8月14日
その日は朝から雨だった。
ぼくは、ぼーっと外を眺めていた。
それはまるで、何年も読んでいなかった、昔大好きだった本を読み返すような感じだった。
たいして珍しい訳ではないのに、ヘンに新鮮な、あの感じだ。
ぼくは、しばらく中断していた、「自分自身について考えてみる」事を再開しようとしてみた。
それほど、しばらくぶりの雨はぼくを退屈させていた。
そんな時、彼女が、ビーチサンダルとレインコートを着て突然やってきた。
「散歩しない?」
この夏、雨がほとんど降らないせいもあるけれど、ぼくらは雨の日に集まった事はなかった。
学校でしか会った事のないクラスメイトの私服姿を初めて見た時のような、淡い戸惑いがぼくを襲って、彼女のその突拍子もない誘いを理解するのが一瞬遅れた。
…3分後、ぼくは彼女の指示に従って、ビーチサンダルを履き、ビニールの傘をさして、街を歩き出した。
家にはレインコートはなかった。彼女は不服そうだったが、「ちゃんと周りが見える透明な傘」で妥協した。そして、どうせ濡れるからと、ビーチサンダルを履いて、ぼくらは表へ出た。
彼女ははしゃいでいた。
雨が好きなの?と聞くと、しばらく考えて、
「雨が降ってる時の、街の感じが好きなの。」
と、笑った。
確かに、雨の音でうるさいくらいなのに、街は逆にひっそりとした感じで、独特の、寄せつけないような雰囲気だった。
そして、そこに自分も参加してしまうと言う事は、変に心を穏やかにさせ、同時にワクワクさせた。
「ねえねえ、世の中ってさ、最高の芸術だよね。」彼女が植込みの木に寄り掛かるようにしながら、感心したように言った。「葉っぱの1枚1枚まで念入りに作ってあって、360度、上も下も、全部どこ見てもだし、動きまであるし、空間の微妙さったら神業だよね。」
「初めてだよ。雨の中、散歩につきあわされるの。」
レインコートが約に立たない顔と手と、膝から下の素足をずぶ濡れにして、彼女は笑った。
何日かぶりの恵みの雨を喜ぶ、木や花の気持ちを代表しているような笑顔だった。
うちつける雨で、バリヤのように煙った、屋根や塀と同じように、雨に打たれる彼女の方や頭や、そんな雨との境目を見ながら、ぼくらは、ほとんど街中を歩いた。
公園にも、プールにも行った。
途中、自動販売機でジュースを買って飲んだ。
「なんか周り中、水なのに、敢えて味のついた水飲んでるのって奇妙な。」
おかしな事を言っているような気がしながらも、ぼくがそう言うと、彼女は「わかる。わかる。」と笑った。
たっぷり、ぼくらは雨の街を堪能して、ぼくの家の前に戻った。
「あがってく?」
ぼくが聞くと、彼女は黙って首を振った。そして、ちょっと困った風な顔をして、そして言った。
「森くんと、別れちゃったよ。」
森くんというのが、ちえちゃんの言っていた彼女の彼だというのは、すぐに解った。
彼女は、通りの雨の方を見た。
「捨て犬はさ、段ボールの中で生きていく訳にはいかないんだよね。良い人に拾われて、あったかな家でかわいがられるのが、きっと幸せなんだよね。拾われてったのを、残された方は喜んであげなきゃいけないよね。」
ちえちゃんの言葉を引用して、まるで本当に犬の話でもするように、それだけ言うと、彼女はくるりと振り向いて、ぼくの方を見て笑った。
何も知らないで見たら、彼女は今、なんて幸せなんだろうと思わせるような笑顔だった。
ぼくは、そんな彼女を本当に逞しいと思った。同時に、人は、どんなに辛い時にも幸せそうに振舞う事は出来るんだと、思い知らされた気がした。
「ごめんね。変な話聞かせて。」
そう言う、彼女の屈託のない笑顔を見ながら、ぼくは胸の所に、重い、鉛の固まりが突っかかったように感じた。そして、それはもう、この先ずっと、取れないでいるのだろうと確信していた。




