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家に帰ってきました

 シェラタン家の屋敷があるのは、オルサ国の南東に位置するコルキス地区。コルキス地区は、シェラタン家が領地として治めており、学園からは馬車で約三時間程度の距離にある。

 コルキス地区の特徴は、オルゴ湖。オルサ国最大で、近くで見るとまるで海のように感じるほど膨大な湖。また、水産資源が豊富な湖で、コルキス地区の収入のほとんどをオルゴ湖の漁業が担っている。

 そのオルゴ湖のほとりにある岩上に、シェラタン家の屋敷は建っている。まるで水面に浮かんでいるように見えることから「水の城」ともいわれている。それが所以なのか、シェラタン家のカラーは青である。


 オルサ国では、自分の家のカラーを持っている貴族がいる。オルサ国を象徴するカラーは、王族の色でもある紫。それを真似して、貴族たちが自分たちの色をもつようになったが、すべての貴族が持てるわけじゃない。カラーが持てるのは高い階級である公爵位のみのため、カラーを持つということは階級のステータスであり、羨望の対象となっている。

 だから、エリースは常に青を身にまとっている。今日も制服のローブの下は、手刺繍(糸も青系で揃え、青の濃淡だけを駆使した刺繍)のレースとビジューをふんだんに使ったサテン生地をドレスを着ている。

 そして、目の前にいる従者のアルフェラッツも黒のスーツに青のネクタイ、青い宝石が埋め込まれたネクタイピンとシャラタン家の者だとわかるような小物を身に付けている。


「おかえりなさいませ、エリース様」


 私に向かって優しい笑顔を浮かべながら、アルフェラッツが言った。それだけで、泣きそうになった。入学してから、こんな慈愛の笑顔を向けられることはなかったから。

 私の学園での毎日は、触ってこようとする人たちから逃げ、中身のない上っ面だけの甘い言葉を聞き、笑顔で自分の感情を隠し、クローゼットの中で時間が過ぎるのを待つ……そんな日々だった。


 「……ただいま、アルフェラッツ」


 そう言った途端、こみあげてくるものがあった。その言葉を口にして、やっと解放されたと思った。そして、本当に久々に笑った。夏目スマイルでも、夏目スペシャルでもない、私の笑顔で。


 アルフェラッツは私の笑顔に少し頷くようにしたあと、懐かしむように少し遠くを見ているようだった。


「エリース様の笑顔は、メサルティム様によく似ていらっしゃいます」

「お母様に?」

「えぇ。メサルティム様も今のエリース様と同じように、優しい顔で笑っていらっしゃいました」

「……お母様の笑顔を、私も見たいな」

「見られますとも……いつかきっと。エリース様は、メサルティム様の笑顔を見ることができます」

「ありがとう、アルフェラッツ。お母様の具合は? 変わりない?」

「えぇ、いつもと変わりません。ですが、エリース様が帰って来られて、きっとメサルティム様は喜んでいらっしゃいますよ。すぐに、お会いになりますか?」

「うん、そうだね。早く……お母様に会いたい」

 

 これも、本当の言葉だった。


 私が転生した時、すでにエリースの母メサルティムは眠っていた。病気になってから、一度も目覚めることなく眠っている。だから、私は話したことがない。視線を合わせるとも、笑顔を見たことも、声を聞いたことも、髪をなでてもらったことも……一度もない。

 母に対して思い入れがないと思っていたのに、今は母にとても会いたいと思った。理由はわからないけど、もしかしたら私の中のどこかにあるエリース本来の感情なのかもしれない。私の中に残るエリースの心が、メサルティムに会いたい気持ちにさせるのかもしれない。


 アルフェラッツの後ろを歩きながら、屋敷の二階の左奥にあるメサルティムへ向かう。部屋に入ると、少しひんやりとした空気を感じた。


「メサルティム様、エリース様が戻られました」

 アルフェラッツが、部屋の奥で眠るメサルティムに声をかける。


 返事はない。


 ゆっくりと、メサルティムに近づく。メサルティムは部屋の奥にアルコーブと呼ばれる壁の一部をくぼませた空間に置かれたベッドで眠っている。

 青を基調としたベッドには、金と銀を使った錦織の装飾が飾られ、カーテンから差す光がメサルティムのプラチナブロンドの髪に反射し、きらきらと輝かせていた。 


 眠っているメサルティムは、美しかった。


 太陽の光に縁取られて、絵画のように見える。幻のようで、人形のようで美しい。エリースとメサルティムは生き写しのように似ているが、美しさがちがう。エリースがつぼみから花開こうとしている美しさなら、メサルティムは満開の花のような美しさがある。

 メサルティムがエリースを産んだのは、十九歳。病気になったのは、二十二歳。眠っているメサルティムはその時のまま、時が止まっているかのようだった。もしかしたら、何か魔法がかけられているのかもしれない。


「お母様」


 返事がないもわかっていても、声をかけずにはいられなかった。


 メサルティムは、ただベッドで眠っている。周りには私が知る点滴や酸素吸入、尿管などは何もない。そのせいで、私の目にはメサルティムが病気だとは思えなかった。呼びかければ、目を開けてくれるのではないかと期待してしまう。そんなことは、起こらないのに。


「ただいま帰りました」


 ゲームの中では、誰も怪我や病気をすることはなく、エリースの父親も母親も登場しなかった。だから、メサルティムが病気なことも知らなかった。


 メサルティムの温かな手に触れる。


 signの世界なら何でも知っていると思っていたけど、そんなことはなかった。主人公であるエリースの家族がどんな人なのか、どう育ったのか、私は何も知らない。

 私が知っているゲームの内容は、sign の世界全体からしたら、ほんの一部分なのだ。ゲームをクリアしたから全てを分かった気でいたけど、私はsignの世界を何も知らない。学園の外のことなど、何一つ……知らない。

 

「エリース様も来年には、成人ですね」

「えぇ、そうね」 


 signの世界では、成年年齢は十六歳。だけど、結婚は十八歳まではできない。どうして年齢に違いがあるのかは、ゲームでは詳しく触れていなかった。まぁ、signだから仕方ない。signには、恋愛以外の詳しい設定など必要ないのだ。ただ、楽しむだけのゲームだから……。

 学園の生活が頭によぎり、それを追い出したくて軽く頭を振る。そのタイミングで、アルフェラッツが思いがけないことを言った。


「旦那様が、エリース様に犬を買って差し上げたいとおっしゃっていましたよ」


 一瞬、アルフェラッツが何を言ったのか理解できなかった。いぬ、いぬ、いぬ……と心の中で繰り返す。七回目でやっとその単語を理解すると、嬉しくなって子供みたいに手を叩いて「やったー!」と言ってしまった。

 アルフェラッツに複雑な目で見られて、恥ずかしくなって下を向く。


 ――実は……私、犬が大好き!!


 お母さんが犬アレルギーだったから、現実世界では一度も飼ったことがなかったけど、小さい頃からずっと犬を飼いたいと密かに思っていた。よく犬派? 猫派? とか聞かれることがあるけど、私は迷うことなく常に犬派と答えていた。

 何度も飼いたいと言ったけど、アレルギー体質の母が許可してくれることはなかった。それでも、どうしても諦めきれない私は犬の育成シミュレーションゲームのアプリをおとして、毎日時間があれば可愛がっていた。

 このゲームは現実世界の時間と連動していて、お散歩時の風景も変わるし、犬もリアルで可愛い! しかも、音声機能を搭載して、呼び掛けると反応してくれるという神アプリ! ゲームで我慢していたけど、まさかsignで、本物の犬が飼えるとは!! 

 この世界に来て初めて、制作者を褒めてあげたい気持ちになった。

 

「エリース様が犬を欲しいと思っていたとは、意外です。旦那様は、エリース様が嫌がるかと心配していらっしゃいましたから、私の方からエリース様のお気持ちを先に旦那様にお伝えしてもよろしいでしょうか?」

「もちろん! そうしてくれると、私も嬉しい。いつ見に行くか決まったら、教えて。私も一緒に選びたい」

「かしこまりました」

   

 アルフェラッツが深々とお辞儀をするのを見ながら、signの世界ではどんな種類の犬がいるのかなと胸を膨らませていた。


 その日は、せっかくベッドで眠れるというのに嬉しくて、なかなか眠れなかった。まるで本当の十五歳に戻ったような気分になりながら、窓から星をうつした静かな水面を見ていた。

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