第四話:解放
【ロスグッド王国 ロスグッド山】
「この辺りでいいか」
レインズの従者である男は、ロスグッド山の中腹、登山道から少し離れた茂みにいた。背中には辛うじて命を繫ぎ止めているだけで最早虫の息のアリーシャが、腕の中にはアリーシャほどではないもののそれなりのケガをして気を失ったままのナーノが包まれていた。二人とも、一切の抵抗の姿勢を見せず、ただその男の思うがままに運ばれている。
気を失っているナーノは兎も角、アリーシャに関しては、辛うじて眼光を光らせているものの、最早ほとんど何も見えておらず、その折れた鼻では何の臭いも感じられない。手指の先から足趾の先までピクリとも動かせず、どうする事も出来なかった。
「ここならそう簡単に見つかる事も無いだろう。せめてもの情けで生き埋めだけはしないでおいてやろう」
ドサリと乱雑に地面に投げ捨てられ、二人は地面に転がる。もはやうめき声一つ上げることなく無情に地面に叩きつけられる事しか出来ない。そんな彼女たちに一瞥をくれると、その従者の男は来た道を引き返しアッという馬に姿が見えなくなった。
……行っちゃった。ハハハ……辛うじて生きてはいるけど、もう無理そうね。でもこれって、魔女裁判史上初の生還者として数えてもいいのかしら? だとしたらラッキー……なのかな?
ネガティブ思考よりもポジティブ思考を、をモットーとする彼女ならではの思考回路だろう。今まさに命の灯が消えかけようとしている時の思考とは到底思えないほどの楽観的で前向きな発言は、彼女に降りかかる死の恐怖を幾分か和らげるのに貢献する。しかし、それにしても彼女の生命力は大したものだ。これほどの大怪我でどうしてまだこれだけ意識が保てているのだろうか、と不思議で仕方ない。これが娘を思う母親の心なのだろうか? その真偽は不明だが、少なくともそう思わせてくれるほどに彼女が娘であるナーノを愛していたのは事実。
しかし、そのナーノも恐らくこのままこの地で共に果てる事になるだろう。そう思ったとたん、アリーシャの目からとめどなく涙が流れる。指先一つ動かせない今の身体ではどう頑張っても涙を拭えないが、最早ほとんど見えていない目では涙があろうがなかろうが問題はない。しかし、幾多数多の拷問を受けて弱音一つ吐かなかった彼女が、娘の事を思うとこれほどまでに涙が流れるのだ。
ナーノはなんと幸せな子なのだろうか。これほどの愛情を一身に受けて育った彼女はきっと幸せだったのだろう。気を失っているものの、こうして近くにいる事もきっと心のどこかでわかっているのだろう。だからこそ、いつの間にか表情を変化させ、これだけの安堵の表情で気を失っているのだろう。
そんな時、二人を取り囲むように“何か”が足音も無く駆け寄った。アリーシャの目には見えないが、多分そんな気がする。足音はしないものの、10人くらい人がいて自分とナーノをグルリと取り囲んでいるように見える。そして、遠くの方でパチパチと薪が弾けるような音とその音に合わせて炎が揺らめく様な熱風が二人の身体を包み込む。次に二人を包んだのは匂いだ。つい先ほどまで鼻がつぶれていたお陰か何の臭いも分からなかったが、先程の熱風が届いていこう、微かながらも匂いが感じられる。それも、酒の臭いだ。幻覚或いは幻聴の類なのだろうか? 薪をくべた炎に酒にたくさんの人。まるでどこかの宴のど真中に放り出されたかのような感覚だ。
一体これは何なんだろうか? 少し考えたのち、アリーシャは多分これだろう、という仮定に行きついた。
これが“ワルプルギスの夜”ってやつかな? 裁判中に今夜だって言ってたし。だとしたら、私が魔女って言うのも強ち間違ってなかったのかな? それとも、魔女狩りされた人のところに現れるみたいな感じなのかな? ……ああ、だめだ。眠くなってきた。
炎の暖かさと裂けの臭いと宴の陽気さに誘われて、彼女は思わず船を漕ぎそうになる。それはつまり、そろそろ時間が来たという事だ。
アリーシャは動かないはずの両手を最後の気力を振り絞る事で強引に動かす。今にも地面に倒れ落ちそうな震える手をナーノの方を伸ばしつつ、彼女は消えるような微かな声を掛ける。
「もう終わりかぁ。だとしたら……ナーノ。いままで……ありがとう……。最後に……一回……一回だけで……いいの……抱っこを……させ……」
完.




