ごめんなさい
どれくらい、経ったのだろう。少しずつ痛みが、引いてきた。息を整えようとした時、背中をさすっていた手が頭をなでた。
――そうだ。
この手は、……誰?
口を拭って、浄化魔法をかける。そして、ゆっくり顔を上げると……金色の瞳が目の中へ飛びこんできた。
――美しい金瞳。
そして、金瞳の彼は…………笑った。いままで見たこともないくらいに、優しい微笑みで。
その笑顔を見たら、目頭が熱くなった。でも、泣いてはいけない……そう思った。私が、泣いてはいけない。唇を嚙んで、涙をこらえた。口を開いたら、涙がこぼれてしまいそうで何も言えなかった。
……何も、できなかった。
魔法チートなのに、傷ついた人を助けることができなかった。ここに閉じ込められている人を、助けてあげることもできない。傷すら、治してあげることができない。
また、頭をなでられた。子どもをあやすような優しい感触に、体が震える。
どうして、彼をこんなところに閉じこめることができるのだろうか?
どうして、彼を無理やり闘わせることができるのだろうか?
どうして、彼を犬だと見下すことができるのだろうか?
どうして…………彼を……欠陥品なんて言えるのだろうか?
こんなにも、優しい手を持っているのに。こんなに虐げられていても、優しさを失うことのない強い心を持っているのに。
頭をなでていた手が頬に触れた時、焦げ付くような異臭が鼻をついた。彼の手に……白濁色の水疱があるのが見えた。
――火傷を負っている!
彼の手から逃げるように体が動いた瞬間、彼の目に悲しい影がよぎった。
――――違う!
彼の手から、逃げたんじゃない! そう言いたいのに、さっきまで酷使していた喉がいうことを聞いてくれない。声が出ない。それでも、違うと伝えたくて何度も首を振った。
そして、左手で「風」を呼ぶ。
冷たい風が左手に集まってくると、左手と右手を合わせて、両手に冷気を閉じこめるように力をこめる。
さっきかけた回復魔法は、たぶん弾かれたんだと思う。理由は、わからない。でも、犬と呼ばれる彼らには魔法をかけることができないのではないだろうか。
服従の印やリミッター解除とか、訳のわからないもののせいかもしれない。だから、きっと今、彼に回復魔法を使っても火傷を治すことはできない可能性が高い。また、弾かれるだけだ。
彼の手の火傷は……真皮まで損傷を受けていると思う。火傷には度数があり、外側のと内側の真皮、その下の皮下組織のどこまで損傷があるかによって度合いが変わる。おじいちゃんに教わったから、私は普通の人よりも医学の知識がある。
まだ医者じゃないけど、火傷をおった時の対処法ならわかる。とにかく、冷やすことが重要! 冷やすことで火傷が深くなるのを防ぎ、痛みを和らげることができる。
手が冷風に冷やされ、痛くなってくる。だけど、もう少し……。
魔法を強める。
――もっと、冷たい風を!
氷を握っているみたいに冷たくなって、手がしびれて感覚がなくなってきたところで魔法を解除する。すると、一瞬で「風」が霧散する。
冷めたくなった手を柵の隙間から入れ、彼の火傷に触れる。今度は、彼の体がピクッと反応した。気にせずに、両手で優しく患部を包む。
回復魔法をかけることができたら、すぐに治してあげられるのに……こんなことしかできない。魔法チートなんて、なんの意味もない。必要な時に使うことができない魔法なんて、意味ないじゃない!
また、泣きそうになる。
ゴメイザが言っていた柵の仕掛けとは、このことだろう。電気柵のようなものなのかもしれない。
……彼は、この仕掛けを知っていたはずだ。私をなでてくれていた時、かなりの痛みがあったはずだ。
それなのに――
体中にある傷が、彼がどんな仕打ちを受けているのかを私に教える。痩せた体が、彼がどんな生活を送っているのかを私に教える。綺麗な金瞳が開かないほどに腫れた目が、どれほどの強さで殴られたのかを私に教える。
彼は、ずっと酷いことをされ続けているのに……。
犬だと虐げられているのに……。
私は、檻に閉じこめている者たちと同じ側の人間なのに…………。
「ごめんなさい……」
少しかすれていたけど、声が出た。
口を開くと、我慢していた涙がこぼれ落ちた。最初の涙がこぼれてしまうと、あとはもう……とめどがなかった。我慢しようと思っても、せぐりあげてくる涙をどうすることもできなかった。
「ごめんなさい……」
それしか言えずに、何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
ごめんなさい、こんな場所に閉じこめて。
ごめんなさい、無理やり闘わせて。
ごめんなさい、こんな酷いことをして。
ごめんなさい、傷さえ治してあげられなくて。
「ごめんなさい……」
何度目かの謝罪をした時、私の手の上に温かい手が重なった。私よりもずっと高いその体温に、固まっていた体がほぐれていく。心が落ち着いていく。止まらなかった涙が、温かい手に拭われたみたいに消えていく……。
彼の優しい金瞳が、私を見ていた。
目が合うと、彼はまた微笑む。
――それに応えるように、私も笑った。
「私は……エ、セーラ。私の名前は、セーラ。あなたは?」
彼は少し困ったような顔をして、怪我をしていない手で首輪を軽く叩くと、首を振った。
『真偽はわかりませんが、”かませ犬”は声を出せないように声帯を切っていると聞いたことがあります』
アルフェラッツの言葉が、頭の中で響いた。
――彼は、声が出せない?
頭の中に、数日で知った闘犬の情報が頭を駆け巡る。その残酷さに、惨さに、人間のエゴに……また泣きそうになる。
耐えられないほどの悲しみと突き上げてくる怒りに、どうしていいのか分からない。自分で、自分の感情が制御できない。脳の中にブレーカーがあったとしたら、そろそろ落ちるのではないかと思った。自分の許容範囲を超えている。
不意に、魔法が作動した。
誰かが、扉を開けたのだろう。”身代わりくん”が応対している間に、彼に「また来るね。……ありがとう」と、ありったけの気持ちを込めて伝えた。
彼は私の言葉に応えるように、また笑った。それは、優しさに満ちあふれた……穏やかな笑顔だった。
――彼は、どうしてこんなに美しく微笑むことができるのだろう。




