誰が好きなのか?
焼けたパンの匂いとコーヒーカップからのたてたばかりのほろ苦い香りが、湯気と一緒に私の鼻腔をくすぐる。その匂いを嗅ぎながら、コーヒーにたっぷり生クリームと砂糖を入れると、ほろ苦い匂いが甘い匂いへと変化する。
「エリース、具合はどう? 顔色が最悪だけど、大丈夫なの? お父様もシェラタン卿も、とても心配しているわよ」
「心配かけて、ごめんね。でも、大丈夫」
「……最近のエリースは、大丈夫しか言ってないわよ。私、今のエリースが言う『大丈夫』ほど信用できないものはないんじゃないかと思っている。エリース、無理はしないで。何かあったら、すぐに私に言ってね」
言いながら、リブラが私の手を握る。リブラの手の中にある紙を、気がつかれないように握りこむ。そして、小さく折りたたまれたその紙をテーブルの下でそっと広げる。
『シェラタン卿からの手紙が本の中に、入っているから読んで。それと、やりすぎよ! 本当の病気みたいで心配になるから、もう少し食事をとって』
綺麗な字で書かれたリブラからの手紙に目を通すと、流れるような動作でペンダントにしまう。
今の私は奇病にかかる設定なので、今から体調を崩しておいた方がいいだろうとわざと食事量を減らして、体調不良を装うことになったのだけど……今は演技でもなく、本当に体調が悪い。
悪夢のせいで、睡眠をほとんど取れていない。あの本のせいで、食欲なんて全く湧いてこない。時折やってくる痙攣のせいで、体力をどんどん削られていく。
「心配かけて、ごめんね。でも、リブラが会いに来てくれて嬉しい」
リブラは、奇病作戦の計画を全て知っている。知っていて、私のために行動してくれている。今回の作戦を継続することができたのは、リブラの助けがあればこそのものだった。なぜなら、オルサ王は私が誰かと会うことを許可しなかった。
――それが、お父様でさえも。
唯一許してくれたのが、リブラだった。リブラには、キャプリコーンがいること。私と長い間、友人関係を築いていること。そして、私の体調が悪くなってきたこと。
それが、私がリブラと会うことを容認してくれた理由だろう。だけど、私たちの会話は全て聞かれている。リブラもそのことがわかっているから、常に言葉を選んで話してくれている。
「私こそ……あまり来れなくて、ごめんね。なかなか許可がもらえなくて……」
「気にしないで、リブラ」
「お父様も、ここまでしなくてもいいのに! 部屋から出さないなんて、信じられない!! エリースが具合が悪くなっても、仕方ないよ!」
リブラは、わざと言っているのだろう。それがわかるから、思わず笑みが漏れた。
「リブラ、ありがとう。でも、陛下の気持ちもわかるから。……それに、リブラと会うことを許してくれたことに感謝しているわ」
「エリースは、もっとお父様に要求してもいいと思うけどね!」
「そうね……。もし、陛下がお許しをくださるなら……結婚する前に一度でいいから、屋敷に戻りたい。お父様と、お母様に会いたい」
さりげなく、お願いしてみる。これくらいなら、大丈夫だろう。たまに、こうやってジャブを打っておかないと。
「私からも、お父様に頼んでみるわ! 結婚前に、一度だけでも帰してあげてって! きっと、大丈夫よ。お父様は、とても寛大な方だから」
「……うん。ありがと、リブラ」
さぁ、どうする? お願いを聞いてくれるかな? ……これで、屋敷に戻れたら簡単でいいのだけど。
「あっ! そうそう、エリースに本を持って来たの! 先に、渡しておくわね」
リブラは朽葉色に日焼けした分厚い本を、テーブルの上に置いた。
「ありがとう」
受け取りながら、お礼を言う。
リブラが持ってきてくれた本の表紙には『闘犬の歴史』と書いてあった。正直……なんでよりにもよって、この本なんだと頭を抱えたくなった。今は、犬に関する本を読みたくない。
「リゲルはね、全然笑わない人だったらしいわ」
そりゃ、そうでしょ? 好きな相手の父親と無理やり結婚させられたら、笑えるわけがない。
「でも、闘犬が好きで……闘犬を見る時だけは笑顔を見せた。だから、ベテルギウスは愛するリゲルの笑顔を見たくて、数万人を収容できる大規模は円形闘技場を建てたの。ペテルギウスの愛の証として」
「そんなことまで、書いてあるの?」
「闘犬の歴史の本だからね。"リゲルの再来"と言われているエリースには、ピッタリの本でしょ?」
リブラは、前に私がリゲルについて知りたいと言ったのを覚えてくれて、この本を持ってきてくれたのだろう。でも、今は闘犬もリゲルも……お腹いっぱい。両方とも、もっと深く知りたいと思っていたけど、今はどっちとも距離を置いていたい。
だけど、お父様からの手紙を受け取らなければならない。
軽く息を吐いてから、本をペラペラとめくる。手紙はすぐに見つけることがらでき、気がつかれないようにペンダントに収納する。そして、そのままページをめくり続けるけど、目は上滑りするだけ。文字が全く頭に入ってこない。
「エリースは、知っているかしら? 闘犬には、ランクがあるのよ」
「ランク? ランクって……階級のこと? オルビタの本に書いてあったような気がするけど……よく覚えてない。この本に、そのことも書いてあるの?」
「ううん。これは、ただの一般常識」
「え? 一般常識なの?」
「闘犬のね。闘犬には、五つの階級に分かれているのよ。凡庸・未熟・上級・最上級と続き、最高のランクに君臨しているのは――“容姿端麗な者”」
はぁ?
「え? 容姿……端麗な者? 外見の?」
「もちろん容姿が整っていれば、誰でもOKというわけじゃないわよ。技量や強さが充分あった上で、容姿端麗な者が最高ランクを得ることができるの」
「でも、容姿が整ってないと最高ランクには、いけないってことだよね?」
「えぇ、そうね。私たちも開催した成人の闘犬大会では強さのみが全てだけど、普段の闘犬は娯楽要素が大きいから、どうしてもそうなるのよ。犬の髪が、短いのも観客に勝者の顔を見てもらうためだからね」
やっぱりsignの世界だなと思う。
外見重視のsignらしい。
「ねぇ、リブラ。…………私の……結婚のお祝いに闘犬をするって聞いたんだけど、それって……どんなものなのか知ってる?」
「結婚のお祝いの闘犬は、式の翌日から十二日間行われる盛大なものよ。身分ごとに席は決まっているけれど、すべてのオルサ国民が無料で闘犬を見ることができるの」
「……ベテルギウスとリゲルの結婚の際は、百日間にわたり盛大に闘犬大会が開催され、午前中は猛獣との闘い、午後からは闘犬同士の闘いが毎日行われた。猛獣は九千頭、闘犬は三千匹ともいわれる数が死に、真っ白な闘技場は血で真っ赤に染まった」
開いたページに書かれた字を追いながら、口にした。
「十二日間では、どれくらいの犠牲がでるんだろうね…………」
無理やり本能を呼び起こされて……
声を発することもできずに……
今まで何人もの人が、命を落としてきたのだろう……。
「エリース……?」
「当時は食事をしながら、闘犬大会を見ていたらしいわ。犬が闘っているのを観ながら、食事をしていたのよ」
「……昔よ。今は、食事しながら観ることしない」
「闘犬が凶暴な動物と闘わなくなったのは、リゲルが動物の死を悲しんだことからなんだって。ベテルギウスはリゲルが悲しむ姿を見たくなくて、闘犬のルールを改正し『闘犬は犬同士のみ』とした。そう……書いてある」
やっぱり、signの世界は頭がおかしい。
そして、リゲルも、相当頭がおかしい。
「エリ……」
リブラが何かを言おうとした時、カチッと錠の外れる音が部屋に響いた。その後、ゆっくりとした足取りで、オルサ王が部屋の中に入ってきた。
そのことに先に気がついたリブラが立ちあがり、一礼をする。私も少し遅れて立ち上がると、膝を曲げて挨拶をした。
「エリースは、闘犬が嫌いなのか?」
「私は……血が不得手のため、あまり好みません」
「ならば、式後の闘犬観戦はやめておこう」
「……お心遣いいただき、ありがとうございます」
オルサ王の手が、私の髪に触れる。体が反応しそうになるのを必死で抑え、笑顔を作る。
「お父様、発言を許していただけますか?」
「許そう、リブラ」
「恐れながら、お父様にお願いしたいことがございます。式までの間、一度だけでも、エリースを水の城に帰していただけないでしょうか? お父様の心配を減らせるよう、私も共に参ります」
「……考えておこう」
「ありがとうございます」
リブラがお礼を言うと同時に、礼をした。すると、オルサ王は片手を挙げ、全員に下がるように指示した。リブラも再度一礼し、部屋から出て行った。
「エリース。そなたは……誰を好いている?」
オルサ王の言葉に、思わず言葉を飲み込んで凝視する。
「陛下。私は誰かを愛したことは、ありません。そして、これからも……誰かを愛することはないでしょう」
この設定も決めていた。
これ以上、誰かを傷つけたくない。
「私のことも?」
「誰のことも。……陛下は、そんな私を本当に妃になさいますか?」
「構わない。そなたは、私のものだ。……私だけの。エリース、私のそばにいると約束できるか?」
「陛下のお望みのままに」
そう言うと、片膝を立てて胸に手を当て頭を下げる。
「シェラタン卿に、エリースを迎えに来るよう伝えよう」
「……温かい心遣いに、感謝いたします」
やった! 屋敷に戻れる!!
屋敷にいる……ヴィーは、大丈夫だろうか?
あの日の、心配そうなヴィーの顔が浮かぶ。
きっと、心配している。
…………会いたい。
私は、やっぱりヴィーに会いたい。この感情がどこからくるのかなんて、わからない。もしかしたら、あの本の通りなのかもしれない。それでも……私はヴィーに会いたい。ヴィーに触れたい。ヴィーの笑顔を見たい。
「エリース」
呼ばれて顔をあげると、唇に何かが触れた。予想だにしない柔らかな感触に一瞬凍りつき、それから我慢できずに首を振った。
――しまった!
唇を拭いたい気持ちを必死で抑える。
……ヴィー。
……ヴィー。
心の中で、何度もヴィーの名前を呼ぶ。
「エリース、もう一度聞こう。そなたは……誰を好いている?」




