〜いつか晴れ渡る空の下で〜
ふと中学時代を思い出して書きました。
俺は教師と言う人間を信用しない。おそらくそれは未来永劫変わらないだろう。
そう思い始めたのは中学校に入ってからであった。
一年の担任はどこにでもいる普通の中年の理科の教師だった。自分にとって利益の無いことはしたくないマニュアル型の役人みたいな人間であった。
無論そんな人間に好奇心旺盛な若者達を抑える力なぞなかった。所謂学級崩壊の始まりである。
逆に二年の時の担任は自己中心的で独裁的な英語の教師であった。自分に逆らう生徒は成績を落とし容赦なく暴力を振るう。
当然反抗期真っ只中だった俺達がそんな人間に従うはずもなかった。組織を作り一致団結して教師に、そして社会に反抗した。
結局どいつもこいつもロクな大人じゃねぇ。やっぱり大人より時代は若者なんだよ。
そうやって俺達はどんどん荒れて行った。破滅と言う名を隠した自己満足的正義に溺れながら。
そしていつの間にか俺達は学校のPTAや保護者の間で『史上最低のクラス』と言う烙印を押されてしまった。
それでも別に構わなかった。正直今が楽しければそれでいいや的な思想が蔓延していた。
喧嘩・喫煙・飲酒・窃盗・不順異性交遊・恐喝…etc。
ワルと呼ばれる為に俺達は何でもやった。今考えればアホ丸出しである。
だが当時の俺達はそんな事を露とも思っていなかった。
そして俺達はいつの間にか最終学年になっていた。
それでも俺達はいつもと同じ昼過ぎに銜えタバコにだらけた格好で登校するような生活であった。
ここだけの話、俺が中学に入って荒れたのには幾つか理由があった。
先にあげた教師連中に対する反抗はもちろんの事。
大人になることへの不安。己のメンツの成立。世間に対する憎しみ。
そしてなによりの理由は『寂しかった』ことである。
俺の両親は共働き状態で家に誰もいなかった。最も多感な時期を一人で過ごしていた訳である。
当時の俺は高校進学の為に親に無理矢理塾に通わされていた(中学二年生の時に喫煙で退塾処分)
。
その時、夜遅くに繁華街を歩けば同じ歳だろうか若者達がコンビニの前にたむろしていた。誰に決められる訳でなく、自分の好きなように生きる彼らがとても眩しく思えた。
そして中学二年生の時(一番荒れていた時期)に晴れて退塾処分となった俺は不良グループに接近し行動を共にするようになった。
喫煙・飲酒を覚え、喧嘩で相手のプライドを踏みにじる喜びをも覚えた。
親の財布から金を抜き取りカラオケやゲーセンで豪遊する毎日だった。
そんな俺が3年になりある人物にであった。
俺にとって生涯の恩師であり。俺の行き方を変えてくれて人生を教えてくれた人である。
その人は俺の中学3年生の担任であり音楽教師である。
最初の印象はガタイのいい背の高い。どこにでもいる口うるさい先公だった。
当然俺達は今までどおりの生活スタイルだった。遅刻は当然の如く校内で喫煙も当たり前であった。
『どうせ他の教師連中と同じだろう』、それが俺達の間での人物評価であった。
だが何かがおかしかった。月が変わるたびに俺達の仲間が一人また一人と真面目に戻って行った。
そして結局片手で数えるほどしか仲間は残っていなかった。全盛期は学校中のワルを裏から掌握していた俺がである。
孤立するかもしれない不安と焦燥感と裏切りに対する怒りで悶々とする日々を過ごしていた。
ある日、別のクラスの奴と些細な言い争いから掴み合いの乱闘になった。所謂感情の爆発である。
その時身で割って入って仲裁に入ったのが担任であった。
途中で止められて気に食わなかったが丁度よい機会だからと大人しく説教を聞いてみた。
驚いた事に彼は親身になって話を聞いてくれただけでなく、真正面から俺と話をしてくれたのである。
どんな話をしたかは今はもう覚えてない。だが正面から俺に向き合って話してくれたことがなによりも嬉しかった。
社会のゴミ・問題児・反社会的とボロクソに貶められ、正当な評価さえ受けたことの無い俺と正面からである。
ワルから真面目になろうと不器用ながらも努力した俺を先生はちゃんと公平に正当に評価してくれた。
薄暗く憎しみの連鎖が続く世界で生きてきた俺の日々の幕はその日を境に閉じた。
かくして俺は太陽の下を大手を振って歩ける暖かい世界に戻ってきた。
文化祭・修学旅行・体育祭と諸行事をクラスメート達と過ごして行き、本当に楽しかった思い出ができた。
そして卒業式が目前に迫ったある時、先生とこんな約束を交わした。
『いつか、お前が立派になったら二人で酒を飲もう・・・昔の話を肴にな』
この言葉に支えられて俺は今も生きている。時に社会に打ちのめされて失墜の中にある俺を奮い立たせる起爆剤にもなった。
楽しかった日々もやがて終わることになった。
終始笑いが耐えなかった卒業式も終わり。別れの時が近づいていた。
式終了後に俺達は教室で先生に向けて最後の感謝の気持ちを歌った。海援隊の『送る言葉』である。
音楽教師だった先生の為に指揮棒を買い、内緒にして日々練習していたのである。
卒業式の最中に涙を見せなかった先生が・・・指揮棒を男泣きに泣きながら振っていたのである。
その姿にかつての不良達が涙を流しながら・・・彷徨いの言葉は天に導かれるように歌っていた。音程もリズムも無く涙を流しながら。
そして俺も涙を流しながらも背筋をきちんと伸ばしながら最後まで歌い続けた。
様々な思いが胸に去来していた。悲しみよりも感謝の念が最後に残った。
こうして俺の波乱万丈に満ちた中学時代は終わりを告げた・・・。
決して俺の進む道は満月の夜道ではない。むしろ新月の中を手探りで歩くような道である。
そして俺がなろうとしている職業は決して世間一般に人に誇れる物では無いのかもしれない。
だが自分がその仕事に誇りを持っているのであれば、すべからくそれは立派な職業ではないのだろうか。
だから俺は先生に今は礼を述べないし、感謝もしない。
いつの日か晴れ渡る故郷の地で堂々と胸を張れるその日まで・・・。