第15話「それは愚断か英断か」
今日も今日とて嘲笑と噂話をすべて黙殺したシズクは、いつものように部室に向かった。
部室に入ると、そこには死んだ顔の三人が既に定位置に座っていた。
長机に突っ伏した明日香が、生気のない目でシズクを見る。
「あ、静久先輩だ。あれ、桜花先輩は?」
「何か用事があるらしい。もう少ししたら来るんじゃないか?」
シズクもいつもの位置に座る。それにしても、結依も琴夏も顔が死んでいる。
「おいおい、どうしたんだよ、お前ら。そんなにぐったりして」
「どうしたもこうしたもない。あれだけ色々噂されて、その上、生徒会長代理様はあの態度ときた。さすがの私たちだって疲労がたまってくるだろうが」
声の調子からも、その疲れ具合が伝わってくる。
正直、琴夏たちは噂話など気にしていないと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。普段は気丈に振舞っていても、やはり傷つくし疲れている。
「お前らのそういう弱ってるところ見るの初めてだから、なんか新鮮な気分だな」
シズクが何気なく言葉を吐いた瞬間、三人の目つきが変わった。
最初に反応したのは結依だった。
「橋崎さん、馬鹿を言ってもらっては困ります。わ、私、全然疲れてませんよ? このくらいの逆境なんてまだまだ大丈夫です。ほらほらっ」
ぐったりとうなだれていた体を起こし、結衣は長く黒いツインテールを鞭のように振るう。時折、ヒュンという空気を切る音が聞こえてくる。
「いやツインテールの勢いに比べて顔死んでんじゃん! ごめん、俺が悪かったから無理せず休んでてくれ!」
「静久先輩、私だってほらっ! 全然いけますよ!」
今度は別の方向から明日香の声が聞こえてきた。
見れば、明日香は椅子の上に乗っかってシャドウボクシングをしている。シュシュッ、と口で言いながら、時折こちらを見て可愛らしくウィンクしてくる。突き出した腕が残像のせいで何重にも重なって見える。
「わかったから! そうだな、お前も元気だな。変なこと言って悪かったから、普通にしててくれよ!」
「橋崎ぃ……」
今度は琴夏の声がシズクを呼んだ。
シズクは眉間に皺を寄せ、琴夏に視線を向ける。と、そこには、机の上に置いた消しゴムを指で弾こうとしてる琴夏の姿があった。
「私だって元気だぞ。少なくとも、この消しゴムを指で机の端から端まで弾き飛ばせるくらいにはな!」
「それって元気っていうのか!? 他の二人ほど元気さが伝わってこないんだけど!」
「いちいちうるさい英雄だな。本人が元気って言えば元気なんだよ。だからな、橋崎。絶対に、私たちが疲れてるとか桜花には言うなよ」
先ほどの間の抜けた表情から一変して、琴夏は一気に真剣な顔に変わった。それに従って、シズクも自然と居住まいを正す。
「ああ、わかってる。当たり前だろ」
さすが部長というべきなのか、琴夏は存外に部員のことを気にかけている。その部分は、シズクは素直に尊敬している。
それから数分して桜花が帰ってきた。片手にカバンを携えた彼女は、どこか穏やかな顔をしていた。
「あ、桜花さん。用事は済んだんですか?」
結依が普段通りの様子で訊ねる。
桜花は「ええ」と短く答えると、いつもの椅子には座らずに長机にカバンを置いて、その場で立ち止まった。
「ちょっといいかしら。みんなに報告があるんだけど」
部員全員の頭上に疑問符が立ち上がる。
桜花はシズクたちの顔をぐるっと見渡すと、やがて小さく微笑んだ。
「今、美陽と話してきたんだけど、もうオカルト部には手を出さないって言ってくれたわ」
わずかの間、桜花が何を言っているのかわからなかった。が、脳が徐々に言葉の意味を理解していく。それに従って、温かな感情が体の中に広がっていく。
部室中に喜びと安心の空気が充満し、各々歓喜を表すようにガッツポーズをしたり、ハイタッチをしたりした。
やっとのことで美陽からの嫌がらせから解放されたのだ。これほど嬉しいことはない。それにしても、美陽の中でどういう心境の変化があったのだろうか。
シズクはガッツポーズをやめ、桜花に質問する。
「なあ、桜花。お前が説得したのか? うちの部長でも一蹴されてたのに」
「え? ええ、そうよ。色々と頑張って説得したのよ」
桜花の口から吐き出された言葉は、どこか歯切れの悪いものだった。心なしか桜花の目はシズクの顔を見ようとしていない。
「いや、だからその色々ってなんだよ」
「色々は色々よ!」
ぷいっと顔を背け、桜花は机に置いていたカバンを再び片手に持つ。
「それじゃ、私、今日は用事あるから先に帰らせてもらうわね。そういうことで」
くるりと踵を返し、部室から出ようと足を動かす桜花。
その様子は、あまりにも不自然だった。だからこそ、シズクは反射的に呼び止める。
「おい、桜花。ちょっと待て」
ぴたりとその場で立ち止まる桜花。しかし、振り向くことはない。
「な、なによ、橋崎。私、今日はちょっと早く帰らないといけないんだけど」
「早く帰らなきゃいけない奴が、随分と長い時間美陽と話してたみたいだな。桜花、お前一体どうやってあいつを説得した?」
シズクは逃がさないように、桜花の背中を一点に見据える。恐らく、桜花もそれを感じているのだろう。その場で固まって動こうとしない。
「どうやって、て……だから色々だって言ってるでしょ。何度も言わせないでくれる?」
「何度も言いたくないなら、最初からはっきり言ったらどうだ」
桜花はぎりっと奥歯を噛み締める。
そこで何かに気づいたのか、琴夏が口を開いた。
「まさか、桜花。城河に何か言われたな? オカルト部に手を出さないための条件みたいな何かを」
「……いえ、別に、そんなこ――」
「嘘つくな」
はっきりと言われ、桜花はしばしの間閉口する。次いで、小さく肩を動かし息を吸うと、シズクたちの方を振り返った。その桜花の表情は、吹っ切れたような爽やかな笑顔だった。
「実は私、今週いっぱいでオカルト部を辞めることにしました。短い間でしたが、お世話になりました」
桜花の発言に、全員が目を見開く。
「それが、城河が桜花に出した条件か……?」
琴夏からの問にも、口を開こうとしない桜花。視線は左下に固定されている。
「そんな条件飲む必要ないぞ、桜花。これは部長命令だ。お前がそんなことしなくたって、オカルト部はまだまだ戦えるだけの力がある」
「いいんですよ、琴夏先輩。このままだと、美陽はきっとさらにオカルト部に対して嫌がらせをしてきます。そうなったら、本当に廃部になっちゃいますよ。そんなの私は嫌です」
「でもっ……!」
「守るためには美陽の条件を飲むしかない。私は……たとえ私自身がいなくても、私を暖かく迎えてくれたこの部は残っていて欲しいんです」
桜花が決意のこもった瞳でそう言うと、琴夏は言葉を詰まらせた。
誰も反論してこないと悟った桜花は、静かに一礼すると足早に部室から出て行った。
残された部室には、喪失感と無力さだけが漂う。
ちらと琴夏を見ると、悔しそうに机に拳を打ち付けていた。部の長であるにも関わらず、部員に酷な選択をさせたことを嘆いているのだろう。
シズクも、桜花がこんな選択をするのは間違っていると思う。これでは美陽の思う壷だ。拳をぎゅっと握り、すぐさま桜花を追って部室を飛び出す。
桜花は既に廊下の奥の方を歩いていた。シズクは急いで桜花に駆け寄る。
「ちょ、ちょっと待てよ、桜花っ!」
桜花は無言で歩き続ける。
「だから待てって言ってるだろっ」
今度は桜花の肩に手を置いた。すると桜花はピタリと止まり、ぼそっと声が返ってくる。
「…………何よ」
「何よって、それはこっちのセリフだ。お前こそ何なんだよ。急に部活辞めるとか言い出して。お前がいなきゃオカルト部じゃないだろ! なあ、考え直せって。桜花が部活を辞める必要なんてどこにもないだろ!」
「じゃあ…………じゃあ、どうやってオカルト部を守れって言うのよっ!」
桜花は肩に置かれたシズクの手を強引に払いのけると、シズクの方に向き直る。その桜花の顔は涙に濡れていた。頬は赤く紅潮し、目尻には大粒の涙の雫が溜まっている。
「そ、それは…………」
「あんた言ったじゃない! 自分に出来ることをやるべきだって! 美陽がオカルト部に嫌がらせをしている理由は私にあるのよ! なら、私がなんとかするしかないじゃない」
シズクの胸に、桜花の拳が打ち込まれる。しかしその拳に威力はなく、前に受けたときとは段違いに弱々しいものだった。
「桜花……。けど、それじゃ……お前は、お前はどうなる? せっかくの楽しいと思えた場所を自ら手放すのか?」
「それしか方法がないんだから仕方ないじゃない! ……私は、中学の頃のバスケ部みたいに、楽しかった場所までなくすのは嫌なの。私がいなくても、楽しかった場所は残り続けて欲しいのよ……」
桜花はたまった涙を払うと、儚げな笑みをシズクに向けた。
「それに、これってあんたの言う英雄みたいなものでしょ?」
「は……? なに言ってんだよ、英雄ってのはより多くの人を――なっ!?」
自分で言っているうちに、シズクは桜花の言葉の意味を理解した。英雄はより多くの人を守るもの。シズクは確かにそう言った。
桜花の行為もまた、オカルト部とその部員を守るためのもの。はたして両者に違いはあるのだろうか。否、たぶん違いなどない。桜花の選択で救われる者がいるのなら、それはまさしく英雄的行為と呼ぶにふさわしいだろう。
だとすれば、桜花の決意の後押しをした原因の一つは、シズクにあるのかもしれない。
シズクは自責の念にかられ、急激な喉の渇きに襲われる。
「け、けど、……いや、桜花。お、俺はそういうことが言いたかったんじゃ……その……」
「わかってるわよ。ただ、今回の英雄はあんたじゃなくて私だったってこと。ま、金曜日に退部届けを提出するまでは一応オカルト部員だし、それまではよろしく。あと、今まで楽しかったわ、ありがとね橋崎。それじゃ、私は帰るわ」
ひらりと手を振り、桜花はシズクに背を向けた。コツコツという規則正しい靴音を響かせ、桜花の姿が徐々に遠のいていく。やがて、シズクの視界から桜花の姿は消えた。
呼び止めることもできず、シズクは自らの無力さを痛感してその場に立ち尽くしていた。
窓から入り込む茜色の夕日が、誰もいない廊下を虚ろに照らしている。
***
「くそっ!」
部室には戻らず屋上に向かったシズクは、魔法陣の描かれた地面に拳を打ち付けた。湧き上がる無力感に力任せに打ち付けた拳からは、わずかに血が流れる。
痛い。けれど、そんな痛みなど消し飛ぶほどに、今は自分が情けなくて仕方が無かった。
あれほど「英雄になる男だ!」と言っておきながら、その実、何も出来てない。加えて、大切な仲間である桜花に退部の選択までさせてしまった。
「俺はどれだけ無力なんだよ…………」
と、その時だった。ガゴンという音とともに、屋上の扉が開いた。
シズクは肩越しにそちらに目線を放る。瞬間、怒りの感情がこみ上げてきた。
「あらあら、橋崎さんじゃありませんの」
水色の髪を夕風になびかせ、悪戯な笑みを浮かべた美陽がそこにいた。
「美陽、お前……」
シズクは立ち上がり、美陽に詰め寄る。
「なんですの、怖い顔して。何か言いたいことでもありまして?」
相変わらずの挑発口調に苛立ちながらも、シズクは出来るだけ冷静になるように自分に言い聞かせる。
「お前が桜花に退部するようにそそのかしたんだろ?」
「ええ、そうですが。なにか」
「お、お前はそこまでして桜花からオカルト部を奪いたいのか!?」
語気を荒らげ、シズクはさらに一歩美陽との距離を詰める。
すると美陽はクスッと一笑し、首を振った。
「違いますわよ。私は別にあの子からオカルト部を奪いたいわけじゃありませんわ」
「は、はあ? じゃあ、何が目的なんだよ」
聞くと、美陽は今までに見たことのないほどの悪意に満ちた表情を浮かべる。目を見開き、それでいて口許だけでは笑っている、なんとも恐ろしい顔だ。
「私は、あの子が楽しいと思えるもの、大切だと思っているものすべてを奪いたいんですの! 無力さと孤独さに叩き落としてやりたいんですのよ! ひゃっははははははっ!」
奇妙なほど高い笑い声を上げ、美陽は天を仰ぐ。そんな彼女の姿は悪魔にも見える。
「奪って奪って奪って奪って奪って! 何から何まですべて奪って絶望させる。それが私の崇高な目的ですわぁ! だから別に、オカルト部だけを奪いたいんじゃないんですのよ」
シズクはそんな美陽の言動に恐怖すら感じる。
「それにこの私が、桜花さんが辞めたくらいでオカルト部から手を引くとお思いですか?」
「お、おい、まさか。それって」
「考えても見てください。自分の守ったはずのオカルト部が、翌週には廃部になっていたら。あの子はどう感じますかねぇ」
「そんな……いくらなんでもあんまりだろ!」
「はあ? 何を言ってますの? 知ってると思いますが、私は既にあの子から楽しかったバスケ部を奪われてますわ。勝ちにこだわって過酷な練習を部員にも押し付け、挙句の果てには実力の差まで見せ付けられた。この悔しさが、あなたの言う『そんなこと』で済まされると思ってますの? 少なくとも私には思えませんわ! あの子には、きっちりと絶望してもらって高校生活も壊させてもらいますわ」
そう語る美陽の目は、普段の余裕に満ちたものではなかった。恨み、憎悪、嫌悪などのあらゆる負の感情が複雑に入り混じった、とてもおぞましい目だった。
ひとしきりシズクを睨みつけた美陽は、くるりと背を向けて扉の方まで移動する。
「ああ、そうだ。橋崎さん。チャンスを差し上げても良いですわよ」
「……チャンス?」
唐突な提案に、シズクは訝しげに首をかしげる。
「ええ。チャンスですわ。もしもチャンスを掴めれば、桜花さんにもオカルト部にも手は出しませんわ。その気があるのでしたら、金曜日に生徒会室へどうぞ。ただし、チャンスを掴めなければ、桜花さんには退部してもらって、オカルト部も解散してもらいます」
「……なっ。そんな」
「どうします? チャンスを見送って部を守るために桜花さんには消えてもらいます? それともチャンスを手にして両方得ますか? ま、今の橋崎さんなら、私がどういった理由でこの言葉を申し上げてるかお分かりになると思いますが。それでは、ゆっくり考えてくださいね」
と、最後に邪悪な微笑みを残して、美陽は去っていった。
美陽の目的はわかっていた。彼女は最初からシズクたちにチャンスを掴ませる気など毛頭ないのだと。
もし挑んでも、何かしら妨害されて負けるだろう。そうすれば、桜花の守ったオカルト部も消え去り、桜花が無駄に退部したことになる。しかし、挑まなくても部は美陽によって潰され、桜花も辞めさせられてしまう。
どちらにしても、美陽は桜花を苦しめることしか考えていない。
もう、どうあがいても美陽の手の中からは逃れることができないのかもしれない。
***
帰宅したシズクは、崩れるようにしてベッドに倒れ込んだ。
今日は色々なことが起こりすぎて頭がパンクしそうだ。考えなければいけないこと、自分があまりにも情けないこと、無力であること。それらすべてが一度に押し寄せてきた。
「一体どうすりゃいいんだ……」
一応、美陽からの提案は琴夏に連絡した。しかし琴夏もまた、シズクと同じ反応を見せた。大方、琴夏も美陽がどんな理由でこの提案をしてきたのかを察したのだと思う。
今のオカルト部は完全に無力だ。何をするにも美陽に阻まれるし、壊される。
シズクは歯がゆさにベッドに拳をベッドに叩きつけた。
「痛っ……!」
チクッと痛みが走り、シズクは拳に目をやる。そこでシズクは、先ほど地面に拳を打ち付けて怪我をしたことを思い出す。出血は治まっているようだが、傷口は開いたままだ。
「……とりあえず、絆創膏でも貼っておくか」
ベッドから体を起こし、テレビの横の棚の上に置いてある救急箱を取ろうと移動する。
と、その時だった。
突然、胃液が逆流しそうな感覚に襲われた。
「うぐっ……なんだ……っ!?」
天地が逆転するかのように視界が歪み、激しい頭痛に頭に手を添える。
奥歯を必死に噛み痛みに耐えるが、そんなことで緩和できるほど容易い痛みではない。
シズクはこの感覚を前にもどこかで感じたことがある。忘れもしないあの日。
「ま、まさか、これは……。ああがっ。うぐぐぐっ……」
徐々に意識が遠のいていく。体の感覚も切断されていき、平衡感覚が失われていく。立っていられなくなり、シズクは糸の切れた操り人形のようにその場にぐったりと倒れこむ。
頭痛が激しさを増すにつれて呼吸が少なくなり、景色の色が失われていく。
やがて、シズクの意識は完全に途切れた。
こんにちは、水崎綾人です。
次回もお楽しみに!!!




