はじまりの物語⑧
気がつかない内に、意識を失っていたらしい。目が覚めた時、自分がどこにいるのかわからなかった。
ここは、どこ?
洞窟? ううん、ちがう。
……廃墟、だ。
そばには、あのアークトゥルスが座っていて、火に枝をくべている。上半身裸なのを見て疑問に思ったけど、私の上に服がかけられていることに気がついた。そして、濡れていた服が……乾いている。
どれくらいの間、意識を失っていたのだろう?
そんなことを思っていると火の力が強くなり、壁に大きな影を作っていた。そして、その炎がアークトゥルスの瞳を赤くきらめかせていた。私の視線を感じたのか、アークトゥルスが振り返り、口元を緩める。
「大丈夫か?」
意味が分からない。理解が追いつかない。でも、この不可解な言葉で体の力が抜けた。
「……大丈夫」
素直に答えると、そろそろと体を起こして壁にもたれる。すると、アークトゥルスが立ち上がり、こちらに向かってくる。その動きはまるで獲物を狙う肉食動物のようで、アークトゥルスから目を離せなかった。手を伸ばせば触れられる距離までくると、腰を下ろした。同時に、私はアークトゥルスから距離をとろうと、体を動かした。だけど、背後の壁にくっついただけだった。
「ずっと、会いたかった」
……え?
ズット、アイタカッタ?
「えっと、その……たぶん、人違いだと思う」
「ちがう、お前だ」
即答で返されて、言葉が詰まった。私がアークトゥルスに会ったのは、さっき少年が初めてで、それ以前に会ったことはない。目の前のアークトゥルスには、全く心当たりがなかった。このアークトゥルスに会ったことがあるなら、絶対に忘れるはずがない。
でも、ここは誤解されたままの方がいいのでは? もしかして、誰かと勘違いしているから、私は殺されずにいるのかもしれない。だけど……
「私を知っているの?」
「お前が、誰でもいい」
ん?
「えっと……私は人間だよ?」
「お前が、何でもいい」
微妙に会話が噛み合っていないような気がするんだけど、この場合の正解は……何?
「えっと、その……」
「やっと会えた」
どうしよう! 完全に、誰かと勘違いしているみたいなんだけど!! その誰かのフリをすれば、いいの? でも、知らない人のフリなんて無理じゃない? いや、しなかったら殺される可能性もあるのでは? でもでも、フリをしたところで、バレたらサクッと刺されちゃうんじゃないの?
見知らぬ人のフリをする、しないの二択の自問自答を頭の中で繰り返している間に、アークトゥルスが私の顔の両脇の壁に手をついていた。びっくりして、アークトゥルスを見るが、アークトゥルスは慌てる様子もなく顔を近づけてきた。そして、唇に唇をかすめさせる。そっと触れた後、舌で唇を舐められた。
……え?
何が起きているのかわからなくて、ただ固まっていた。
――今の、なに?
アークトゥルスは、私に……何をしたの?
「触りたい」
え? 今度は、なに?
なんて、言ったの?
「お前に触れたい」
もう一度言われて、アークトゥルスが発した言葉が、自分に向けられたものなのだとわかった。
「胸を触りたい」
その後に続いた言葉の意味が、全くわからなかった。いま、やっと私に向けた言葉なのだと認識したに過ぎないのに、言葉の内容など理解できるわけがない。
「胸を触りたい」
一割も理解できない言葉をもう一度言われても、意味がわかるわけがない。それなのに、私の……この動揺に気づいていないのか、アークトゥルスは止まらない。
「胸を触りたい」
少し待ってほしいと言いたくても、言葉がどこかに逃げてしまって帰ってこない。必死で手繰り寄せている私に、アークトゥルスはさらに言葉を続ける。
「胸を触りたい」
アークトゥルスは私の頭にしみこむまで、同じ言葉を繰り返す。
「胸を触りたい」
子ども相手に言って聞かせるように、何度も。そして、何度目かの言葉で、やっと頭の中に滑りこんできた。
「胸を、触りたい……?」
口を開いてみた。逃げていた声を捕まえることができたようで耳に届いた声は、聞き覚えのあるものだった。声に出したことで、やっと言葉の意味を理解した。
胸を……触りたい?
まさかの言葉に、呆気に取られた。いったい……どうして、アークトゥルスが私に触れたいのか。しかも、胸? どういうこと? どうして、こんな状況になっているのか。頭は、完全にパニックだった。
「俺は、お前の胸を触りたい。お前にも触ってほしい」
やっと反応が返したからか、アークトゥルスは言葉を増やしてくる。
胸を触りたい? 触ってほしい?
……だから、なんで?
今までの人生で一度も言われたことのない言葉に、思考が追いつかない。アークトゥルスの言った言葉を聞き取ることはできたけど、どうしていいのかわからない。他人に胸を触られた経験なんて一度もないし、触った経験もない。それなのに、このわけのわからない状態で、選択を求められている。しかも、相手は喜んで人を殺す化け物と恐れられるアークトゥルスアークトゥルスで、人間ではない。
やけくそになって、頷く。
どうにでもなれ! という投げやりな気持ちと、死にたくない! という怯える気持ちと、隙を見て逃げてやる! という強い気持ちが、頭の中で入り乱れていた。そんなグチャグチャな思考を断ち切るように、覚悟を決めて、目を閉じる。
アークトゥルスの手が伸びてくるのが、目を閉じていてもわかった。反射的に逃げそうになる体をどうにか押しとどめる。
アークトゥルスの手が、胸に置かれた。
だけど、アークトゥルスが触れたのは胸の膨らみではなく、胸の中央だった。触れられた心臓の音が耳元で鳴っているみたいで、アークトゥルスの手がすごく熱くて、もう何も考えられなかった。体が再び、震えだす。
「体が冷えている」
そう、私は凍えていた。魔力を使い過ぎたせいで、雨に濡れになったせいで、体の芯まで冷え切っている。だけど、私の震えの最大の原因は、目の前にいるアークトゥルスだ。
その震えの原因であるアークトゥルスが胸に置いていた手を離し、私をまた抱きかかえる。驚いて目を開けると、アークトゥルスは私を炎の近くに連れて行く。
「まだ、夜だ。今は、ゆっくりと眠るといい。安心しろ、そばにいる」
『あなたがいるから、安心できないのよ』
その言葉は口に出すことはできずに、開いた口から出たのは、小さなため息だった。
――アークトゥルスは、赤い瞳、鋭い爪と牙を持つ化け物。笑いながら、人を殺す化け物。
この男も、アークトゥルスなのだろうか? でも、あの少年とは違う気がする。目の前のアークトゥルスは、意思の疎通ができる。それに、このアークトゥルスの瞳の色は、赤なはず。でも、この男の瞳は……金色だった。待って、さっきは赤くなかった? もしかして、光の加減で瞳の色が変わるのだろうか?
すぐに確かめようとしたが、私が横になっている場所からは瞳の色を確認することはできなかった。諦めて、目を閉じる。暗闇に包まれたが、眠れる気が全くしない。
炎の近くにいても、魔力が足りないせいなのか、寒くてたまらない。震える体を両手で抱きしめようとした時、自分じゃない手にきつく抱きしめられた。思わず悲鳴を上げると、アークトゥルスの笑い声が耳元を掠めた。
この男は……本当に、アークトゥルスなの?




