表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

29/102

悲しい笑顔は、見たくない


 二人を寮の部屋に送ってからシリウスに戻ると、ヴィーはバルコニーで夜空を眺めていた。暗闇の中、星の光がヴィーの左の頬だけに当たり、まるで左の顔だけしかないようで…………なぜかヴィーがどこかに行ってしまいそうで、消えてしまいそうで、急に怖くなった。 

 ヴィーに近づいて手を伸ばす。すると、すぐに暖かい手が握り返してくれた。ヴィーの体温だけを感じたくて、目を閉じる。繋いだヴィーの手は、優しく温かい。ヴィーの体温に触れていると、いつだって心が落ち着いてくるから不思議だ。


 目をゆっくりと開けた時、ヴィーが言葉を発した。


「あれが、普通の反応なんだ」


 何が言いたいのか分からず、ヴィーを見上げる。


「セーラは、この国の王子たちに愛されているのだろう? 俺のことなんて、気にしなくていい。わざわざオルサ国を出る必要なんてない。俺と一緒にいる必要なんてないんだ」


 ヴィーは、立て続けに言った。その声に感情がまったくこもっていないのが、かえって不自然だった。そして、ヴィーの視線は、ずっと夜空にある。


「何が言いたいの? もしかして、私に王子たちを選べと言っているの? それが、私の幸せだって? ヴィーは、私が王子たちを好きだとでも思っているの?」

「好きなのか?」


 ヴィーは私を見ることなく、夜空を見つめたままだった。そして、その声には、やはり感情がこもっていない。


「好き……」

「好きじゃないだろう?」

「答える前に言わないでよ」


 ヴィーの焦点が、やっと私に合う。そして、もう一度、ヴィーは同じ質問をした。今度は、じっと私を見ながら。


「……好きなのか?」


 何で、ヴィーが急にこんなことを言い出すのかわからない。さっきの会話に、ヴィーが誤解するようなことを話していたのだろうか? それとも、気がつかないうちに何か言っていた? ……ううん、一度だって「王子が好き」なんて言ってない。そんな素振りもみせなかった。実際、私は王子たちにそんな感情を抱いたことは一度もない。未だに、王子たちを見分けることすらできていない。選別魔法をかけて、判別しているくらいなのだから。


 そのことは、ヴィーにも話していた。

 …………それなのに、どうして? 


「好きじゃないよ。王子たちを好きだと、思ったこともない。ヴィーも知っているでしょ? ……どうして、そんなこと聞くの?」

「俺は、犬なんだ」

「何を……言っているの。ヴィーは、犬なんかじゃないよ。ヴィーと私は、同じ。何も変わらない。だから、そんなこと言わないでよ」

「セーラは、わかってない」


 いつもとは違うヴィーの反応に、なんて言えばいいのかわからなくなる。頭が上手く働かない。


「ヴィー、そんな悲しいことを言わないで。……ヴィーと私は、同じだよ」

「セーラ、俺も……わかりたくなかったんだ」


 長い間、ただそう感じただけかもしれない。ヴィーは目をそらすことなく、私をじっと見つめていた。



 ――そして、すごく気弱な笑顔を見せた。

 ふわっと、ため息をつくような……悲しい笑い方だった。

 

 その瞬間、何かが自分の中で弾けたのを感じた。


「ヴィーは、犬なんかじゃない。私にとって……ヴィーは、犬なんかじゃないから」


 声が震えていた。それでも、ヴィーに伝えたくて言葉を続けた。


「一度だって……私は、そんな風に思ったことはない」


 わかっていると、思っていた。

 ヴィーは、わかってくれていると。





 ――――でも、

 わかっていないのは…………私だ。




 ヴィーの体は引き締まった硬い筋肉で覆われているけど、全身傷だらけで……何かで切られた痕、ひどい火傷の痕等の無数の傷が体中に刻まれている。普通の怪我なら、傷を負ってもある程度したら、痕が残らずに消える。

 痕が残る傷と残らない傷の違いは、傷の深さ。人間の皮膚には、表皮と真皮がある。皮膚をつまんでみると、よくわかる。つまむことができる皮膚が表皮。表皮は修復力がある組織だから、火傷や傷を負っても、ほぼ痕が残ることはない。一方、真皮は表皮の下にあり、指でつまむことはできない奥にある組織。そして、この真皮に届くような傷は……必ず、痕が残る。


 ヴィーが屋敷に来て、二年。

 ヴィーの体に刻まれた傷は消えることなく、今も体中に残っている。


 ……どれほどの痛みに、耐えてきたのか。

 ……どれほどの恐怖と、戦ってきたのか。


 まだ幼いヴィーが、どんな仕打ちを受けてきたのか、私は詳しく知らない。ヴィーも私に話すことは、なかった。でも、プロキオンの言葉や闘犬の本に書かれていた内容が、頭の中を駆け巡る。

 ヴィーは無理やり闘わせられて、躾という名の暴力を受けてきた。それが一度ではないのは、体中にある複数の傷を見れば明らかだ。

 

 ヴィーが、気にしていないはずがないのに……

 何も気にしてないように、笑ってくれるから…………


 そんなはずないのに……。



 オルビタから屋敷に来て、その後……ヴィーは一度もシェラタン家から出たことがない。屋敷のみんなは、父の言葉を忠実に守り、ヴィーを犬扱いすることはない。


 

 二人を連れてくる前に、ヴィーに話すべきだった。二人にも、ヴィーのことを理解してもらうべきだった。



 私は、ヴィーを傷つけたくなんかないのに。

 ――こんな悲しい笑顔なんて、見たくなかったのに。



 どうして、私はこうなんだろう。

 学園の生徒は頭がお花畑だと思っていたけど、私だって同じだ。ヴィーは生まれてから、ずっと閉じ込められ、犬だと扱われてきたのに。


 私は、それを知っていたのに……。

 少し考えれば、わかったはずなのに……。



「……ごめん、ヴィー。私は……私が、もっとヴィーの気持ちを考えていれば……」

「セーラが謝ることなんて、一つもない」

「あるよ、ヴィーを傷つけた。……ヴィー、私……ごめんね。私が悪かったの。私が……」

「謝ることなんてないよ。セーラに悪いところなんて、あるわけないだろ? セーラは、そのままでいいんだよ。俺は、今のセーラが好きだから、何も直す必要なんてない」

「ヴィー、これだけは忘れないで。私にとって、ヴィーは犬なんかじゃない。それに、私がヴィーのそばにいたいの。ヴィーにそばにいてほしいって、私が思っているの。だから、私のそばから離れようとしないで。お願いだから……私の手を離そうとしないで」


 ヴィーは、私の言葉に応えるように笑ってくれた。悲しそうな笑顔ではなく、優しさに満ちあふれた美しい笑顔だった。



 胸の奥が、熱くなる。



 こんなふうに優しく微笑むことのできる人を、私はヴィーより他には知らない。


 その笑顔に引き寄せられるように、そっと近寄って頬に触れる。ヴィーは、すぐに左手で私の手を優しく包む。そして、ヴィーが私にキスをした。ううん、私からしたのかもしれない。


 ――ただ、触れるだけの軽いキス。


 ほんの短い間のキスだった。初めて触れるヴィーの唇は驚くほど柔らかく、そして微かに……震えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ