夜桜に君を想う
酒の肴になれば幸い
愛については、よく知らない。それはなんだか、あたたかいもの、切ないもの、ふわふわしているのに、身を切るような手ざわり。そんな、朧気なイメージばかりが浮かんでくる。
けれども愉しみについてはよくわかる。愉しみとは酔狂である。狂うことである。人が、人である以上、どうしたって避けられないはずの人情を、排除して、利害関係や善悪を判断するための理性をも、排除して、ただ一つの装置となる。愉しむためだけの装置である。すべては愉しむため――ただそのために他の全ての人間的機能を狂わせる。それ故に愉しみとは狂気である。
あるところにうつくしい女がいた。日に焼けた長い髪を後ろで束ねた、明るい髪色の女である。まつ毛の長い女である。彫が深く、鼻も高いのに鼻の先端だけは猫のように丸くなっている。肌は蠟のように白く、指が長く細く、爪は長い。よく笑うのだが、笑うたび鋭い歯が光った。そうして、いつまでも年を取らない。
女は鬼であった。人を食って鬼に堕ちたわけではない。生まれたときから鬼の子として生まれた。戦があったとき、武士が村を略奪する際に村娘を襲って生まれた子。忌み子ではあったが人の世を追われるほどのことはない。成人になるまでは人並みに年も取った。しかし、それでも力が強すぎるし、度を越して頑丈すぎる上に、あまりにも美しすぎた。
それ故、人の世を追われた。いくら美しくても、気味悪がって誰も寄ってこない。女のいた昔はまだ、人里を離れれば人外の化生どもが時折うろついていたが、そいつらにとっても鬼は恐ろしいようで、やはり寄り付かなかった。強すぎる故に孤独な存在。いつも一人で酒を飲んでいた。
それが、若い男に懸想された。鬼を恐れず花の上で突然笑いながら話しかけてきた。獣の皮で作った、二の腕と太ももを露出させた荒々しい女の装いとは対照的に、長袖の上に緑色の袖なし羽織を着て、刀を差し、伴をはべらせた、これも酔狂な男であった。訊けば領主の三男坊らしい。名を上げるために鬼退治へ来たが、一目見て惚れてしまった。ぜひ俺の内儀になってほしい。
あまり熱心に口説くので、常の人なら気圧されてしまうところだが、そこは鬼人である。その場で岩を割り、脅して追い返す。しかし脅して追い返しても、遠巻きに眺めてくる。昼寝していると、足元に花と一緒に恋文が置いてある。やれやれ、平安の昔の逢瀬でもあるまいし。この戦の世になんとまあ呑気な。けれども生来の呑気は鬼にも通じるものであった。鬼はふとこの男と一緒に酒を飲んでみたくなった。
私を内儀にしたければ、美味い酒と上等な盃を持ってこい。
そうして男が持参した朱色の盃で大あぐらに酒を飲んでいるうち、とうとう情が沸いてしまった。
それから恋路を共にし、肌を合わせ、季節を共に超えた。男は世を捨て、春も夏も秋も冬も二人で酒を飲み、永遠を誓い合った。けれどもそれは叶わぬ夢であった。人としての人生を奪うには、鬼は男を愛しすぎてしまっていた。
なあお前、人の世に未練はないのか。
きっかけは冬に訪れた。壮年の武士が馬に乗り、数十の輩を引き連れて鬼の住む山に出向いてきた。鬼が何用かと問えば、夫と直接話がしたいと言う。鬼は川で釣りをしていた夫を呼び、それから武士と鬼の伴侶が話し始めた。鬼は遠くから、地獄耳で二人の会話を聞いた。
領主が病に斃れ、これからは俺が正式に領主になる。父は鬼を娶ったお前を無い物として扱ったが、俺は幼き日にお前と過ごした日々が忘れられない。どうか鬼のことを忘れて、帰ってきてくれないか。悪いようにはしないから。今だから言うが、お前に懸想していた女もいるんだ。よく働き、酒を飲む女だ。きっと幸せになれる。
――では、どうしてもお前は、鬼と居たいというのだな。……俺は他人の恋路に口を出すような男ではない。しかし、領主の弟が鬼と暮らしているということを、許すわけにはいかない。伴を従えてきたのは考えがあってのことだ!
鬼がはっとして顔をあげると、武士は鞘から剣を抜き、真っすぐ鬼の方へ指し示した。すると輩の男たちが一斉に弓を構え、鬼へ目掛けて矢を放った。鬼が人から殺意を向けられたのは、ずいぶん久しぶりのことだった。とっさに目元を手で庇った刹那、十本余りの矢が鬼の身体に当たった。傷がつくどころか、微塵も痛くなかった。
鬼は努めて冷静になろうとした。しかしもう無理だった。輩の男たちは刀を抜き、叫び声を上げながら鬼へ向けて走り出す。それを見た鬼の血が、戦いに震え出した。気づけば鬼もまた咆哮し、今まで寄りかかっていた木を根本から引き抜き、向かってくる男たちに投げつけていた。並走していた五、六人の男に木の幹が直撃し、真後ろに吹き飛んで行く。内臓が潰れ背骨がばらばらに砕け、誰一人として再び立ち上がるものはいない。鬼は再び咆哮した。
イヤー!と叫びながら鎖骨に振り下ろされる刃を、鬼は避けもしなかった。真っ二つに折れる刀。鬼は斬りかかってきた相手の首元を掴み、周囲の敵に向かって薙ぎ払る。ぐしゃり、と音がして三人ばかりの男が肉塊となって崩れ落ちる。掴んでいた男の首はいつのまにか千切れている。そうして手元に残った頭部を無造作に投げ捨てた頃には、鬼に向かってくる気概のある敵はもう一人もいなかった。
文字通り鬼の形相で、口を真一文字に結んで目を吊り上げ、まっすぐに、歩き出す。敵の大将の元へ。大将は恐怖のためか、それとも武士の矜持が逃げることを許さないのか、一歩も動かず、向かってくる鬼をただ眺めていた。殺意はすでに、消え失せている。もう数歩で大将の首に手が届くところで、男が目の前に立った。伴侶の男だった。
まっすぐ大将を睨んでいた目を、ちらりと夫に向けると、今にも泣きだしそうな顔で鬼の目を見て、それから兄の武士の方を振り向き、再度鬼の目を見る。鬼は大将の首へ手を伸ばし、それを自分がへし折る場面を想像した。それは蚊を叩き潰すよりも簡単なことに思えた。しかし――鬼は今度はまっすぐに夫の顔をみた。
愛すればこそ、奪えない……。
「武士の男、名を何と言う」
鬼は問うた。大将は震える声で答える。
「い、今井、重吉」
鬼は言った。人の世では、さぞかし名のある武将と心得る。いま、配下の者を十ばかり討ち倒したが、どうも大将の貴殿には勝てそうもない。伴侶の男を返し、この山から去るから、どうか命だけは助けてほしい。
堂々とした声で武士にむかってそれだけ言うと、夫に向けて笑顔で片目をつぶり、さらばだ、と言い残して踵を返して立ち去り、そのまま山を去った。そうして二度と同じ場所へ戻らなかった。
それから微睡むように数十年の歳月が経ち、人里からさらに離れた山奥で夜桜の咲いた時、鬼は無性に寂しくなった。ちょうど月の綺麗な夜だったから、鬼はまた酒を飲んだ。舞い散る桜花を頬にかすませ、月を見上げたまま、鬼は泣いた。声もあげずに、静かに泣いた。
少し泣いていたと思ったら、急に笑い出した。
「はっはっは!あっはっはっはっは!」
「どうしたんだ、おまえ」
「うん?なんだ、あんたそこにいたのかい」
「やけに楽しそうじゃないか」
「そりゃあそうさ。こんな夜桜と月の綺麗な晩に、かえらぬ昔を想って酒を飲み、泣く。こんな愉しいことがあるか」
この日以来、その鬼を見かけた者は誰もいなかったという。