指輪
屋敷の二階の、左奥にある部屋。青を基調としたベッドには、唇が赤く、肌は真白く透きとおった不思議なくらい若く美しい人が眠っている。
その美しい人の眠るベッドの脇にある椅子に、お父様は腰掛けていた。そして、私はお父様から少し離れたソファーに座っている。ヴィーは私の足元にいて、膝の上に顎を乗せながら、なでてというように腕に頭を押し当ててくる。その姿が可愛くて、柔らかい髪を優しくなでると、気持ち良さそうにヴィーが目を細める。
部屋には、私とヴィー、お父様の三人だけだった。
誰も何も言わなかった。でも、嫌な沈黙ではない。穏やかな春の日差しのような暖かな沈黙。ゆったりとした時間の流れだった。
お父様の手は、メサルティムの手を大事そうに握っている。そして、メサルティムを見る目は初めて見た時と変わらず、優しく慈しむようだった。その眼差しだけで、父の愛が伝わってくる。
その繋いだ手から、メサルティムにもお父様の愛が届いているといい。早く帰ってきて、お父様に笑ってあげてほしい。そばにいてあげてほしい。
どうして、メサルティムは魔法を使っているのだろう?
どうして、お父様のそばにいないのだろう?
…………どうして、お父様が『瀬良 優梨』の名前を知っているのだろう?
聞きたいことはたくさんあったけど、問いただす気にはなれなかった。お父様から話してくれるのを待ちたかった。
「何から話せば、いいだろう」
お父様がメサルティムの手を離して、私を見た。その声は、とても穏やかだった。
「エリース、お前がシェラタン家の奇病にかかっていることになっていることは、アルフェラッツから聞いているね?」
「はい。お父様には、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。色々と対応してくださり、感謝しています」
いつもの自分でと思っていたのに、お父様の前だと普通にはなれない。お父様に砕けた口調で話すのは、気が引ける。
「大したことはしてないから、エリースが気にすることはない。だが、長くここに留まることはできない。明日にでもオルサ国を出て、オービットに行きなさい。オービットにある家で、暮らすといい」
「ありがとうございます」
「エリースは、ヴィーと一緒に行くつもりかい?」
「はい。私は、ヴィーと離れるつもりはありません」
ヴィーの髪をなでながら、言った。ヴィーは何も言わず、無表情だった。……何もわからないというように。
「これからも、ずっと。私は、ヴィーと一緒にいます」
何があっても、ヴィーと一緒にいる。ヴィーを信じる。自分の気持ちを信じる。そう決心をしたら、すっきりした気分だった。
お父様はそんな私を見て、少し考えるように視線を動かした後、ゆっくりと話し出した。
「エリースは、アークトゥルスという言葉を知っているかい?」
人から聞く『アークトゥルス』という言葉に、動揺した。お父様が知っていることにも。
「……はい、知っています」
「そうか、知っているのだな。……なら、私から言うことは何もない。自分を信じた道を行きなさい。何か困ったことがあれば、いつでも私を頼りなさい。私は、エリースの味方だよ」
「ありがとうございます。……では、早速頼ってもいいですか?」
「何かな?」
「ヴィーと一緒にオルサ国を出たいのですが、何かいい方法はありませんか? 私だけなら、移動魔法で簡単に行き来できますが、ヴィーには魔法が弾かれてしまって」
「それは、問題ない。移動魔法が込められた魔法具がある」
……そんな魔法具があるの?!
なんで、今まで思いつかなかったんだろう。魔法具なら、ヴィーに魔法が有効になる。魔法具は、トルマリンに魔法を閉じ込めて作る。それなら、私にも作れるんじゃない?
自分で作れるようになったら、回復や防御系の魔法具も作りたい。そうすれば、何かあった時に、ヴィーを守ってくれるはずだ。よし、決めた!! オービットに行ったら、まず魔法具の作成方法について勉強しよう。
「エリース、この指輪を持っていきない」
お父様から指輪指輪を受け取った瞬間、頭の中に映像が流れこんできた。
夏目が、見えた。
夏目が……笑っていた。
……どういうこと?
どうして、夏目が見えるの?
目の前の夏目は、見たこともない顔で笑っている。私の知っているいつもの柔和な笑顔とは、少し違って……たぶんこの笑顔を向けている相手は、夏目にとって特別な相手なのだろう。何か言っているけど、声は聞こえない。
そして、その映像は跡形もなく……消えた。急な出来事に、まばたきをした。もう、何も見えない。たった数秒程度で、夏目は消えていった。
今の映像は……何?
何なの?
……なんで、夏目?
指輪を握りしめて、陽の当たる明るい方へと移動する。指輪は羽が指に絡みつくようなデザインで、ワンポイントとして五芒星と真ん中に青色のトルマリンがはめ込まれていた。そして、指輪の内側にも装飾が施されていて……
……え?
これは…………なんで……?
心臓の鼓動と呼吸とが同時に止まったのではないかと思ってしまうほどの衝撃があった。一緒に移動してきたヴィーの腕の中で、私は……固まっていた。いま、目の前にあるものが信じられなくて。
指輪の内側には……よく知る文字が彫られていた。そして、何度も聞いた言葉が彫られていた。
そう、何度も聞いた。
……何度も。
でも、このsignの世界ではない。
――指輪の内側には、
『我思う、ゆえに我あり』と彫られていた。
慣れ親しんだ、
このsignの世界では使われていない
――――日本語で。
思いがけない文字を前に、頭が真っ白だった。言葉も出てこない。信じられない気持ちで、ただ窓から差し込む日差しで良く見えるようになった文字を見ていた。
『我思う、ゆえに我あり』
「自分は存在しないのではないか?」と疑っても、「そう疑っている自分」がいることは、疑うことはできない。自分が疑っていること自体、自分が存在する証明である。
哲学者ルネ・デカルトの言葉。
哲学史上もっとも有名な言葉。
私の世界では、知っている人がたくさんいる言葉。
でも……私の頭には、一人の人物しか浮かんでこない。一つの考えが、頭から離れない。
――この言葉が好きだった、人。
――この言葉を主人公がよく言っているドラマが、好きだった人。
――――ねぇ、夏目。
夏目も、この世界に……いるの?
やっと、ここまで辿り着きました!
『我思う、ゆえに我あり』は、第一章・第二話で出てきた、夏目くんが好きな言葉。……覚えていますかね?σ^_^;




