あわぶくはっぴーらんど
深夜1時、3番ルームの内線が鳴る。眠りかけていた私は慌てて受話器を取った。
「まりんさん、今日最後のお客さんきたよ」
「はぁ~い」
今日は4人のお客の相手をした。疲れているし、もう眠い。めんどうな客じゃないといいな。あくびを噛み殺したあとドアを開けると、そこには脱色したようなミルクティー色の髪の、やたら目がキラキラした若い男の子が立っていた。
「こんばんは泡姫どの。僕は海から来た王子様さ。気軽に王子ってよんでくれ」
私は一瞬、動きを止めた。うそでしょ……。
(最後にやっっべ~~~の、きちゃったじゃん……はぁ~~……)
職業柄いろんなぶっとんだ客は見るが、この方面にぶっとんでいるのは初めてだった。しかし、仕事はすでにはじまっている。から、テキトーにその設定に乗っかる。
「えー? すごい! 王子様に来てもらえて光栄ですぅ」
「君の名前は?」
「まりんです」
「そうか、僕にぴったりのお姫様だね」
「あら、嬉しいですぅ」
手をつないで、部屋の中に案内する。薄いその手は冷たかった。
しかしお風呂にどうどうたまる湯を見て、王子様は顔をしかめた。
「こんな熱いお湯じゃ、僕の肌が駄目になってしまうよ」
「それなら、ぬるめますね。ぴったりのお湯加減になったら入りましょ」
「それに、僕は真水はダメなんだ。体が痛くなるから……」
服を脱がせて、私はやっぱりな、と心の中でうなずいた。王子のがりがりに痩せた身体には、リスカをはじめとした無数の傷や痣があった。
(年季の入ったメンヘラ虚言癖……下手に刺激しないで、とにかく怒らせないように気をつけなきゃ)
気が引き締まる思いで、私はにっこり笑みをうかべた。
「あら、それなら入浴剤を入れましょうか。ほら、好きなのをどうぞ」
馴染みの客だけに出す、ちょっといい入浴剤の籠を差し出すと、彼は嬉しそうにバスソルトの袋を手に取った。
「これは塩だね?」
「そうですよぉ。これを入れれば、きっと王子のお肌にも合いますわぁ」
「そうかそうか」
さらさらと封を切って、ハーブと一緒に砕かれた細かな塩が、お湯の中に溶けていく。それを見ながら、彼はにこにこ言った。
「うん、波の香りがする――。実は僕は、海の底から来たのさ」
んなわけあるかい。と言うツッコミ役はここにはいない。眠すぎて、もう私の頭の中にもいない。
「そうなんですね!実は王子様は……人魚の王子様、ってことですかぁ?!」
すると彼は目を見ひらいた。
「君、よくわかったねぇ」
「うふふふ、人間とは違うオーラを感じましたわ」
「やっぱりか」
「人魚の王子には、地上はなにかと過ごしにくい事でしょう。今日はごゆるりとお寛ぎなさいませ」
湯舟の中で、王子の身体に手をのばす。経験豊富なメンヘラ男子かとおもいきや、肌に触れると彼はびくっと体を震わせた。
「大丈夫ですか? 嫌な事はしませんから、安心してください」
「ん……うん」
先ほどの自信たっぷりの饒舌さはどこへやら、彼はわずかに頬を赤くして、ただただ受け身だった。傷をかくしたいのか、時々身じろぐ。
「大丈夫? 痛いところが、ありますか?」
彼は首を振った。
「僕の身体……その、人にない模様が、あるから」
詰まりながら言うその目の、キラキラした光が弱まる。腕に残る縞々模様を見て、私はふと言った。
「ニモみたいです。カクレクマノミの」
すると彼は少し安心したようにふっと笑った。
「そう。クマノミと同じ模様なんだ……」
そっとその体の、柔らかな私的領域に触れる。
時々その唇がわずかに開いて、吐息が漏れる。するとそれを抑えるように、ぎゅっと唇が噛みしめられる。
彼がわずかにみじろぐたびに、ぬるい湯にさざ波が立つ。こわばるその体をなだめるように、呼吸を合わせて肌を密着させる。
2つの違う体が、ぴたりと密着して熱を分け合う。
中身に何が詰まっていようと、相いれない相手であろうと、物質である肌は正直だ。触れれば相手の熱がうつり、同じ温度に変わっていく。
「ん……ぁ……」
赤ちゃんを撫でるように、そっと大事に抱きしめる。私の腕の中で、彼の身体から力がゆっくりと抜けていくのがわかった。その表情は人魚というより、臆病なあざらしの子どもみたいだった。
(それなりに……ひどい目に、あってきたんだろうな)
そんな彼に、私はほの暗い親しみを感じた。同じような、苦しい境遇にある者同士は、たがいに親近感を覚えるものである。
自分を王子様だと思い込む彼も、こんな場所で長年働いている私も、どちらも人間としての規範からはずれ、狂っているのは同じだから――。
結局わたしたちは、時間いっぱいお風呂ですごした。
「……まりんはなぜ、このような仕事をしているんだ」
私を抱きしめる王子の、すこし気だるげな、ものうい声。こうして湯舟に浸かっていると、本当に温かい海をただよっているようだ。
「んー、お風呂が好きなので、ふふ」
「そうか、僕もだ」
「王子は何で、陸にあがってきたんですか」
「……王子だからな。人間の国で人間のふりをする修行をしてから、海の国に戻らなくちゃならないんだ」
「それは大変な修行ですねぇ」
王子は俯くように、うなずいた。
「そうだ。皆僕を捕まえて、閉じ込めようとするから難儀だ……。今日も、逃げてきたんだ。君が言うように、人魚のオーラが出ていて、おかしな人を惹きつけてしまうのかもしれない」
「たしかに、わかる人にはわかるのかも」
「逃げようとすると、頭に輪っかを嵌められて、電気を流されるんだ……そしたら前の事を忘れちゃって、本当の自分を思い出すまでに時間がかかるんだ」
どこまで嘘か本当かわからないが、話が暗い方向に向かいそうなので、私は話題を変えた。
「海の国って、どんな場所なんですか?」
すると彼は目を閉じて、ほうと息をついた。
「海の底は暖かくて、人間たちの知らない白浜があるんだ。そこに、貝殻でできたお城が建っているのさ。光の中で、魚もクラゲも亀も、みんな幸せに暮らしている」
「とっても素敵な場所……。私も見てみたいなぁ」
夢見心地で私はつぶやいた。そんな国が本当にあったら、いいのに。王子は縞模様の傷のある手で私を撫でた。
「君は優しいね」
ぬるりと、もう片方の手が私の腰に回る。その感触はひらひらしていて、まるで人間の腕じゃないみたいだ。てらてらした、鱗に触れたような……。私ははっとして振り向いた。わずかに水色の、透き通ったひれが見えたような気がしたが――そこにあるのは細い彼の手だった。
「えっ」
驚く私に、彼はしーっと指を唇にあてて微笑んだ。
「見えたかな……?誰にも言わないでおくれよ」
「待って、え……?」
彼はもしかして、本当に……いやいや。ありえない。それよりもうすぐ時間だ。彼を風呂から出さないと。
「君だけに、人魚の国の行き方を教えてあげる……」
彼が耳元で、ひそひそとつぶやいた。海辺の町の名前。私は話半分にそれを聞いて、うなずいた。
「ありがとうございます、王子……。お飲み物を、お部屋に用意しますから」
私は今しがた見た光景をいったん保留にして、一足先にお風呂から上がった。素早くいつものルーティンでお客様お帰りの支度をしていると、内線がプルルと鳴った。
「マリンさん、そこのお客様に迎えがきてます。今すぐ引き渡してください」
「えっ、迎えってどういう?」
「……看護師です。いま部屋の前で待機してますから」
逃げ出してきたんだ。王子がそう言っていたのは、本当だったのか。内線を切って、バクバクする心臓で、こっそり覗き穴から外を見る。
(うっわ、やば。プロレスラー!? 本当に看護師!?)
私のドアの前には、王子を三人くらいはいっぺんに抑え込めそうな屈強な男性二人が立って、睨みをきかせていた。こんな夜中に脱走者を追いかけさせられて、気が立っている表情。そういえば、王子の身体には新しい傷もあった。
がりがりの身体に、さっき垣間見た水色のひれ。そして人魚の国への行き方――。私の頭の中で、それらがぐるぐる渦巻く。
嘘でも本当でも、なんでもいい。今、彼を助けないと。
私は考えるより先に、バタンと風呂場のドアを開けて王子をせかした。
「王子、急いで逃げて! 看護師がここにきてる」
彼を浴槽から上げて拭いて、高速で服を着せかける。
「待って、なんで、ここに……?」
「わかんない、とにかく窓から逃げて、電車に乗りな!しばらく時間稼いであげるから」
「わ、わかった」
音を立てないように窓をあけて、彼は枠に足を掛けた。外は細い雨が降っていた。
「気を付けてね。これで、海辺の町まで逃げな」
さきほど彼から受け取った万札数枚をポケットにねじ込んで、私は彼を見送った。
「ありがとう。まりん姫。君に――いいことがありますように」
そう言って微笑んで、彼は窓の外、夜の町に消えていった。その後ろ姿は、雨の中でかすかに水色の燐光を放っているような気がした。
その後、数年たった。彼からの消息はもちろんない。
けれど、『いいこと』はあった。私は目標額を想定より早く貯めて、夜を上がる事ができたのだ。店のロッカーの荷物をまとめながら、私は考えた。
(あの、王子様……今、生きてるのかな)
もし、彼がただの患者だとしたら、あのあと連れ戻されたはず。私は前に気になって、ここから3キロ圏内にある精神病棟に問い合わせてみた事がある。しかしそんな患者は今も昔もいないと言われて、終わった。彼の消息は、これでもう調べようがない。
(もしかしたら、逃げおおせた可能性がある、ってことだよね……?)
どこかで野垂れ死にしているのか。それとも……海辺の町まで逃げたのか。その時、私の耳元で、声が甦った。
『君にだけに、人魚の国への行き方を教えてあげる――。A町のF海岸まで行って、岩陰に住んでいる白い亀を探すんだ……』
私はバタンとロッカーを閉めて、荷物を詰めたバッグを背負った。この店を出たら、私の次の予定はもうなにもない。
(しばらく、のんびり過ごそうかと思ったけれど……)
海辺の町にいって、彼の言っていた事を確かめてみるのも悪くないかもしれない。
狂った客の言う事を真に受けるなんて、酔狂な行為だろう。けれど私はまた、彼に会いたいと思っていた。
お風呂の中でうなだれる彼ではなくて――白い砂浜の上で楽し気に泳ぎ回る、彼に。 駅までの道を歩く足取りは、まるで泡のようにふわふわしていて軽い。私もとうとう、彼同様に狂ってしまったのかもしれない。
けれど、それでいいじゃないか。だって私も、見てみたいのだ。
光の中、だれもが幸せに暮らす場所を。
嘘とあぶくであふれるこの店から出て、私は今こそ、その幸せの国を探しにいくのだ。
お読みいただき、ありがとうございました!




