先手
「あら、こんなところで会うなんて偶然ね」
「そうですね。お母様」
葵のお母さんは落ち着きある様子で言った。
それに対して桜木は先ほどまでの笑顔は何処にいったのか、緊張した面持ちで返事を返す。
「隣にいるのは葵の友達かしら?」
「はい、私の友達の隅風くんです」
葵のお母さんは、何かを見定めるような目でこちらを見てくる。
僕らを包む空気は圧倒的に重く、先ほどまでの長閑な空気は何処かにいき、僕達を一瞬で現実に引き戻した。
「初めまして、葵さんの友達をさせてもらっている、隅風駿人です。葵さんにはいつもお世話になっています」
「こちらこそ、初めまして、葵の母の桜木綾子です。息子からあなたのことは聞き及んでいます。娘がお世話になっているようで、ありがとうございます」
葵のお母さんは、そう言って軽くこちらに礼をする。
流石は大企業の社長の妻と言うところであろうか、この短いやり取りだったが、その動作や姿勢、声色や表情など洗練されており、相手が一流だと思わせられる。
それに綾子さんは息子から聞き及んだと言った。
娘ではなく僕達とは表面上は関わりのないはずの息子から聞いたといった。
それは僕達のことを密かに監視していたと考えられるような言い方だ。
そんなことを知られるのはあまりいいことではないはず、それなのにいったのは、僕が監視を見破り、竜馬さんと接触したことを知っているから、それを知らなくて僕を試す為なのか。
僕は一瞬、桜木を見る。
桜木は特に驚いている様子はなく、ただただ緊張した面持ちで綾子さんのことを見ている。
様子から見るに、綾子さんの言葉の違和感には気がついていない可能性が高い。
さて、どうするものか。
僕の深読みで、あちらがミスったという可能性もありえる。
竜馬さんともう少し情報共有しておくべきだったと後悔するが、即座に思考を切り替え対応する。
「いえいえ、友達として互いに助け合っているので、お礼を言われるまでのことはしていません」
何処まら知られているのかは分からない為、僕はこれまで一貫してやってきた、害を及ぼすつもりはないという事を伝えるようにいった。
「葵は良い友達に巡り会えたようで嬉しいです」
綾子さんはほんの一瞬の思考の後、静かに喜ぶような声で言う。
お母さんからそのようなことを言ってくれたことが嬉しいのか、先ほどの緊張した面持ちが解されている。
それに対して僕は、「いえいえ」と言った表情をするが、綾子さんとの距離感は仕事をしている時のようなものだったので、警戒を緩めることはできなかった。
「お母様はどのような要件できたのでしょうか?」
軽い挨拶も終わり、桜木が本題を切り出す。
「今回は、葵のテストの結果と今後の予定について話に来たの」
「テストの結果、今日返されたんでしょ」と付け加えて言う綾子さん。
その発言に桜木は動揺はするが、焦りはなかった。
まあ、結果自体は文句のない結果を出しているので、焦ることはない。
ただ、心の準備が出来ていなかったと言った感じだ。
「本来なら葵の友達である隅風くんをもてなすべきかもしれないけど、私の立場上、多くの時間を取ることが出来ないの。大したおもてなしも出来なくてごめんない」
「事情は理解していますので、その気持ちだけで十分です」
「賢い子ね」
「僕はまだまだですよ」
桜木の件で色々と関わっていることもあり、信用に足る人物かどうか、見定めることもしているはずなので、下手な対応はできず、一つ一つの言動にも細心の注意を払ってこたえる。
こう言った経験をあまりしていない身としては、かなり疲れる。
「本来は葵の部屋で聞く予定でしたが、時間もありませんし、数分で終わることなので、ここで見ることにしましょう」
「はい、わかりました」
桜木はそう言って、カバンからテストの結果を取り出すためにカバンの中を探る。
その間も僕は思考を働かせる。
今、考えていることは部外者である僕がいる中で今後に関わる話をしようとしていることだ。
このような話は関係者だけでしたいはずだ。
そうなると、部外者の僕はここから立ち去るべきだが、今回の件に関しては部外者だと断言できる立ち位置にいない。
何処まで知られているかは分からないが、少なくとも桜木の近くに助言をする人がいることは確実にわかっているはずだ。
綾子さん視点では、その人物の可能性として僕も入っているはず、その上でこの話を振る理由を考える。
聞かれたくない話なら、こちらが勝手に退くように何かしらのアクションをする可能性が高い。
だが今回はそれらしいアクションは一つもない。
ここで竜馬さんから聞いた、綾子さんの特徴を思い出す。
綾子さんは、合理的で強みを前面に出した、隙のない交渉と一歩でも下がれば負ける心理戦が得意な人だということ。
そのことを踏まえた上で、綾子さんがこのタイミングで動く理由は、桜木のスケジュールについてか。
そこまで思いつくと一つの仮説が生まれる。
綾子さんは桜木のスケジュールに関して、既定路線に戻そうとしているのではないか。
これまでのことを振り返る。
今回のテスト期間までのスケジュール変更の提案が通ったのには大きく分けて二つある。
一つはスケジュール自体がしっかりと計画されており、受け入れやすかったこと。
もう一つはどちらに転んでも桜木家においては良かったことだ。
今回大切になってくるのは後者の考え方。
桜木家にとって、今回の提案が失敗したとしても、桜木が抵抗なくこちらの指示に従ってくれさえすれば取り返しは出来る上に、今後そう言った面での管理を緩和することができる。
逆に上手くいったら、1番の目的である、桜木の成長に繋がるのでいい。
結果だけを考えるなら、これでもいいかもしれないが、現実は結果だけを見てはいけない。その次にどうするかまでを考えた上で、問題がなければいけない。
その上で、失敗した時については、どうにか出来るので問題はない。
問題があるのは成功した場合だ。
もし、桜木家が葵のことをある程度、制御出来る状態にしておきたいなら、今回のような流れは早めに断ち切って起きたいはずだ。
桜木が成長するのは、あくまで目的達成の為の条件でしかない。
成功したからと言って、少しずつ自由にやらせていったら最終的な目標が達成できない事態になるのは避けたい。
そうならないためにも、今回の成功で浮かれている所を仕掛けて、次の主導権を握ろうとするのは、非常に合理的で有効な手段だ。
綾子さんの立場はそれをするのに非常に有利な立場にいる。
その強みを前面に活かしながら、こちらの勉強方法をよく分析し、対策をしてきているのであると考えるなら、これは非常にまずい展開だ。
こちらが前回武器にした合理性を活用してくるのであれば、対抗する手段が殆どない。
もし、その合理性の矛盾しているところを指摘しても、それはその合理性の盾にして、やってきた僕達において、自分達でその盾を壊しているようなもの。
盾がなくなれば倒すのは簡単だ。
つまり、もし綾子さんがそのことも考えた上で行動に移しているのであれば、その強みを最大限に活かされ僕達は非常に不利な立場にいることになる。
取り出された成績表は綾子さんの手に渡る。
だが、まだ不利であって詰みではない。
もし、実行するのであれば桜木本人にとっては不意打ちに近いものになる。
本人の気持ちも成長においては大切だ。だからこそ、最小限の影響に留めようとしてくるはず。
そのためには本人は勿論、協力している人物も納得させることが出来れば、不満といったこともより小さくすることができる。
だからこそ、その協力者候補である僕の前でこのような話をすることはありなのだ。
僕達のどちらかが一歩でも下がれば負ける、その状況の下地はすでにされているであろう。
成績を見終わった綾子さんは微笑を浮かべいった。
「よく頑張りましたね。これなら考えてきた事もできそうです」




