終わりの物語③
跡を指でなぞる。そして、口に溜まった血を吐いた。手で口元を拭い、岩壁にもたれて座り、片膝をたてる。
「あなたが、閉じ込めたの?」
「すべて、セーラのせいよ」
そう言った彼女は、蛇が脱皮するかのように夏目の皮を脱ぎ捨てていた。その人は――青い瞳のナヴィガトリカだった。
「私のせい……? そうなんだろうね、きっと。……でも、どうして? 」
「セーラには、わからないわ」
トリカには、前に会った時のような余裕は見られなかった。その目には、怯えに似た色があった。
――過去の記憶に、飲みこまれそうになる。
心配して、私のもとへ駆けつけてくれたトリカ。無理していると、怒ってくれたトリカ。泣きそうに震えていた声で、「ごめんなさい」と言ったトリカ。
その背中を叩いた、あの時の自分に戻りそうになる。彼女はサイコなのに、彼女がしたことを今も許せないと思っているのに。今にも泣きそうなトリカを見ていると、「そんな顔をしないで」と言いそうになる。肩を抱き寄せたくなる。「大丈夫だよ」と、声をかけたくなる。「そばにいるから」と、慰めたくなる。
今の私と前の私の記憶が……相反する感情で、頭がどうにかなりそうだ。
「セーラは、言ったよね? アークトゥルスは、化け物じゃないって。でもね、あいつらは化け物よ」
「たしかに、アークトゥルスの中には"内なる獣"がいる。だけど……」
「私は、死にたくなかった」
私の言葉は、トリカの声に奪われた。そして、トリカは遠く見ながら、何かに取りつかれたように呟き始めた。
「お父さんが殺されて、お母さんも殺されて……私は、怖くて……必死で逃げたの」
――知っている。
そう、走って逃げた。父さんが殺され、母さんが殺されて……あれは、トリカの記憶?
――きっと、そう。
私たちと出会う前の、子ども頃のトリカの記憶だ。
「必死で走ったけど、捕まった。そして、私は……切り裂かれたの」
……え?
切り、裂かれた?
「心配しなくても、大丈夫よ。私は、死ななかったから。セーラ、私は……死ななかったの。そして、痛みで気を失いそうになりながらも、這って逃げようとした。ただ怖くて、痛くて、死にたくなくて……必死だった。まだ子どもだった私に、あいつらは何をしたと思う?」
私は何も言えず、身動き一つできなかった。トリカも微動だにせず、ただ私を見ていた。時が止まっていた。……ううん、時止まってはいない。耳の辺りで揺れるトリカの髪が、それを教えてくれていた。
「あいつらは、笑いながら……私を何度も殺した。今も鮮明に記憶に残るのは、あの笑い声と、それから……血の匂い……」
何度も、殺した? ……何度も? どういう意味なの? 意味がわからない。
「ねぇ、セーラは……だんだんと息ができなくなる時の、気持ちがわかる? 肺がつまっていくような時の、気持ちがわかる?」
「一体、何が……?」
「私はね、何度殺されても……死ぬことはなかった。死ねなかった。どうして、死なないのか。どうして、死なせてくれないのか。その時の私には、理解できなかった。だけど、今ならわかる。私は、知らないうちに魔法を使っていたの。生きたまま火にくべられ、何度となく切り裂かれ、死にたいのに……もう痛いのも、苦しいのも嫌なのに、勝手に魔法の力が働いて、傷が癒やされるの。そして、また殺される。はは、ちがうわね。殺される一歩手前で、あいつは手を弱めて、私の回復を待っていた。何度、死にたいと思ったか分からない。何度も助けを求めたのに……誰も助けに来てはくれなかった」
「そんな……」
トリカの目に力が入った瞬間、自分の中にある何かを刺激し、どこかにあった記憶を呼び覚ます。……炎を見える。焦げた臭いもする。殴られ、蹴られ、切り裂かれる。
――やめて!
叫びたくても、声が出すことができない。
痛みに耐えようと体に力を入れても、我慢できないほどの痛みが、全身を駆け抜ける。体も、心も、痛みに支配される。
――やめて!
見ていられなくて目を閉じても、映像は消えてくれない。
それを見て、アークトゥルスが奇声のような笑い声をあげる。その声は次々と重なり、どんどん大きくなっていく。
――やめて!
聞きたくなくて耳を塞いでも、笑い声は小さくならない。
強烈な吐き気で、うずくまった。
酷い。酷すぎる……。
ガタガタと震えていた。声を漏らすこともできなかった。思考がかすみ、遠のきそうになる。現実と悪夢の境を、みつけられなくなりそうになる。
「セーラに、何がわかるの?」
「トリカ……」
なんとか声を出した。
私は大きく息を吸い立ち上がると、トリカは歪んだ顔で私を見ていた。そして、私が口を開く前にトリカが言った。
「セーラには、いつだって助けてくれる手があったじゃない! 私には、なかった! 私には、誰もいない!!」
それは、ちがう!
―――トリカには……
「トリカにもある。今だって……」
「黙りなさい」
トリカの声は、それ以上何も言えなくなるほどの厳しさに満ちていた。私を見つめるトリカの目は、瞬きを忘れたようにぴくりとも動かない。だけど、体からは煙のような黒い影がたちのぼり、トリカの周りを回転し始めると、黒い影はどんどん厚くなり、トリカの姿が見えなくなった。
「……トリカ?」
名前を呼んだ瞬間、黒い影が不気味な手のように変化し、飛びだしてきた。よろめきながらも屈んで、岩陰に飛び込む。横から様子を窺おうとした途端、顔の近くに黒い手があった。ぎゅっと目を閉じ、ギリギリで避ける。
出会った頃のトリカも、かなり魔力が強かったけど……今のトリカの魔力はとんでもない。“瀬良 優梨”の体ではない私では、トリカに敵わない。しかも、今のトリカはかなり不安定で、力の加減なんてできないだろう。まともに攻撃をくらえば、致命傷になる。
両手で、魔法を操る。
重力に逆らうように、無理やり魔法を持ちあげようとするが、この空間はトリカの魔力で満たされていて、うまく魔法が掴めない。トリカの魔力で、体が痺れるように重い。
「それなら……どうして、私に過去を見せたの? どうして、私をこの世界に転生させたの?」
「苦しませるためよ」
「嘘よ! そんな理由じゃないはず! それなら、どうして、セイリオスがいるこの時代に私を転生させたのよ!」
「はははっ。あの金瞳が、セイリオスだと本気で思っているの? そんなこ……」
面白がるように笑うトリカの言葉を、静かな声でさえぎった。
「ヴィーは、セイリオスだよ」
自信を持って、言える。
――ヴィーは、セイリオスだ。
「バカみたい、まるで夢見る子どもね。私が、現実を教えてあげる。死んだ者は、二度と生き返ることはない。もちろん、生まれ変わりなんて夢物語。ねぇ、セーラ。死ぬほどの愛は、どうやって消えていくと思う?」
「消えないよ。私の気持ちは、変わらない。愛する相手は、ただ一人だけ」
「忘れているみたいだけど、あなたはレグルスよ。それは、愛じゃない。愛だと、錯覚しているだけ。現に、すぐに私をユーリだと気がつかなかったでしょ? セーラは、あの金瞳をセイリオスだと思いこんでいるだけよ」
「でも、気がついたわ。それに、夏目とセイリオスは違う」
「…………どういう意味?」
「トリカは、私に夏目とヴィーの“どちらを選ぶ?"って聞いたよね? その質問に答えるわ。どちらか一人を選ばなければならないとしたら、私はヴィーを選ぶ」
「ユーリより……あの化け物を選ぶと、言うの?」
「夏目も同じ選択を迫られたら、私と同じ答えを……」
それ以上、言えなかった。
トリカの魔力が強まり、高まり……その魔力量に押し潰されそうになって、歯を食いしばる。
負けてたまるかっ!




