はじまりの物語⑦
「アルゲティ、一人で戻れる? 私は……自分だけが移動する魔力しか残ってないの」
……嘘だった。
頷くアルゲティに笑顔で手を振って、見送った。それしかできなかった。
……私の魔力は、もう一滴も残っていなかった。
アルゲティも、私を運ぶほどの魔力は残っていない。私が、アルゲティの魔力を使ったから。……そんなことができるとは思わなかった。でも、最後に簡単に魔法を使えたのは、アルゲティの魔力を借りることができたから。
ゆっくりと、道端にある段差に腰を下ろした。
――アークトゥルス。
赤い瞳、鋭い爪と牙を持った化け物。笑いながら、人を殺す化け物。
まさか、人間と同じ姿をしているとは思わなかった。でも、さっき見た少年の嘲るような笑みが、それが真実だと私につきつける。頭では理解しているけど、その真実についていけない。体の奥から聞こえる心臓の音が大きく聞こえて、手足が重くて、まるで今までいた世界から外れてしまったような感覚がした。
さっきの出来事が、現実に起こったことなのかもわからなくなってくる。頭の中が不安定で、泣きたいのか叫びたいのか、自分の感情さえわからない。
私は……また同じ状況になった時、泣いて助けてほしいと懇願するアークトゥルスを殺すことができるのだろうか? でも、私のせいで、アルゲティは死にかけた。それは紛れもない事実で、あの少年が嘲るような笑みを私に向けていたのも事実で。
私は…………。
空からは、冷たい雨が降っていた。雨粒が細かすぎて、脳が痺れと勘違いしてしまうような雨が、私の顔や体に触れる。少しでも気を抜くと、忍び寄ってくる無力感に飲みこまれそうになる。手が、足が、体が、冷たくて……。とにかく、今は歩いて最深部に移動しよう。休んで、魔力が復活するのを待って、帰らないと皆が心配する。
気持ちを切り替えて立ち上がった時、視線を感じた。
視線の元を探ると、男が立っていた。まっすぐに私に向かって、歩いてくる。男は私たちと似たような格好をしているけど、不自然なほど滑らかな動きが人間ではないことを教えていた。豊かな長めの髪が男の顔を半分ちかく隠している。だけど……その髪は黒く、浅黒い肌をしていた。
――あの少年と同じ。
それが意味することに、体が震える。
後ずさりしたが、すぐに足元の段差にぶつかった。そうしている間にも、男はどんどん近づいてくる。距離が近づくにつれ、黒髪に、浅黒い肌に、男がアークトゥルスだと告げるものに、体が震える。
「人間か……?」
わずかに首を振った後、そのまま走り出した。恐怖に突き動かされて、雨の中を一気に駆け抜ける。一度も振り向くことなく、前だけを見て必死で走った。なるべく細い路地を選び、曲がりくねった道を抜けたところで、一度振り返ってみる。
アークトゥルスの姿は……なかった。
振り切れた?
姿は見えない。だけど、不安な気持ちは全く晴れない。前を向き、最深部を目指して、足を進める。
はぁ、はぁ……。
息が切れる。それでも、さらにスピードを上げようとした……が、限界を迎えた足がもつれ、倒れそうになる。その時、誰かの手が肩にかかったのを感じた。
なぜか、空を見ていた。
地面に仰向けに押し倒されたと気がついた時には、片手で両手を押さえられ、もう片方の手で口を塞がれていた。それは、ほんの一瞬の出来事だった。
「逃げるな」
耳元で、くぐもった声がした。
その声の主に焦点を合わせると、アークトゥルスが私を見つめていた。その瞳は、金色に光っていた。そして、間近見るアークトゥルスは、彫刻みたいに整った顔をしていた。トリカほど美しい人はいないと思っていたけど、このアークトゥルスは地上に堕ちた天使かと思うほど美しかった。だけど、天使なのは見た目だけで、口を塞いでいた手が私の顎を荒っぽく掴む。
……私は、殺されるの?
抵抗したくても、恐怖で体は動かない。私ができたこといえば、まばたきで雨をはらい、目だけで『離して』と訴えかけることだけだった。もちろん、そんな些細な抵抗が相手に通じるわけがなく、アークトゥルスは私の手首を掴んだまま。そのあまりの強さに、体が震えた。
「はなし……て……」
涙まじりの声に、アークトゥルスは眉をよせて私の目を見つめた。だけど、私の手首は離してくれなかった。アークトゥルスは首元にかがみこむと、舌で首筋を撫でる。その感触に身を引きつらせた。冷たい肌に、アークトゥルスの舌は、やけに熱く感じられた。
このアークトゥルスに、噛み殺されるの?
恐怖で、動けなかった。アークトゥルスは鋭い鉤爪で、腹部を撫でていく。硬い爪の感触に、必死で体を動かして、アークトゥルスから逃れようとした。
だけど、どんなにもがいても、アークトゥルスの力は強くてビクともしない。だんだんと強くなる体の震えを抑えられなかった。激しい雨にうたれながら、アークトゥルスは私を見つめたまま、動かない。
――アークトゥルス。
赤い瞳、鋭い爪と牙を持った化け物。笑いながら、人を殺す化け物。
何度も聞いた言葉が、頭の中でグルグルと回っている。このまま、お腹を切り裂かれてもおかしくない。あのアークトゥルスは私の目が合った時、口元をほころばせた。笑いながら、アルゲティに鉤爪を突き刺した。
私は、ここで……死ぬの?
これから訪れるだろう痛みに、死の恐怖に、目を開けていられなかった。体の震えも止まらない。だけど、アークトゥルスは、私の腹を切り裂くことなく、大きな手を私の背に当てて、引き寄せた。
――え?
雨を顔に受けながらも目を開けると、アークトゥルスが何かを囁いた。何を言ったのか聞きとることはできなかったけれど、なぜか愛情のこもった言葉のように感じて……自分の正気を疑った。
アークトゥルスの手が、私の背中を撫でる。それから、私をしっかりと抱きしめた。その間、私は自分では体を支えられず、ぼうっとした状態で降り注ぐ雨を感じていた。
今の自分の置かれた状況が、全く理解できない。一体、何が起きているの?
アークトゥルスは背中から頭まで手でさすりながら、両手で私の顔を自分の方に向けさせた。私を見つめるアークトゥルスは、とても愛おしいものを見るような、夢を見ているような、そんな表情だった。心に、戸惑いが押し寄せてくる。
……私を、殺す気じゃないの?
そう思っても、さっき見た光景が目に張り付いていて、体の震えが治らない。さらに、強くなっていく。その震えを感じたのかアークトゥルスは、私を引っ張って立たせた。そして、歩くようにうながしてきた。
「怪我はないな?」
強い雨に打たれながら、尋ねてくる。
質問の意図がわからなかったけど、小さく頷き、歩き出す。だが、すぐにぬかるんだ地面に足を取られ、衝撃を覚悟した。だけど、その衝撃は訪れなかった。訪れたのは、熱い体温だけ。アークトゥルスが、私を支えてくれていたから。それから、手を差し伸べてきた。
アークトゥルスの行動が……分からない。
アークトゥルスは、赤い瞳、鋭い爪と牙を持った化け物。笑いながら、人を殺す化け物。その化け物の手を見つめたまま、動けなかった。すると、強引に腕を掴まれる。その強さに、声にならない声が漏れた。恐怖で固まった体を叱咤し、アークトゥルスに掴まれた腕を振る。
――ドンッ!
突然爆発音が響き、ハッとして首をめぐらせた。アークトゥルスも鋭い目つきで、周りを見回した。
――ドンッ!
再びの爆発音に、私を掴んでいる手の力が……わずかに緩んだ。
今だっ!
アークトゥルスの手を振り払った。だが、すぐに腕を掴まれる。獣のような、うなり声が響く。聞いたこともない音に、息を飲む。体が、さらに震える。
「逃げるなっ!」
アークトゥルスが、怒声をあげる。その怒声に、息が止まりそうだった。怖くて……掴まれた部分が熱くて、必死でアークトゥルスの手から逃げようと無我夢中で体を動かす。
「大人しくしろ!」
アークトゥルスは、声を荒げた。
「はな、して……」
涙がこぼれ、顔に温かい筋を描く。
なぜか、アークトゥルスが掴んでいた腕を離した。離してと言ったのは自分なのに、急に離れていった体温に……また心が戸惑う。
「走れるか?」
いきなりのアークトゥルスの質問に訳がわからなくて聞き返そうとしたが、口に出す前に体を抱えられて、いきなり走り出した。




