え? 犬は、どこにいますか?
私は、signを舐めていた。
そうだった、signは頭がおかしい世界だった。普通に犬が飼えると思った私は、なんてバカだったのだろう。そんなはずがあるわけない。signに、常識なんてものはないのだから。
この世界に転生して、三年。
色々あったが……いま、一番動揺している。
私の目の前には、犬がいるらしい…………。
案内された檻には、刑務所の独居房に似た部屋が並んでいた。わすが四畳程度の部屋に一匹ずつ犬がいるという……だけど、私の目には、どう見ても人間にしか見えない。私の目が悪いのだろうか? いやいや、ちがう。何度まばたきしても、人間。
この世界で初めて見る、短い髪。
この世界で初めて見る、浅黒い肌。
この世界で初めて見る、赤い瞳。
この世界て初めて見る、黒い髪。
この世界で、初めて見る……鎖につながれた人。
彼らがいる部屋のドアには、金額が書かれた値札が立てかけられている。室内は丸見えで、プライバシーなんてどこにもない。冷たい石の上には何も敷かれておらず、ベッドも椅子も何もない。
――これは、何?
檻の人間がお父様と私に向けて、犬の説明をしている。
「この犬は、驚くべき体力を持っています。ですから、長時間の闘いになっても、最後まで力尽きることなく闘えます」
「この犬の特徴は、大きな体です。相手を押さえこむ力も強く、闘いを有利にできるはずです」
「この犬は賢く、戦闘能力も高いので、楽しい闘いをしてくれます」
「この犬は強靭な筋肉が自慢で、攻撃力は凄まじいです」
「この犬は、敏捷性が優れています。その瞬発力で、開始すぐに相手に攻撃を食らわせることができます」
「この犬は従順で、命令をよくききます。望む通りの闘いをします」
「この犬は……」
次々と止まらない説明は、たしかに耳に届いているのに……頭に入ってこない。言っていることが…………理解できない。
何の話をしているの?
頭の中は、完全に混乱していた。何一つ把握できていない状態だった。いや、理解したくないと頭の中に壁が出来ている。その壁に次々と男の言葉が当たり、頭の中でコツンコツンと音がする。その音が、自分を支えているものを一つずつ壊していく。
「お父様。やっぱり…………犬……は、いりません」
男が熱心に説明しているのを無視して、お父様に話しかける。でも、お父様からの返事が、なかなか返ってこない。
「お父様……」
少しの時間さえも待てずにお父様に近づき、すがるようにお父様のコートを掴んだ。
「エリース……。わかったから、少し外の空気を吸ってきなさい。話は後でしよう。アルフェラッツ、エリースを外に」
アルフェラッツに促され、犬と呼ばれる上半身裸の彼らの前を通り抜け、外へ出た。
日はまだ高く、その眩しさに思わず目を眇める。その眩しさから逃げるように目を閉じ、時間をかけてゆっくりと深呼吸をする。それを、数回繰り返す。
少しだけ気持ちが落ち着き、目をゆっくりと開ける。すると、様子を伺っていたであろうアルフェラッツが声をかけてきた。
「エリース様、大丈夫ですか?」
大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃないけど……。
「……どういうこと?……あれが、……犬なの?」
「はい、そうです」
「……本当に?」
「はい」
「……闘うって、どういうこと?」
「闘犬です。このアルビタでは、年に一度の闘犬大会が開催されます」
「……闘犬?」
「犬同士を戦わせることです。血の闘いと呼ぶ者もいますね」
手が、少し震えていた。その震えを隠すように握りしめると、感情を抑えるように静かに言った。
「……なんのために?」
「エリース様?」
「アルフェラッツ、なんのために……そんなことをするの?」
アルフェラッツは関係ないのに、つい咎めるような言い方になってしまう。
「闘犬大会は、成人になった貴族のご子息・ご息女の皆様が主催し、自分たちの犬を出場させます。そのため、貴族のご子息・ご息女は皆、十六歳になる前に犬を購入します。そして、トーナメント方式の闘犬大会で勝ち残った優勝者は、自分の望む相手に結婚の申し込みをすることができるのです」
「え? 結婚の申し込み? ……それだけのために?」
「エリース様。望む相手に結婚の申し込みができるということは、とても重要なことです」
「どうして?」
「シェラタン家は公爵ですから、エリース様が結婚を申し込めない相手は王族の方くらいですが、爵位の低い家のご子息の方は違います。結婚には身分制度が深く関係していますから、自分より爵位の高い相手に申し込むことはできません。ですが、闘犬で勝つことができれば、自分より高い爵位の相手にも、爵位を継ぐ嫡男の方にも、結婚の申し込みをすることができます。それに、結婚の持参金も賞金から出すことができます」
「……賞金?」
「闘犬は、賭博と娯楽という一面もありますから」
「……でも、必ず結婚できるわけじゃないんだよね? ただ……申し込めるだけなんだよね?」
「闘犬がなければ、申し込むことすらできません。それに、闘犬が行われるのは十六歳。結婚が許されるのは、十八歳。その間に、結婚の承認を得られるよう時間の猶予が与えられているのです」
説明してもらっているのに、説明されればされるほど迷宮に迷い込んでいくようだった。
闘犬……血の闘い? こんなこと……あっていいはずかない。彼らは、犬という名の奴隷だ。人間扱いされず……値札をつけられ、闘わせられる。
――勝敗は?
……まさか、どちらかが死ぬまでとかじゃないよね? そんなこと……ないよね?
「闘犬の勝敗は、どうやっ……」
その時、一陣の風が吹いた。
血のにおいが混じった……風。
……足が、勝手に動く。風の流れにのるように、ゆっくりと足が前に出る。
進むにつれ、生ぬるい風の流れを感じて、奥の建物の扉が開いていることを教えてくれる。その風が、まるで私を呼んでいるようだった。
アルフェラッツが、何か言っている。それを手で制し、足を進める。風で、髪が揺れる。目に見えない風が、何かを教えてくれている。
光あふれる外から扉の中に入ると、一瞬、視界が暗くなり、その暗さに目が慣れるまで時間がかかった。
目が慣れた時、
目の前にあったのは……
…………これまでに見たこともない、光景だった。
私は、息を呑んだまま立ち尽くすことしかできなかった。口が乾いて、体のどこからも声は出てこなかった。目に映るものが現実とは思えなくて、信じられなくて……ただ自分の異常な動悸を感じていた。
――人がいた。
さっき見た犬と呼ばれていた人たちと同じ……短い髪、赤い瞳、浅黒い肌、黒い髪、鎖……
でも、ちがう。
彼らとは…………ちがう。
――血の、においがする。
彼らは……上半身裸で、
痩せこけていて、傷だらけで、皮膚が引き裂かれていて…………
血が……それなのに……傷の治療すら……されていない。
その傷は直視できないほどひどく……それなのに、何も。
――血の、においがする。
これほどの傷なのに……
こんなことがあって、いいはずがない。
怒りで、恐怖で、悲しみで、……今まで感じたことのない感情が、一気に身体中を暴風のように駆けめぐるのを感じた。歯の一枚一枚が、カチカチと打ち合うのを止めることができない。
一人と、目が合った。ううん、目が合った気がしただけだった。うまく歩けない様子から、その人は盲目だと思われた。彼は……片方の耳は完全にちぎれ、もう片方は腐って腐敗していた。身体中が傷だらけで、生きているのが不思議なくらいの状態だった。
彼は、もう長くはない。自分の直感に身体中の血液が逆流するほどの恐怖が襲ってきて、震えがさらにひどくなる。見ていられなくて、目を逸らそうとした時、彼の手を一人の少年が握っていることに気がついた。たぶん、エリースと同じくらいの年、十四、五歳。
その少年が、私を見た。
目が合った瞬間、息ができなくなった。
まだ幼さの残る彼の片目は開かないほどに腫れあがっていた。そして、残っているもう片方の目が――金色に輝いていた。その瞳がとてもキレイで……もう、だめだった。
喉が熱い塊にふさがれたみたいに、息を吸うことも吐くこともできなくなった。でも、その状態が長く続くわけもなく……耐えきれなくなって口を開いた瞬間、暗闇が音もなく広がり、目の前に迫ってきた。
開いた口から悲鳴を上げるのと同時に、私は…………意識を失った。
すべてが遠のいていく中で、ただただ胸の苦しみだけを感じていた。




