心臓が限界です
シリウスに戻ると、ヴィーの姿が見当たらなかった。
「ヴィー?」
「ここだよ」
頭上から、ヴィーの声がした。
声のする方を見ると、ヴィーは天井の梁の上にいた。床から五メートル以上ある梁の上を、危なげなく歩いている。
風を操って、一気にヴィーの隣に移動する。
梁の上に立つと、高い場所が苦手なわけではないのに高さに対する恐怖が背中に走った。それを悟られないように、梁の上に腰かけて足を空中に投げ出して、ブラブラと揺らす。
ヴィーは、そんな私を見て笑った。その様子に、いつものヴィーだと安心する。
「どうだった?」
――はっ?!
昨日のこと? 昨日のことだよねっ?!
昨日の私は、もう頭が爆発してしまって、会話もなく寝た。文字通りに睡眠をとった。心臓がばくばくして眠れないかと思ったけど、まるで意識を失うように眠りにつき、朝は挨拶のみして学園に戻った。
どう返答すべきか……とりあえず、すっとぼけよう。それが、正解なはず。
「……何が?」
「早送り機能は、作動しなかった?」
……………………あぁ、そっちね。
「大丈夫だったよ」
「良かったな」
「うん」
どうしよう……。
ヴィーの顔が見られない。
横を向くと窓が開いていて、そこから冷たい空気がこぼれる。
風が、気持ちいい。
そう思って目を閉じようした時、ヴィーがいきなり梁から身を投げ出して、体の柔軟性を活かし、体を上下に反転させ、硬い床に音もなく着地した。そして、私を見て、両手を広げた。
「セーラ、ジャンプ」
「無理っ!」
「大丈夫だから」
「……魔法を使ってもいい?」
「だめ。怖いの?」
「怖くないわよ!」
……いや、怖いです。
「怖くは……ないけど、私はヴィーとは違って運動神経はそんなに良くないの、この高さから落ちたら、怪我どころじゃ済まないのよ」
「セーラ、ジャンプ」
私の言葉を聞いてよ!
飛ばないって、言っているじゃない!
「セーラ」
……わかったわよ!
飛ぶわよ! 飛べば、いいんでしょっ!!
私は目を閉じて、勢いでジャンプした。一瞬、すべてから解放されたように感じたが、すぐに重力に引っ張られた。そして、私は目を閉じたまま、無意識に左手で風を操っていたみたいで、落ちる前に速度が遅くなり……恐る恐る目を開けると、目の前にはヴィーがいた。
「私、悲鳴をあげた?」
「ああ、途中で。セーラが防音魔法をかけていて、良かったよ。もし魔法がかかっていなかったら、俺がセーラを殺そうとしていると思われただろうな」
「悲鳴は自分の意思と関係なく、勝手に出てしまうものなのよ」
「勝手に?」
「そう。驚いたら勝手に、ね」
「賭ける?」
「賭けない。ヴィー、何をしよ……」
言い終わる前に、ヴィーはすでに行動におこしていた。私にはヴィーの動きを目で追うことはできず、気が付いたらヴィーの腕の中にいた。そして、いきなり解放され、倒れそうになったが……私は悲鳴をあげることはできなかった。そして、床にぶつかる寸前に、ヴィーは床と俺との間に体を入れていた。
「今は、悲鳴をあげなかったな」
ヴィーは私を見ながら、ニヤニヤと笑っている。
「悲鳴をあげるチャンスがなかったのよ!」
今の衝撃だけではなく、息が弾んでいた。さっき、ヴィーを好きなのだと認識したばかりなのに、この距離は良くない。
ヴィーは、私を見上げてる。そして、私の頬、それから髪に触れた。今までだったら気にしていなかった、その動作に……心臓がドラムのようにドクドクドクと高鳴っている。
「魔法を使うなって、言っただろ?」
「それも、無意識だったの」
ヴィーの手がまた頬に戻り、軽くなでられた。それだけで、体は震える。
――これ以上、この体勢は無理!!
不自然にならいように体を起こして、ソファーへと移動する。ヴィーの体温から離れたおかげで、心臓が落ち着き始める。ほっとして椅子の背に体を預けると、ヴィーが隣に座る。温かい体温から逃れたはずなのに、肩を寄せてくっつきあうような格好になってしまった。
――どうして、隣に座るのよ!
落ち着き始めていた心臓が、再び跳ね始める。肋骨が折れてしまうのではないか、と心配になるほどの勢いだ。もう、無理……。
「……セーラは、前の世界で番は、いたのか?」
――――はぁ?!
つっ番……?!
いきなり、何を言い出すの?!
「番は……えっと、結婚相手ってこと?」
「唯一の相手」
唯一の相手?
結婚ってことよね、きっと。
「いなかったよ。付き合ったことなら、あるけど」
「付き合うって?」
「え? 番う前のお試し……みたいな?」
「そいつと番いたいとは、思わなかったのか?」
……番う以前に、愛していたのかさえ怪しい。キスもしたことないし、好きと言ったことさえない。
「そこまでの気持ちは、なかったな」
「少しも?」
「うん。付き合ったって言っても、短い間だけだったから。そこまで本気には、なれなかった」
「なんで?」
「え?」
「なんで、そいつはセーラの愛を勝ち取れなかったんだ?」
ヴィーは、私の答えがとても重要だというように身を乗り出した。
「なんで、かな。……別に、何かが悪いとかじゃないくて。ただ、そこまでの気持ちになれなかったっていうか……」
「一度も番いたいとは思わなかった?」
「うん、一度もない」
彼と別れてから、軽い気持ちで付き合うのはやめようと決めた。良い人だったのに、私を好きだと言ってくれたのに……私は彼を傷つけただけだった。それからも、何人かに告白されたけど、二度と付き合うことはなかった。そう、何人にも告白された。だけど、彼らは私を好きというわけじゃなかった気がする。たぶん、私を好きっていうより夏目に近づきたかったんじゃないかなと思う。夏目は男女関係なく、誰からも愛されていたから。
まぁ、当の夏目自身は、次々と付き合っていたけどね。そのくせ、「運命の相手は、どこかにいる」とかロマンチックなことを言っていたなぁ。全然見つからないから、違う世界にいるのかもなんてバカなことも言っていたっけ。あの時は、何を考えているのって笑ったけど……まさか、夏目じゃなくて私が違う世界にくることになるとは思ってもなかったよ。
そんなことを考えていたら、ヴィーがさらに近づいてきていたことに気付き、逃げ出そうと体を動かした。だけど、逃げるにはソファーが小さすぎて、ほとんど動くことができなかった。パチパチと電気がはじけそうなヴィーとの距離に、動揺が隠せない。今は、夏目のことは、どうでもいい。夏目は、私が心配しなくても上手くやっているはず。
今の問題は、私の心臓!
すでに、心臓が限界を告げている。とてつもなく、波打っている。胸が盛り上がったり、へっこんだりを繰り返している。
夏目、私は今……あなたの代わりに異世界に来ている。そして、夏目じゃなくて、私が恋をしている。こんなに心臓に悪いものが恋だというのなら、私は一度も恋をしたことがないと断言できる。
――心臓がやばいから!
触れていないのに感じるヴィーの体温に、もう顔をあげることすらできない。ただソファーの縫い目を見ながら、手でなぞる。
「セーラとキスしたい」
思わず顔をあげると、ヴィーと目が合った。目を逸らすことができない。
「誰かにキスをすると考える時、俺が想像するのはセーラだよ。セーラだけ」
「私もだよ」と答えたいのに、体も言葉も固まってしまって、自分の力ではどうすることもできなかった。
昨日のヴィーは、どこに行ったの? あの悲しい笑顔をしていたヴィーは、どこに行ったの? 別に、あの笑顔が見たいわけじゃないけど……昨日との違いに順応できていない。
――――だから、心臓がやばいって!!
「セーラの唇がどんな感触か、もう一度確かめたい」
ヴィーは、かすれた声で言った。
反射的に目を閉じそうになって、全身の血液が顔に集中してゆくような熱を感じた。もう……どうにかなりそうだ。それなのに、ヴィーは言葉を続ける。
「セーラは考えない?」
ヴィーは言いながら、親指で下唇を撫でる。その仕草に、体がビクッとする。そして、ヴィーが私に向かって笑った。優しく、美しい笑顔で。
瞬間、心臓に衝撃の一撃があった。たちまち顔に熱がこみ上げてくる。そして、その感覚は神速で全身を圧倒していく。
――落ち着いて、私!
――息を吸うのよ、私!
つき上げて来る熱に抗って、ただ夢中で何度も大きく空気を吸いこんだ。
どうにか、息を吐き出した時に思った。
…………もう死ぬかもしれない、と。




