試練
全身をずたずたに切り裂かれるような痛みがずっと続いている。
真っ暗な中、どす黒い汚泥の中に沈んでいる感覚。
私は…………どうしてこんなところにいるんだっけ。
私は…………誰だっけ?
考えようにも、頭の中にごちゃごちゃとした声が反響していて、思考がまとまらない。
どれほど長い間、たゆたっていただろう。
騒音の中に暖かい声が聞こえた。
「シア」
お母さんの声がする。
そっか、私はシアだ。
だけどおかしいな。お母さんはずっと前に死んでしまったのに。
「シア、起きて」
お母さん、起きられないよ。この泥が邪魔なの。
「起きなさい、シア」
お母さんの声が急に厳しくなる。
怒っているときのお母さんだ。
慌てて藻掻いて、どことも分からない水面を目指す。
突き出した手が空を掻いて、ようやく水面に出た。
「おお、本当に帰ってきた。誰ぞの手助けでもあったか」
…………誰?
人が空を飛んでいる。違う、あれは竜?
人間の体だけど、腕は羽で脚も鳥みたいだ。
いや本当に誰?
「きゃはは、おれを見て誰と尋ねるか。度胸のある娘よ。これは一族に迎え入れるに値するな」
その竜は訳の分からないことを言いながらばさばさと飛び回っている。
「あのう、ここから出してもらえませんか?」
「それはできない。ここから出るのはお前の力だ」
私は、むう、と口を尖らせる。あの竜は見ているだけで手助けしてくれないらしい。
「これからたくさんの苦しみがお前を襲う。だが、お前はそれに耐えて思い出さなければならない」
思い出す…………?
「お前を愛する者の存在を」
そんなのもう知ってる。お母さんだ。
「いいや、他にもいるはずだ。今を生きて、お前を大切に思っている者がな」
どうだろうか。分からない。
私はぷかぷか浮かびながら、一生懸命思い出そうとした。
「さあ、来るぞ、お前の試練が。精々死ぬな!」
竜が飛び去っていくと、私の身体を恐ろしいほどの轟音がつんざいた。
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深い心の底で、嫌な記憶が呼び覚まされる。
「シア・アンバー。お前にはこの学院から出ていってもらう」
どうして。
「明日の朝には追い出す。貴様のような盗人に一晩でも寝床を与えることに感謝しろ」
嫌だ。
「『歌うたい』としても出来が悪く、その上盗みまで働くとは。やはり貧民街育ちの孤児など迎え入れるべきではなかった」
そんなことを言わないで。
「お前が歌うだけで、竜たちは暴れ、狂ってしまう。お前は呪われているのだ。シア・アンバー」
学長の声が終われば、次はアメリの声がする。
「無様ね。いい気味だわ」
やめて。
「気安く名前を呼ばないでちょうだい。性根の汚さが伝染るじゃない」
うるさい。
「盗人は誰だってそう言うわね。…………でも、清々するわ。無能で、明るいばっかりで、ウザったくて仕方なかったもの」
やめろ。
「誰も庇ってくれなかったんでしょ? 随分と嫌われたものね」
やめろ!
「私に楯突くの? この、侯爵令嬢の私に? あ、ごめんなさいね。貧民街育ちのあなたには貴族のことなんて分からないものね」
やめろ!!
「ま、精々泥でも啜って生き延びたら? 悲劇の主人公気取りで死ぬより、こっちのほうが醜くてあなたにはお似合いよ!」
ああ、そうだ。
だから私は死のうと思ったんだ。
アメリの思い通りになるのが嫌だったから。
本当に、最悪な奴だった。
お母さんのいない世界には、学長やアメリみたいな人間ばかりいる。
孤児として暮らしていた頃も、そんな大人に好き勝手されてきた。
誰も手を差し伸べてくれる人なんていない。
ああ、もう嫌だな。
なんで私が頑張らなきゃいけないんだろう。
疲れちゃった。
そんなことを考えていると、折角浮かんでいた身体がどんどんと沈んでいく。だけど、それも悪くないかなと思った。そのほうが、きっと静かだから。
何かが、額に当たる。
これは…………。
「…………いちごだ」
何故……私はこれをいちごだと知っているんだろう。
でも、いちごだと分かるし、味だって覚えている。
ネフェルリリィさんが教えてくれたんだ。
「そうだ、ネフェルリリィさんのことを忘れてた! 優しい人で、何でも教えてくれるんだ」
それに、他のお城の人たちも、私に優しく声をかけてくれるんだ。どうして忘れていたんだろう。
あれ、いつネフェルリリィさんたちと出会ったんだっけ。
何か一番大切なことを忘れている。
すると、上の方に光が見えた。
夜空に輝く一等星のような光。
きっとあれだ。あれが、私の忘れているものだ。
「ねえ!」
手を伸ばす。
泥がうねり、邪魔をする。
「あなたを探しているの!」
私を引き摺り込んでしまおうと、何かが足を掴んでくる。
それでも。
「私、あなたに会いたいの!」
「オーウェン!!」
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バッと起き上がる。
ふかふかの布団。そして、間髪入れず横から衝撃が来る。
「………………オーウェン?」
「…………起きた」
オーウェンが抱きついている。
恐る恐る引き剥がそうとして、彼が泣いていることに気がついた。
「オーウェン」
「シアが、起きた」
「はい、おはようございます」
どうしたのだろうか、と首を傾げて、ふと思い出す。身体の痛みと、未だに耳に残る轟音を。
そうか、私はお披露目会でアメリに……………。
「オーウェン」
「………………」
「私は、元気です」
彼を優しく抱き締め返す。
オーウェンは、吐き出すように言った。
「ごめん、僕が─────」
「いいえ。気にすることはありません。こうして、二人とも生きているんですから」
そう言って彼の頭を撫でる。
すると、その手を掴まれ、鼻先がくっつくかと思うほどに近づかれた。
泣き腫らした、いつもより真剣な顔だ。
彼は言った。
「シア、僕と、結婚してくれ」
「え」
結婚。
あまりの驚きに私は再びひっくり返り────気絶した。




