アークトゥルス
手が震える。
――どうして?
心臓の音がドラムを鳴らしているみたいに、体中に響いていた。
――――どうして?
震える手で、ページをめくる。
今まで読めなかったのに、どうして?
ううん! 今は、理由なんてどうでもいい。いつ、また読めなくなるかわからない。
早く……早く……気持ちだけが、焦ってくる。
『アークトゥルス』
――知りたい。
この言葉の意味を……。
――――でも、知りたくない。
この言葉の意味を……。
知るのが、怖い……。
でも……
知らなければならない。
そう決意しても、震えが止まらない。
神経統一するかのように大きく呼吸をして、何度も手を握ったり開いたりする。それでも、まだ震えが治らない手で『アークトゥルス』の文字を探す。
――あった!
それから、一字一句漏らさないように読んだ。一度でも読むのをやめてしまったら、また白紙になってしまう気がして必死で読み続けた。
本には、ずっと知りたかった『アークトゥルス』の詳細が書かれていた。
だけど、その内容は一回読んだだけでは頭に入らず、何度も何度も読み返さなくてはならなかった。書いてある内容が、信じられなくて……。
『アークトゥルス』は、血と殺戮の種族。
アークトゥルスはオルビタを中核とし、次々と人間を襲う血に飢えた残酷な種族。その殺戮は凄まじく、オルビタの街は常に赤く染まっていたという。その容赦のない残虐な所業と血のように赤い目、夜の闇のような漆黒の髪を持っていることから『黒い死神』と呼ばれていた。
アークトゥルスは鋭い牙と爪を持ち、魔法も効かない。その圧倒的な力の違いに人間はなすすべもなく、逃げ惑うことしかできなかった。逃げ遅れた人々は、死体の山に変えられて、彼らの行く場所は常に血の海だった。
――アークトゥルスは、犬と呼ばれる彼らのことだ。
昔…………彼らが、この世界を支配していた? そして、アークトゥルスから人々を助けるために、オルビタに隕石を落とし、生き残ったアークトゥルスたちには人間を襲わないように魔法具の首輪をつけた人がいた。
それが、この本の作者…………ステラ・マリス。
神話は、実際にあったことだったんだ。ステラ・マリスは、実在していた。この本を書いたのも、『黄道十二星座』を書いたのもステラ・マリス、その人。
ステラ・マリスは、人々を助けるために強力な魔法を完成させ、魔法具を作った。アークトゥルスを奴隷のようにしたくて魔法具を作ったわけではないことは、この本を読めばわかる。だけど、その魔法具が完成したことで、人間がアークトゥルスを支配する側になった。
……きっと今までの仕返しとばかりに、彼らを奴隷のように扱うようになったのだろう。
……彼らが傷つく姿を、見たかったのだろう。
……殺された犠牲者の仇を、とりたかったのだろう。
……復讐心を、満たしたかったのだろう。
そうして、やがて闘犬が始まった。
――――それが、signの世界の始まり。
サァーと、雨の音が聞こえてきた。外を見ると、王宮を包むように雨が絶え間なく降っている。窓に近づくと、窓枠が濡れていた。雨があたった箇所の色が、変わっていく。茶色から、黒色に。
本に書かれていたのは、オルサ国の悲しい歴史だった。ステラ・マリスがしたことも、人間がアークトゥルスを奴隷扱いするようになったことも、理解できる。ちゃんと理由があった。
…………でも、もういいでしょう?
今オルビタにいる彼らは、アークトゥルスではない。彼らを、もう解放してあげてもいいでしょう?
ふうと息を吐きながら、両手を突き上げて大きく伸びをした。
また読めなくなってしまう前に、本の続きを読まなければ。
窓を閉めて、またベッドに戻る。そして、黄ばんだページをめくる。読み進めていくと…………ある文が、頭を突いた。まるで目から入った言葉が、頭に直接飛び込んでくるように。
『アークトゥルスには、唯一の王がいる。その王は、金色の瞳をしている。王が死ぬと、アークトゥルスは落ち着きを失い、さらに残虐性を増していく。新しい王が生まれるまで殺戮は止まらない。
王となる金瞳のアークトゥルスは、他のアークトゥルスとは違い、強い魔力を持っており、人間の心を意のままに操ることができる。魔力は金瞳にあり、その瞳に魅せられた人間は、彼を主人として崇拝し、仕えて愛するようになる。望みは、主人のそばにいることだけ。そして、金瞳に魅了された者の体には、従属の証が刻まれる。そばを離れると激痛が襲い、酷い苦しみが待っている。放っておくと何度も発作を起こし、最後には……』
遠くで、雷の音がしていた。窓ガラスに水滴がどんどん流れていた。
思考が、停止していた。
頭が、真っ白になっていた。
何も……考えられなかった。
動かない頭を何度も振る。唇が、震えていた。感情をコントロールしようとしても、うまくいかない。
金瞳に、魅せられる?
従属の証?
そんな……そんなわけがない。
しっかりして、大丈夫だから。
……何が?
……何が、大丈夫なの?
ヴィーと会ってからの出来事が、走馬灯のように頭を駆けめぐる。
ヴィーと初めて目が合った瞬間、息ができなくなった。ヴィーの瞳が金色に輝いていて、その瞳が…………目の奥に残って消えなかった。
二度目に会った時、ヴィーの金瞳がまっすぐ私を見ていた。離れていたのに、視線が絡みついて時間が止まり、騒がしい声も音も消えて、たくさんいる人も消えて……まるで二人だけになったような気がした。
私は、いつもヴィーの美しい金色の瞳から目が離せなかった。見えない鎖にがんじがらめになって、動けなくなった。ヴィーの瞳を見てしまうと、「ここに、いたい」と言う言葉しか出てこなかった。
ヴィーのそばに、いたかった。
ヴィーに、触れていたかった。
私は………いつから、ヴィーを好きになったの?
いつから、ヴィーのそばにいたいと願うようになったの?
私は…………
ダメ! 何を考えているのよ! しっかりして! 本の内容なんかに、流されちゃダメ。この本が正しいとは、限らない。
signの世界の本は、デタラメばかりだった。犬の本は、嘘ばかりだった。この本だって、全てが正しいわけじゃない。私が……ヴィーを好きな気持ちは、そばにいたいと思う気持ちは、そんな理由なんかじゃない。
落ち着ついて、冷静になるの。これ以上、変なことを考えてはダメ。自分の感情をコントロールして。呼吸を整えて。大丈夫、大丈夫だから。こんなことくらいで、動揺しちゃダメ。たかが、本よ……。
目を閉じ、大きく深呼吸を数回繰り返す。
少し落ち着いた時、シルクの布がふわりと落ちるような、ささやき声が頭の中に響いた。
『首輪を外すべきではなかった』
急に響いたその声に短く悲鳴をあげ、持っていた本を握りしめていた。
――今の声は、なに?
息を凝らすように、じっと辺りを見回した。そのあと、バルコニーに出て、神経を研ぎすましたが、人の気配は……どこにも感じられなかった。
外は雨がやんでいて、朝の匂いがした。空を見上げると筋雲が広がり、赤く染まっている。まるで犬と呼ばれる彼らの瞳のような、真っ赤な朝焼けだった。




