悲しい笑顔は、見たくない
二人を寮の部屋に送ってからシリウスに戻ると、ヴィーはバルコニーで夜空を眺めていた。暗闇の中、星の光がヴィーの左の頬だけに当たり、まるで左の顔だけしかないようで…………なぜかヴィーがどこかに行ってしまいそうで、消えてしまいそうで、急に怖くなった。
ヴィーに近づいて手を伸ばす。すると、すぐに暖かい手が握り返してくれた。ヴィーの体温だけを感じたくて、目を閉じる。繋いだヴィーの手は、優しく温かい。ヴィーの体温に触れていると、いつだって心が落ち着いてくるから不思議だ。
目をゆっくりと開けた時、ヴィーが言葉を発した。
「あれが、普通の反応なんだ」
何が言いたいのか分からず、ヴィーを見上げる。
「セーラは、この国の王子たちに愛されているのだろう? 俺のことなんて、気にしなくていい。わざわざオルサ国を出る必要なんてない。俺と一緒にいる必要なんてないんだ」
ヴィーは、立て続けに言った。その声に感情がまったくこもっていないのが、かえって不自然だった。そして、ヴィーの視線は、ずっと夜空にある。
「何が言いたいの? もしかして、私に王子たちを選べと言っているの? それが、私の幸せだって? ヴィーは、私が王子たちを好きだとでも思っているの?」
「好きなのか?」
ヴィーは私を見ることなく、夜空を見つめたままだった。そして、その声には、やはり感情がこもっていない。
「好き……」
「好きじゃないだろう?」
「答える前に言わないでよ」
ヴィーの焦点が、やっと私に合う。そして、もう一度、ヴィーは同じ質問をした。今度は、じっと私を見ながら。
「……好きなのか?」
何で、ヴィーが急にこんなことを言い出すのかわからない。さっきの会話に、ヴィーが誤解するようなことを話していたのだろうか? それとも、気がつかないうちに何か言っていた? ……ううん、一度だって「王子が好き」なんて言ってない。そんな素振りもみせなかった。実際、私は王子たちにそんな感情を抱いたことは一度もない。未だに、王子たちを見分けることすらできていない。選別魔法をかけて、判別しているくらいなのだから。
そのことは、ヴィーにも話していた。
…………それなのに、どうして?
「好きじゃないよ。王子たちを好きだと、思ったこともない。ヴィーも知っているでしょ? ……どうして、そんなこと聞くの?」
「俺は、犬なんだ」
「何を……言っているの。ヴィーは、犬なんかじゃないよ。ヴィーと私は、同じ。何も変わらない。だから、そんなこと言わないでよ」
「セーラは、わかってない」
いつもとは違うヴィーの反応に、なんて言えばいいのかわからなくなる。頭が上手く働かない。
「ヴィー、そんな悲しいことを言わないで。……ヴィーと私は、同じだよ」
「セーラ、俺も……わかりたくなかったんだ」
長い間、ただそう感じただけかもしれない。ヴィーは目をそらすことなく、私をじっと見つめていた。
――そして、すごく気弱な笑顔を見せた。
ふわっと、ため息をつくような……悲しい笑い方だった。
その瞬間、何かが自分の中で弾けたのを感じた。
「ヴィーは、犬なんかじゃない。私にとって……ヴィーは、犬なんかじゃないから」
声が震えていた。それでも、ヴィーに伝えたくて言葉を続けた。
「一度だって……私は、そんな風に思ったことはない」
わかっていると、思っていた。
ヴィーは、わかってくれていると。
――――でも、
わかっていないのは…………私だ。
ヴィーの体は引き締まった硬い筋肉で覆われているけど、全身傷だらけで……何かで切られた痕、ひどい火傷の痕等の無数の傷が体中に刻まれている。普通の怪我なら、傷を負ってもある程度したら、痕が残らずに消える。
痕が残る傷と残らない傷の違いは、傷の深さ。人間の皮膚には、表皮と真皮がある。皮膚をつまんでみると、よくわかる。つまむことができる皮膚が表皮。表皮は修復力がある組織だから、火傷や傷を負っても、ほぼ痕が残ることはない。一方、真皮は表皮の下にあり、指でつまむことはできない奥にある組織。そして、この真皮に届くような傷は……必ず、痕が残る。
ヴィーが屋敷に来て、二年。
ヴィーの体に刻まれた傷は消えることなく、今も体中に残っている。
……どれほどの痛みに、耐えてきたのか。
……どれほどの恐怖と、戦ってきたのか。
まだ幼いヴィーが、どんな仕打ちを受けてきたのか、私は詳しく知らない。ヴィーも私に話すことは、なかった。でも、プロキオンの言葉や闘犬の本に書かれていた内容が、頭の中を駆け巡る。
ヴィーは無理やり闘わせられて、躾という名の暴力を受けてきた。それが一度ではないのは、体中にある複数の傷を見れば明らかだ。
ヴィーが、気にしていないはずがないのに……
何も気にしてないように、笑ってくれるから…………
そんなはずないのに……。
オルビタから屋敷に来て、その後……ヴィーは一度もシェラタン家から出たことがない。屋敷のみんなは、父の言葉を忠実に守り、ヴィーを犬扱いすることはない。
二人を連れてくる前に、ヴィーに話すべきだった。二人にも、ヴィーのことを理解してもらうべきだった。
私は、ヴィーを傷つけたくなんかないのに。
――こんな悲しい笑顔なんて、見たくなかったのに。
どうして、私はこうなんだろう。
学園の生徒は頭がお花畑だと思っていたけど、私だって同じだ。ヴィーは生まれてから、ずっと閉じ込められ、犬だと扱われてきたのに。
私は、それを知っていたのに……。
少し考えれば、わかったはずなのに……。
「……ごめん、ヴィー。私は……私が、もっとヴィーの気持ちを考えていれば……」
「セーラが謝ることなんて、一つもない」
「あるよ、ヴィーを傷つけた。……ヴィー、私……ごめんね。私が悪かったの。私が……」
「謝ることなんてないよ。セーラに悪いところなんて、あるわけないだろ? セーラは、そのままでいいんだよ。俺は、今のセーラが好きだから、何も直す必要なんてない」
「ヴィー、これだけは忘れないで。私にとって、ヴィーは犬なんかじゃない。それに、私がヴィーのそばにいたいの。ヴィーにそばにいてほしいって、私が思っているの。だから、私のそばから離れようとしないで。お願いだから……私の手を離そうとしないで」
ヴィーは、私の言葉に応えるように笑ってくれた。悲しそうな笑顔ではなく、優しさに満ちあふれた美しい笑顔だった。
胸の奥が、熱くなる。
こんなふうに優しく微笑むことのできる人を、私はヴィーより他には知らない。
その笑顔に引き寄せられるように、そっと近寄って頬に触れる。ヴィーは、すぐに左手で私の手を優しく包む。そして、ヴィーが私にキスをした。ううん、私からしたのかもしれない。
――ただ、触れるだけの軽いキス。
ほんの短い間のキスだった。初めて触れるヴィーの唇は驚くほど柔らかく、そして微かに……震えていた。




