62 変装
翌日、学校から帰ってきて俺の着換えの手伝いをしてくれた直後、べルークは母に呼ばれて俺の部屋から出て行った。
すぐに戻って来るだろうと思っていたのに、三十分以上経っても姿を現さない。どうしたんだろう? 俺が部屋のドアを開けて廊下に出ようとすると、そこにはイズミンが立っていた。
「イズミン、何か用か?」
「はい。ベスタールさんとバーミントさんが執務室に来て欲しいそうですよ」
あの二人がイズミンを使いに寄こすなんて、どうしたんだろう。何か変だな。
「今日は皆さん、明日の準備でとても忙しそうなので、私がお兄様を呼んできますと言ったんです」
明日の準備?
「それでべルークも忙しいのか?」
「そうですよ。明日は躾教室のクリステラ先生の所へ伺いますからね、マナーの勉強をしているんですよ。我が家の恥にならないようにって」
イズミンの説明に驚いた。べルークにマナーの手ほどきだと? あいつはカスムーク氏にみっちり仕込まれて、十歳の頃には完璧なマナーを身に付けていたぞ。それなのになんで今更・・・
俺の疑問符を浮べた表情に気付いたイズミンがこう言った。
「私もよくわかりませんが、なんかべルークに変な癖がついている所があるんですって。そこを矯正するそうですよ」
「へぇ〜」
そんな癖あったかな?
俺がイズミンとそんな話をしながら階段を降りて行くと、ちょうどバーミントが迎えにくるところだった。
「イズミン様、ありがとうございました」
「いいえ、お兄様をよろしく。格好よくして下さいね。楽しみに待ってますので」
「あ~、格好よくではなく、その反対の路線でいくつもりなんですよ、お嬢様」
「えーっ! つまんない!」
「ははは!」
バーミントとイズミンの会話がさっぱりわからない。今日、我が家は何か変な気がする。俺だけが除け者にされているというか・・・
執務室に入ると、中ではベスタールが待っていた。
「わざわさわこちらまで足をお運び頂きまして、ありがとうございます。ユーリ様」
ベスタールが言った。
「いや、それは別にいいんだけど、何の用かな?」
「明日、クリステラ先生の所へ行かれる際のお支度の下準備です」
「えっ?! 何故前日に?! 躾の先生の所へ行くのって、そんなに準備がいるものなの?」
べルークといい、躾教室へ行くのってそんなに大変な事なのか? 知らなかった。
ところが、バーミントから手渡された衣装は、スーツではなく我が家の侍従服だった。
「私の物ですが一度着てみてください。サイズを調整いたしますので」
バーミントの言葉に、俺の頭の中に再び?マークが飛び跳ねた。するとベスタールがこう言った。
「明日はユーリ様には奥様の侍従の振りをしてクリステル先生の所へ行って頂きます。そして私が護衛役をいたします。ご承知頂けますか?」
そうか、なるほどね。ようやくみんなの意図する事が飲み込めた。
妹の習い事に兄が付いていて行くのは不自然だから、母の侍従の振りをしろと言うのだな。そこまで考えなかったな。まだまだ俺は考えが足りない子供だな。
ん? じゃ、べルークはどうするんだろう? 彼も母の侍従の振りをするのか? 二人の侍従付き・・・まあ、元公爵令嬢で、現宰相の姉なんだから、伯爵夫人とは言え、お付きの者が二、三人いたってそうおかしくはないか。
現在のバーミントは俺より頭半分程背が高い。しかし、昔着ていた服なのだろう。彼から借りた侍従服は俺にぴったりで、直す必要はなさそうだった。
着換え終えると、今度はベスタールが俺にブルネットのかつらを差し出した。かつらまでかぶるのか? すると彼はクールにこう言った。
「黒髪は目立ちますから。ジェイド家イコール黒髪のイメージがありますので、念の為です。眼鏡もかけてみて下さい。度は入っていませんが、黒い瞳が目立たないように色が付いています」
ふむ。なるほどね。俺の容姿って地味だと思っていたけど、ジェイド家の一員という意味では目立つんだな。そんな事思ってもいなかった。
つまり、直接俺に恨みが無くても、例えば父や兄関連で標的にされる恐れもあるから、勝手に行動するな!護衛をつけろ!と言われてたのか。不意打ちをくらったら、確かに俺一人ではべルークを守れないかもしれない。ようやく何故あんなに女性陣に叱られたのかがわかった。
眼鏡をかけ、かつらを着けると、ベスタールに髪を整えられる。そして鏡の前に立って眺めると、そこには俺とは別人のような男が立っていた。
本来の俺もかなり地味だとは思うが、鏡の中の男もかなり地味。そう、モブ感が半端ないので、何か犯罪を犯しても似顔絵にしにくそうな感じだ。いかにもこれが侍従ですといったテンプレだ。
しかし、俺はこの変装がかなり気に入った。確かに地味だがなかなかにスッとしてかっこいいではないか。普段もこんな感じにしようかな。眼鏡一つでこんなにクールで理知的になるとは。
「普段からこの格好をしようかな」
「大変よく似合っていらっしゃいますが、普段にその格好をされては、いざという時の変装に困りますので、諦めて下さい」
あっ、そうか!
俺は侍従の格好でこの後過ごす事にした。屋敷の使用人達は予め話を聞いているのか、俺を見ると少し驚いた様子をするが、声をかけてくる者はいなかった。
夕食の時間になってダイニングへ向かうと、家族は俺の格好を見て驚いたが、感想は色々だ。
「なかなか似合うじゃないか。いつもより落ち着いて見えていいぞ」
これは父と兄。
「いつにもまして地味ね。面白味がないわ。もっと挑戦した方がいいんじゃないの?」
これは姉。
「まあ!これならユーリとわからないわね。変装としては合格点ね」
これは母。
「いつも素敵ですが、今日のコスプレもとっても素敵です、お兄様!」
これはイズミン。
そしてべルークだけが少し不満げに俺を見たが、何も言わなかった。というより、べルークは酷く疲れているように見えた。
普段どんなに厳しい訓練をした後でも、夜遅くまで勉強に励んでいた日の翌朝でも、こんな風に疲れた様子を見せる事がないのに。そんなに母達のマナーレッスンが厳しかったのだろうか。
家族の中で唯一俺だけが母からマナーや勉強や魔術などの教えを受けていないので、どのような教え方をするのかわからない。
魔術を教わっていないのは、もちろん俺が魔力持ちな事を隠していたからなのだが、それ以外は、物理的に無理な事情があったのだ。
そう、一つ下の弟のセブオンがとにかく手がかかったので、母はそれで手一杯だったのである。
俺はカスムークさんと家庭教師の教えで事足りていたので、なんの問題もなかった。ただ母はこの事で、俺に引け目を感じている節がある。
しかし、例のセブオンの事件の時の母の姿を見ているので、俺は母の愛情をしっかりと感じているのだが。
前世の母親は俺の体調がどんなに悪かろうが、食事の準備もせず、自分の化粧だけはバッチリ決めて仕事へ出かけていた。俺が意識不明で入院している時も、普段通り化粧をしていたっけ。
それなのに、元公爵令嬢で身だしなみを何より重要視していた母が、髪も梳かさず、化粧もせずに涙で目が腫れ上がった顔で俺の元に駆けつけてきた。そしてぎゅっと抱き締められた時、俺は母の愛情を感じ、初めて自分は幸せだと思った。生まれてきて良かったと。
だから、母は俺に悪いなんて思わなくていいのだ。とは言え、それを言葉に出す事は憚られたので、俺は母の事が好きなんだと態度で示してきたつもりなのだが。
それにしても、矯正しなくてはいけないべルークの変な癖とは、一体なんなのだろう?
今回はユーリの変装の話ですが、次章ではべルークの番なので楽しみにして下さい!