クチャラー
これは私が学生だった頃の話です。
当時同居していた彼女が「この音なんとかならない?」と不機嫌そうに言ったのが始まりでした。
「え、何が?」
「音だよ、音。さっきからずっと何か食べてるでしょ。クチャクチャ、クチャクチャって。耳障りなんだけど」
私の口の中には何もないです。ガムも飴も食べていませんでした。
「何も食べてないけど。ほら」
わざとらしく口を開けて見せると、彼女は「知ってるって。どっかから聞こえてんの」と、さらに眉をひそめました。
──クチャ……、チャプ、チャプ……──
耳を済ませてみると確かに咀嚼音のようなものが聞こえます。というかなぜ気づかなかったんだというくらいです。私は読書が趣味なので、本の世界に没頭すると外のことに意識がいかなくなりますが、一度気づいてしまうともう駄目でした。
狭いワンルームのアパートなので、音の出どころはすぐに分かりました。私たちのベッドのすぐ横、壁の向こう側の302号室からです。
「隣か。あいつ、こんな時間に何食ってんだよ」
「毎日だよ。一週間くらい前から、朝から晩までずっとあの音。なんか、すごく水っぽいものを、ずっと噛み続けてるみたいな……」
彼女は耳を塞ぐように布団を頭からかぶりました。隣の住人は確か細身で大人しそうな、四十代くらいの方でした。挨拶をしても小さく会釈をするだけの、印象に残りづらい人です。
──クチョ……、チャプ……、ピチャッ──
壁越しに聞こえるその音は、異様に生々しかったです。まるで隣人が私たちのすぐ枕元にしゃがみ込んで、耳元で濡れた肉でも咀嚼しているかのような近さ。
私は壁を拳で二、三回軽く叩きました。
壁を叩く音が響くと、隣の音はピタッと止まります。
「よし、静かになった」
私は彼女にそう言って電気を消しました。面倒臭いし、この日はとても疲れていて早く眠りたかったのです。
しかし、次の日の夜も、その次の日の夜も、まだあの音は続いているようでした。部屋が静かになると必ず意識してしまいます。
──ピチャ、ジョプ、クチャ……、ゴニュ──
日に日に、音が湿っぽさを増していきます。何か柔らかくて、骨の混ざった繊維質のものを、何度も何度も執拗に咀嚼している音。
彼女はすっかりノイローゼ気味になり、日中も元気がなくなっていきました。
「あの音が耳から離れないの。なんか、頭の中までくちゃくちゃかき混ぜられているみたいで」
そう言ってデリバリーを取り寄せても「気持ち悪い」とほとんど残すようになりました。彼女の目の下には隈が見えるし、私だって不快な音にイライラが募っていました。
土曜日の深夜一時半のことです。
テレビを消して、壁の向こうからあの不快な「クチャ、ピチャ」という音が響き始めた瞬間、彼女がガタガタと震えだしました。
「お願い、もう無理。直接文句を言ってきて」
涙をためて懇願する彼女を見て、私も睡眠不足で限界でしたから、カッとなって部屋を出ました。
廊下に出て、隣の302号室のドアの前に立ちます。
チャイムを鳴らしてやろうとして、指が止まりました。ドアの隙間からあの音が聞こえるんです。
ドアのすぐ裏、玄関の床のあたりに隣人がしゃがみ込んでいる気配がしました。私たちと同じ、ワンルームの狭い部屋ですよ。そんなところで食事をするわけがないじゃないですか。
──クチャ……、チャプ……、ゴニュッ、ゴニュッ──
しかし、咀嚼音が聞こえるのは間違いありません。ドアに耳を押し当てると尋常ではない近さです。
「すみません。303号室の者ですけど」
声をかけると中で音がぴたりと止まりました。
返事はありませんでしたが、ドアの向こう側で誰かがじっと息を潜めているのが分かりました。
「夜中のその、食べる音なんですけど。壁が薄いので、結構響くんです。少し静かにしていただけませんか」
数秒の沈黙の後、ドアの向こうからかすれた男の声が返ってきました。
「ああ、すみません。お騒がせして」
驚くほど素直で弱々しい声でした。
「いや、分かればいいんです。夜中ですので、気をつけていただければ」
「はい……。でも、お腹が空くんです。どうしても」
「はあ」
「何を食べても、消化できなくて……。胃から、そのまま戻ってきちゃうんです。だから、こうして、何度も何度も、噛み砕いてから飲み込んで、吐き出したらまた噛み砕いて……そうしないと、中身が腐っちゃうから……」
その声は泣きそうに震えていました。
「もう二週間も、これを繰り返してるんです。早く飲み込んでしまわないと、お肉が全部腐っちゃうんですよ」
クチャッ。会話の途中であの音が聞こえました。
隣人の口の中で、水っぽいぐちゃぐちゃになった肉がくちゃくちゃ咀嚼されてる音が響きます。ドアのすぐ向こう側でまた食べ始めたんです。
私は声も出せず、自分の部屋に逃げ帰りました。急いで鍵を閉めて、普段ならかけないチェーンをかけました。
「どうだった?」
彼女がベッドの上で不安そうに私を見つめていたので、少し冷静になれました。
「ああ、いや……ちょっと頭のおかしい人みたいだから、関わらない方がいい。明日、管理会社に連絡するよ。今日はもう寝よう」
私は彼女を安心させるように、無理やり笑ってみせました。
彼女はしばらく私の顔をじっと見つめていましたが、やがて視線を落とし、「そっか……」とだけ言って布団に入りました。
その夜は音楽を聴いていたら寝ることができました。
翌日管理会社に連絡を入れると、担当者は事務的な声で「確認します」とだけ答えました。
そして夕方。帰宅すると、隣の302号室はドアが開け放たれていました。管理会社が対応したのか、男が自ら出て行ったのかは分かりません。ただ、あのクチャクチャという音は、それきり聞こえなくなったのです。
彼女にも笑顔が戻り、私たちは久しぶりに穏やかな日々を取り戻しました。
騒動が収まってから初めての週末、気分転換も兼ね、私たちは上野の動物園へ遊びに出かけました。
青空の下、家族連れや観光客で賑わう園内を歩くと、彼女の顔色もすっかり良くなり、私も心から安堵していました。
「キリンだ」
彼女が私の腕を引きます。広い敷地に、数頭のキリンが悠々と草を食んでいるのが見えました。
私たちは柵の前に立ち、その長い首や優雅な動きを眺めました。
「やっぱり大きいね。……あ、見て、あの子」
彼女が指差した先。一頭のキリンが、長い首をぐにゃりと波打たせながら、胃からせり上がってきたものを口まで押し戻していました。キリン特有の『反芻』です。その首の皮膚の下を塊が上下する、歪で生理的な動きに、私は一瞬嫌悪感を抱きました。
そのとき、隣で彼女が小さく息を呑む音が聞こえました。
私もその視線の先にあるものに気づき、全身の血が引いていくのを感じました。
キリンたちの群れに紛れて、柵の中に、あの隣人がいたのです。
302号室の、あの大人しそうな中年男性です。しかし、首だけが不気味に伸びて、そこを太い血管がピクピク震えながら覆っていました。
彼はキリンたちと同じような四つん這いに近い姿勢で、赤黒いなにかを吐き出すと、それを咀嚼しながらまた飲み込みます。
──クチャ……、クチャ……──
私は吐き出しそうでした。
男はまた一つ、大きな塊をゴクンと飲み込みました。
すると今度は、その塊が彼の首を、上から下へと下りていくのが生々しく透けて見えました。
その様子を、客たちは笑顔で見ているのです。
「ほら見て。キリンさん、いっぱい食べてるね?」
「うん。パパ、あっちの子、首が動いてるよ」
といった具合に……。
……あ、すみません。話の途中で何度も音を立ててしまって。聞き苦しかったでしょう。
最近無意識にやってしまうんです。




