テムズ川の怪
ロンドンの冬は濡れている。
それは「雨が降るから」ではなく、「雨が止まないから」だ。
リース・カーヴァーは、そんな街の地下にある古書店に勤めていた。
地上の喧騒を避け、薄暗く、しんと冷えた地下階の店。
だが、この静けさにも、ひとつだけ奇妙な点があった。
いつも、雨の音がする。
たとえ晴れた日でも、窓がなくとも、地下なのに、天井からぽつぽつと音がするのだ。
「漏れてるんじゃないか」とリースが天井を見上げても、水滴は見つからなかった。
店主の老紳士に聞いても、彼はニヤリと笑うだけだった。
「気のせいだよ。雨の記憶が染みついてるのさ、この街の空気にはね」
ある晩のこと。
閉店間際に、一人の女が現れた。
黒のレインコートを着た細身の女。顔は見えない。帽子の下に、濡れた金髪が垂れていた。
女は何も言わず、詩集の棚へ向かうと、一冊の薄い本を取り出した。
『The Waters Speak』──聞いたこともない詩集だった。
「それ……うちに、ありましたっけ?」
リースが尋ねると、女はゆっくりと振り向いた。
彼女の頬を、一滴の水が伝って落ちる。
「これは……私の声なの」
そう言って、女はそのまま奥の書庫へ消えた。
だが、店の奥に書庫などなかった。
リースは追いかけた。
書棚の隙間に開いていた黒い空間へ、迷うように足を踏み入れる。
地下室のはずが、さらに下へと続く石段があった。
濡れている。どこか生臭い。だが水たまりはない。
ただ、耳の奥で“雨音”が響いていた。
降りてゆくと、そこには古い煉瓦造りの空間があった。
かつて使われていた地下鉄のトンネル跡か、あるいは掘りかけて放棄された下水道のようだ。
石壁のあちこちに濡れた詩集が無数に吊られている。
その中央に、女が立っていた。
足元に、水が張っている。
いや、違う。水ではない。
「名もなき人々の声」が、液体のように床を覆っていた。
女は語った。
「この街の雨は、ね。
忘れられた声を集めて降るの。
身元不明者、身寄りのない死者、溺れた子供、捨てられた詩……
それらの“音”が混ざって、ロンドンに降るのよ」
リースは後ずさった。
足元の“水”が、くすくすと笑ったような気がした。
「あなた……誰です?」
リースの声が震えると、女は帽子を脱いだ。
その顔には目がなかった。
目の代わりに、左右の瞼に詩の一節が刻まれている。
“I drowned, and became the rain.”
次にリースが目を開けたとき、彼は古書店のレジ前にいた。
まるで夢だったかのように。
だが、詩集の棚を見に行くと、あの『The Waters Speak』が並んでいた。
一冊だけでなく、何冊も。まるで誰かが書き足したように。
その夜から、店の雨音は止まなくなった。
曇りでも、晴れていても、店の地下にはぽつり、ぽつりと雨が降る。
あるとき、客が詩集を一冊買った。
その翌日、その客の顔が新聞の片隅に載った。
テムズ河で水死体として発見されたのだ。
リースは決意した。
あの書庫には、もう近づかない。
だが今日もまた、誰かがその詩集を手に取る。
そしてまた、雨が降る。
ロンドンの空に混じる雨粒のなかには、
読まれなかった詩の声、届かなかった叫び、拾われなかった祈りが紛れている。
それを誰かが読むたび、
またひとつ、「声」が、雨になるのだ。