終わりの物語①
――セイリオス!!
思わず、セイリオスに駆け寄ろうとしてトルマリンから手離した途端に、記憶が霧散して消えた。霧散する瞬間に聞こえた声が、頭に響いていた。
私の中で記憶が、弾け飛ぶ。
ダムが決壊するように、記憶の洪水が頭の中を駆けめぐる。その勢いに耐えられず、座り込む。猛烈な力で頭を押されているような苦しさが襲ってくる。目を閉じ、下を向いて、それが静まるのを待った。手で痛いほど強くこめかみを押さえ、痛みに耐える。
一度、目を開けた時、夏目が私の様子を覗き込むようにしているのがわかった。だけど、夏目のことを気にする余裕はなく、こめかみを押さえたまま、また目を閉じた。落ち着くまで、しばらく堪えているより他はなかった。そして、目を閉じたまま、ゆっくり深呼吸をすると、ようやく記憶の波が引いていくのを感じた。
ゆっくり立ち上がり、夏目を見る。夏目は、何かを言おうとして口を動かしている。しかし、かすれた声は不鮮明で、ほとんど理解することができなかった。私は夏目から目をそらし、もう一度、こめかみを押させる。
今も、セイリオスが泣いている気がする。今も、私を呼んでいる気がする。今、この瞬間も私を呼んでいる……そんな気がした。
『セーラ? 大丈夫?』
「……が、…………」
『セーラ?』
「私のせいよ……」
セイリオス……
心の中で、名前を呼ぶ。もう頭から離れることのない、愛しい、愛しい音。セイリオスの笑顔が見える。笑顔が、鮮明に頭に浮かぶ。
『セーラのせいじゃないよ。……ううん。やっぱり、セーラのせいだね』
耐えられなくて、目を瞑った。
――そう、私のせいだ。
『でも、僕のせいでもあるし、アルゲティのせいでもある。トリカのせいでもあるし、ルクバトのせいでもある。そして、セイリオスのせいでもあるんだよ。セーラの気持ちは、わかるけど……誰か一人のせいじゃない』
「夏目……」
『人は常に正しくなんて、生きられない。間違いを一度も犯さずに生きていくなんて無理な話で、誰しもが大なり小なりの間違いを犯して生きていく』
「私は……セイリオスを助けたかったの。私は……セイリオスを守りたかった」
『守りたかった? そうだね、セーラは……あの化け物を守りたかったんだよね。……でも、僕はね、あいつらの笑い声が今も聞こえるんだ。人は忘れる生き物だっていうのに、忘れたい記憶は全然色褪せることがない。忘れたいのに……僕をずっと追いかけてくるんだよ。少しも、忘れさせてくれない。無理やり記憶を頭の奥にしまおうとしても、まるで果物を絞るように記憶が押し潰され、思い出したくもないことが、次々と脳裏に浮かんできてしまう。あいつらがしたことを許すことなんて、僕には絶対できない。だから、セーラの言葉を信じられなかった。信じたくなかったのかもしれないね。もし、それを認めたら……』
夏目は話しながらも私の顔を見ることは一切なく、ただずっと自分の手を見つめながら話していた。
『人を助ける医者になりたかったのに……僕の手は、血で真っ赤だよ』
「……夏目だけのせいじゃない。夏目が言った言葉を、そのまま返すよ。たしかに、夏目は私を信じてくれなかった。でも、最後には私を信じてくれた。……夏目は、私からの手紙を読んだんでしょ? だから、今……ここにいるんでしょ?」
『……手紙?』
「え? 読んでないの? 読んだから、ここに閉じこめられたんじゃないの?」
『うん、読んだよ。ただ……そのあたりの記憶は、あやふやで』
夏目は、バイカラーのトルマリンを見た。私も夏目に視線を追って、トルマリンを見る。青い部分と黄色、オレンジがまざった地球のようなトルマリン。
「私が、セイリオスにあげたトルマリン?」
『うん、そうだよ。あの日、……ルクバトが助けを求めにきたんだよ、セーラを助けてほしいって。だけど、僕がオルサに着いた時には、生きている人は誰一人いなかった。あったのは、死体とこのトルマリンだけ』
「セイリオスは?」
夏目は口を開け、また閉じた。そして、軽く首を振る。
『セイリオスも、セーラの姿も、そこにはなかった。セイリオスは、セーラを失って……彼に残ったのは、殺戮の本能だけだった。たくさんの人間を殺して、彼の理性は二度と戻ることはなかった。セイリオスは、化け物になったんだよ』
それ以上、聞きたくなかった。やっぱり、私のせいだと思った。もっといい方法があったはず。セイリオスを一人にしないですむ方法が、あったはずなのに。私は、いつも…………こんなことばかりだ。
――その時、風が吹いた。
ここは、夏目の意識の中だよね? それなのに、どうして? どうして、風が吹いているの?
吹くはずのない風が、吹いている。
……どうして?
風が……私を呼んでいる?
『セーラ?』
夏目は、戸惑い顔で眉をひそめた。
「夏目は、何もしてない?」
『何の話をしているの?』
「風よ。今、風が吹いている」
私は、この風を知っている。
――いつも、私のそばにあった風。
ヴィーに会った時も、この風が導いてくれた。オルビタの闘技場でも、王宮に行く時も、ここに来る時も、この風が私のそばにいてくれた。私が操っている魔法だと思っていた。だけど、魔法を使っていなくても、風は……私を導いてくれていた。
一つの可能性が、頭によぎった。
でも、そんなことがあり得る?
……あり得ない。そんなこと、あるわけがない。
だって……そんなこと…………
でも、もしそうなら…………
「ねぇ、夏目。
あなたは…………誰なの?」




