第一章・二
----ひどく、冷えた風が吹いた。
走り抜ける寒気に身がすくむ。高く低く響く風唸り。
着ている服が、風に翻弄され強くはためき、俺は何度もよろ
めいた。
陽光は照り付けて、暑いくらいだったはずなのに。
今はもう、骨の芯まで凍えそうなほどに、大気が、世界が冷え
きっている・・・・・・。
「来るよ。時間だよ」
フリエが、緩んだ声で告げる。何が始まりだというのだろう?
彼女の、どこか幼さを残した顔立ちには微笑が浮かんだままで。
しかし目が変わっていた。
こういう眼光を、おれは今までの人生で見たことがない。
それは言うなれば、研ぎ澄まされた鉈が放つ、鈍く鋭く重い輝き。
戦士の目だ。狩人の目だ。戦い滅ぼすことを決意した人間の目だ。
その唇の端が、僅かに吊り上る。悦んでいるのだ。この少女は。
「現世に居るんだよね、君は。
でも、帰ったほうがいいと思うの。
あなたはもう役割を果たしたのだし−−それに、多分見ていて楽
しいものじゃ、ないから」
彼女は、斜に背負った大剣の柄を握った。
そして、身を低く屈め、顔だけで虚空を見据えている。
猫科の猛獣が、獲物に襲いかかろうとしているような。
これは、そういう構えだ。眼前にあるものすべてを滅ぼし去ることを
決意した目だ。あるいは己が滅ぼされるかも知れぬことを、当然のこと
として受け入れた目だ。
『傷々たる風血盟の龍、疾く疾く歪みの穴より出でて我が瞑敵を
滅ぼし在れ−−』
朗々たる声が、不意に響く。
クレアだ。背から生えた銀色の触手が6本。ひどく規則的に、しかし
それでいて複雑に。虚空に何かを描くようにしてうねっている。
彼女は目を閉ざし、無心に、歌うように、俺には意味がわからない言葉を
つむぎ続ける。
身にまとった黒いトーガが、風に絡みつかれてひどくはためいていると
いうのに、彼女はそれでも微動だにしない。
彼女もまた、何かを待ち構えているのだ。
何が起ころうとしているのだろう。何が現れるというのだろう。
身動きすることもかなわないまま、おれは彫像のように立ちすくむ。
風が、いっそう強く吹きぬける−−
そして、世界が、不意に、波紋のように揺らめき歪む。
何もない虚空から・・・・・・一本の腕が突き出した。
しかしそれが、人間の腕ではないことも明白だった。
半透明の赤い肉の中、螺旋状に捻れた細い針金状の、骨を備えた、
腕。指は四本しかない。親指が、欠け落ちている。
胸を突くような異臭。のどの辺りに酸味を帯びた液体が競りあがってくる。
これは、血の臭いだ。人間の、血の、臭いだ。
フリエが奔る。彼女の鎧もまた、血を浴びたような深紅。
彼女の背から抜き放たれる刃。陽光を映し鋭く煌き。そして、腕が突き出した
虚空に銀の弧を描く。
何もないはずの空間から・・・・・激しく、血がしぶいた。
胸を突く臭いが吹きすさぶ寒風に乗り相共に押し寄せてきて俺をさいなむ。
そして、それはもがきながら姿を現した。
針金を捻って作り上げた人間の骸骨。赤く透明なひも状の肉が幾重にも幾重
にも巻かれた蠢くマネキン。
眼窩には眼球の変わりに青く輝くいびつな石が嵌っていた。
鼻は削げそこには二つの穴が開いている。
唇も、ない。たわめられたバネのような螺旋状の針金が、歯のように口の中に
並べられている。
それは、人間でありながら人間とは異なる奇怪な蠢くオブジェ。
右の肩口から、左のわき腹にかけての肉が引き裂かれていた。そこから奔流の
ように血潮があふれ出してとまらない。
フリエが放った斬撃によるものだろうか。
ーーown,own,own,ownーー
それは唸りながら、フリエではなく、俺を見ていた。表情のない顔で。
俺の視線は、うつろな青い「眼」に吸い寄せられて離れない。
歩いて、「来る」。
そう。こいつは・・・・・・俺に、近づいてくるのだ。
『抗う者我が敵と我は認めたりゆえに我が盟約たる7の条命に従い在れ』
朗々たる声、再び、響く。
いつの間に、異形の背後を取ったのだろう?
異形の肩越しに見えるのは二つの緑の瞳。だがそこに宿る眼光は常人のそれでは
決してない。玉虫のような、複雑に入り混じる緑の虹がその光彩にある。
その異様な輝きが、敵意であることは疑いなかった。
『痛みし龍よ、顎にてその痛みを癒すべし。ゆえに汝の業たるは傷。傷を移し傷にて
万物を滅ぼすを今許す。勅たる我が言葉を聞き足るならば、今ここに直ちに在れ!』
不意に、輝きの奔流としか呼べぬ何かが。輝き唸る風としか思えぬものが吹き荒れる。
光の風は異形の体を食いちぎり焼き砕いていく。その中で、異形はもがきながら・・・・・・
しかしそれでも俺を見つめているのだ。
物言わぬ瞳に、何かを宿したままで。
俺は、なぜだか・・・・・歩を、踏み出していた。
嫌悪感しか沸かぬ。人間ではありえぬ、人間。歪みながらもがく怪物。
それに向かって、一歩、二歩・・・・・・
「危ないですよ」
警告意外に何の意味も持たぬ言葉。フリエだ。
フリエは頭上高々と、彼女の身の丈ほどもありそうな大剣を振りかざした。
かざ唸りを残して、刃が一閃する。次の瞬間、異形の胴体から首が消失していた。
異形はひざを尽き、もがくように空中を爪で掻くと・・・・・・そのまま、たおれる。
わけもわからないまま。俺は。一歩足を踏み出していた。
跳ね飛ばされた首の、青い石。瞳も白目もない奇怪な眼。
吸い込まれるように俺の視線はそれに据えられ離れない。
現実を処理しきれず焼きついた思考回路の中。俺はコンクリートの上に転がる
首に向かって歩を進めていく。
そしてーー拾い上げた。




