんだ?」
ミアラはフィールと顔を見合わせ、軽く天井を見上げる。
「えっと、そうね……。三十日くらいかしら?」
想像の斜め上をいく日数に、シズクは思わずむせる。
「え、ええ、三十日? そんなにか!?」
シズクがあの世界にいたのは、おおよそ十五日間。つまり、この世界と向こうの世界とでは、二日ほどの差があるらしい。
なるほど、と頷いていると、安酒を飲み下したフィールが付け足してくれる。
「ああ、だいたいそのくらいだ。その間、シズクの体は抜け殻のようになっていたぞ。殴ろうが蹴ろうがまったく起きなかった」
「おいちょっと待てぇ! 殴ったのか、蹴ったのか!?」
「私とミアラで一日交代でやっていたぞ」
「お前らひどいな!」
シズクは目を丸く見開き、彼女らを交互に見やる。
「……けど、そこまでして呼び戻そうと思ってくれてたことには感謝しとくよ、ありがと」
「ヤダ、あんた蹴られて嬉しいとかマゾなの!?」
顔を真っ青にしたミアラが口許を手で覆う。隣でフィールも同じようなことをしている。
「んなわけあるか! 礼言って損したわ!」
シズクはジョッキに注がれた安酒をぐいっと飲み干す。こんなどうしようもないやり取りですら、今は心地良い。それほどまで、シズクは彼女たちとの再会を望んでいた。
「ところで、俺がいない間、どうやってクエストやってたんだ?」
「あんたがいない間は、あたしが適合職の剣士をやって、フィールにはアーチャーと魔術師をやってもらってたわ」
「うわ、役職二つとかマジか。すまんフィール、迷惑かけたな」
「いやいや、こういうときは持ちつ持たれつだ、シズク。私も普段はやらない魔術師職をやれて楽しかったからな、全然問題ない」
やはりフィールは大人だ。と、シズクは深く感心する。とても同い年だとは思えない。
「え、ちょっ、あたしにはないの!?」
バンとテーブルに手をついて、ミアラが驚愕の相で抗議してくる。
「いやだってお前、適合職やってたみたいだし、それに一つの役職しかしてないんだろ?」
「ま、まあそうだけど……けど……」
「冗談だって。ミアラもありがとな。俺の抜けた穴、カバーしてくれて」
「ふ、ふんっ。最初からそう言いなさいよ! ま、第一、あんたの抜けた穴なんて無いに等しいくらい小さいし、もしかしたら、あたしとフィールだけの方が効率良かったかもしれないけどね~」
「なっ。やっぱり礼を言うんじゃなかった。おい、俺の感謝の気持ちを今すぐ返せ!」
「うげ……食べ過ぎた……」
食事を終えたシズクたちは、普段から通っている宿屋に来ていた。ミアラとフィールは隣の部屋に、シズクはひとりで泊まることとなった。
硬いベッドに腰掛け、満杯になった腹をさする。これほどまでに食べたのは久しぶりだ。少なくとも、向こうの世界ではこんなになるまで食べることはなかった。
向こうの世界の部屋にはテレビやパソコン、ゲーム機などあったが、ここにはない。いささか部屋の中が寂しい気もするが、もとの生活に戻ったのだと思えば苦ではなかった。
ふと視線を移すと大きな月が見えた。青白く輝く満月だ。闇色に染まったこの世界を、淡く照らしている。
シズクはそれに引かれるように窓の方へ足を進めた。立て付けの悪い古びた窓を開け、満月を見上げる。
「戻って、来たんだよな。俺……」
はたして本当にそれで良かったのだろうか。この世界に戻りたいというのはシズクの願いであった。しかし、あのままオカルト部のみんなを置いてきて良かったのだろうか。桜花に辛い思いをさせて良かったのだろうか。
この世界に戻ってきたときから感じていた迷いが、さらに大きくなっていく。だが、迷いは新たな迷いを生む。
仮に、向こうの世界に戻りたいとしても、それならばミアラとフィールはどうすれば良いのか。ミアラはシズクの抜けた穴は小さかったと言っていたが、それでもやはり迷惑はかけている。パーティーメンバーが二人なのと三人なのとでは大きく違うはずだ。これ以上の迷惑はかけられない。
「はあ……。なんだか頭パンクしそうだな~」
後頭部を乱雑に掻きむしるシズク。寝てしまいたいところだが、まだ寝るには早い時間だ。向こうの世界で言えば二十時くらいだろう。今寝てしまえばきっと、夜中に目が冴えることになる。
するとコンコンと木の扉をノックする音が聞こえた。こんな時間に誰だろうと思いながらも、シズクは入室を許する。
「どうぞ、開いてるぞ」
その声を受けて、扉の外側にいる人物はガチャリとドアノブを回した。軋みながら木の扉がゆっくりと開かれる。
「ちょっといいかしら、シズク?」
やって来たのはミアラだった。いつもの濃紺の魔女帽子や焦茶色のマントはなく、淡い黄色の薄い寝巻きを着ている。髪も普段はポニーテールにしているのに、今はそれを解いてストレートだ。
シズクはそんなミアラの格好に若干の緊張を覚え、視線をそっと別の方へ向ける。
「ああ、別に大丈夫だ」
ミアラは小さく「そう」と言うと部屋の敷居を跨ぎ、シズクの近くに移動する。
「あんた、月見てたの?」
「え? まあな。なんとなくだけど。つかそれより、どうしたんだよ、夜に俺の部屋に訪ねてくるなんて珍しいな」
「まあねー。ちょっと暇で。あんたも知ってるでしょ、フィールがすぐ寝ること。あの子ったら部屋に着くなり寝ちゃって、おかげで話し相手がいなくて暇なのよ」
微苦笑しながら、ミアラが月を見上げる。
「なるほど。確かにフィールは、大人びた性格のくせに、生活サイクルだけは早寝遅起きのおっさんだからな」
ため息混じりに、シズクは笑った。フィールらしいと言えばフィールらしいのかもしれない。きっと今頃、気持ち良い夢でも見ているに違いない。
「あたしさ、あんたに言わなきゃいけないことがあって来たのよ」
特にシズクに目をくれることなく、ミアラが言った。
「ん? なんだよ神妙な顔して」
すると、ミアラは曇った表情でシズクに向き直った。珍しい彼女の表情に、シズクはどうしていいのか内心で当惑する。
「シズク。ごめん、あたしが異世界転送なんて魔術を使おうと思ったばっかりに、あんたに酷い思いをさせちゃって。本当に申し訳なく思ってる。ごめんなさい」
ミアラは腰を直角に曲げ、深々と頭を下げた。
幼なじみのこんな姿を見るのは初めてだが、やられて気分の良いものではなかった。シズクはすぐさまミアラの肩に手を置き、頭を上げさせる。
「ちょ、そんなの全然いいから! それに、こうしてまた会えたんだ。それで問題ないだろ。全然気にしてないから、ミアラが気に病む必要なんてない」
「シズク……。あんたって優しかったのね、ありがと」
ミアラの顔に小さな笑顔がともった。シズクが向こうの世界に行ってからずっと自分を責めていたのだろう。その自責の念が、やっと体が取れたようにシズクには見えた。
「それより、あの異世界転送の魔術って、やっぱ欠陥魔術だったみたいだな。呼び出すんじゃなくて、俺が向こうに行っちゃったしさ」
「ああ、それね。実はあんたが向こうの世界に行ったあとに、売人を探し出して聞き出したのよ、あの魔術について」
ミアラは拳をぐっと握り、言葉を続ける。
「あの魔術は、儀式場に相当する魔法陣を描く人間と、実際に魔術を発動させる人間の魔力が同じじゃなきゃダメなのよ。でないとバランスが崩れて、魔力の大きい人間が向こうの世界に転送されちゃう設計らしいわ」
「てことは、魔力量の違う俺とミアラで作業を分担したから、バランスが崩れたってことか。ちょっと待て。設計? てことは、売人のオリジナル魔術なのか?」
この世界では、個人で魔術を作ることが出来る。小規模で簡単な魔術から、複雑高度な大規模魔術まで様々作ることが可能だ。しかし、売人自作の魔術は個人作成故に、何らかのアクシデントがあったり、不具合があったりするものが多い。
「そうだったのよ。だから異様に値段が安かったのよ。売人の自作魔術だったから。まんまと不具合魔術を掴まされたわ」
眉間に皺がより、ミアラはぎりっと奥歯を噛む。腹を立ているのがこちらにまで伝わってくる。
「じゃあさ、どうやって俺を連れ戻せたんだ? それ用の魔術でもあったのか?」
ミアラは左右に首を振る。
「いや、同じく異世界転送の魔術を使ったわ」
疑問に満ちた視線をミアラに送る。
「異世界転送には、連れてきた人間のアフターサービスをする機能もあったのよ」
「アフターサービス?」
「そう。だって、異世界から人間を連れてきてそのままってわけにもいかないでしょ。だから、人間を返す機能もあったのよ」
意味を理解し、シズクは腕を組んで頷いた。いくら欠陥魔術と言っても、ちゃんと使った後のことを考えているらしい。
「あたしはその機能を使ってあんたを連れ戻そうとしたの。けど、肝心のシズクと思しき魔力が感知できなかった。本来の魔術の機能は、こっちの世界に転送してきた人間を、向こうの世界に返す機能。だけど、今回はその逆。送った人間の精神をこっちに引き戻す作業だった。だからあんたの魔力をキャッチして引き戻そうとしたのに、全然見つかりゃしない」
ミアラが面倒だった記憶を呼び起こすように、ジト目で唇を尖らせる。
「実はさ、向こうの世界って剣も魔術もない世界だったんだ。だから俺にも魔力はなくてさ」
「へぇ、向こうの世界ってそんな世界のね。けど、ようやく今日、ものすごく微量なシズクの魔力を感知したのよ? だから、あたしたちは向こうの世界に行っちゃったあんたの精神を引き戻すことが出来たんだけど」
不思議そうな瞳でミアラが首をかしげる。だが、不思議なのはシズクも同じだ。
「え、俺の魔力を感知したって? けど、あの世界は魔力なんてない世界だしな……」
「あんた、向こうでこっちの世界に戻ってくるために何かしなかったの? 特殊な儀式をやるとか、魔法陣描いてみるとか」
「儀式もやったし魔法陣も描いたさ。けど、儀式は的外れだったし、魔法陣は落書きと変わらなかったぜ?」
シズクの脳裏に、桜花と行った儀式がよぎる。必死にネットで調べた、魔法陣の周りをうさぎ跳びでまわる儀式。結局、あれは何の意味もなかった。それどころか、美陽にオカルト部の評判を落とす道具にまで使われてしまった。
「ふぅん。じゃあ、なんでかしらね。あんたの得意な魔法陣を使ってもダメだったんでしょ。触媒に血を使ってもダメだったとしたら、いよいよ何でかしらね」
「……ん? 血? 血なんて必要なのか?」
言うと、ミアラは目を丸くして、ぽかんと口を開けた。
「はあ? 何言ってんの、あんた。必要に決まってるでしょ。あ、さてはシズク、最初から適合職が魔術師だから、魔力に困ったことないわね?」
「お、おう……」
思い返してみるが、確かに魔力に困ったことがない。普段適合職ではない剣士をしているからというのもあるが、大掛かりな魔術を使う場面でも魔力が足りなくて困ったことは一度もない。
「本当になかったのかい……。血はね、魔力が足りない時に魔法陣に垂らすと、まあ量にもよるけど、ある程度魔力を補ってくれるのよ」
「マジか。初めて知ったわ。けど、それなら心当たりがある」
たぶん、屋上に描かれた魔法陣を拳で突いた時に着いた血が、魔力を発生させる鍵となったのだろう。
「あらそうなの。なら、とりあえず疑問は解決ね。何だかあたしも眠くなってきたわ。そろそろ戻るわね」
ミアラはそう言うと、ひらりと足を扉の方へ向けた。ドアノブに手をかけ、扉を開ける。
「ねえシズク。あんたの元気そうな顔がまた見れて、安心したわ」
「俺も、お前たちの顔を見れてよかったと思ってる」
「そう。そんじゃ明日はアルブリット洞窟のクエストに行くから、ちゃんと準備なさいよ」
言って、ミアラは子供のように笑った。シズクもそれに答えるように、自身の胸に手を当てて、大仰に声を上げる。
「心配するな。俺は英雄になる男だぞ!」
こんにちは、水崎綾人です。
次回もお楽しみして頂ければと思います。




