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22 猛獣使い

 ジェイド伯爵は、ピンク色のまん丸の物体の前で困り果てていた。

 

 ピンク色のふわふわの髪は逆立ち、ピンク色のほっぺには絶え間なく涙がこぼれ、ピンクのふっくらマシュマロ唇からはひっくひっくと呻き声が漏れている。

 

 そしてピンク色のもみじのような両手でピンク色のスカートの裾を握りしめ、イズミンは開かれた書斎の入り口に座り込んで動こうとしない。

 

 誰かに助けを求めようと伯爵は見回すが、廊下に集まっている妻も姉娘も、侍従も侍女も、そして主に一番忠実である筈の執事にさえ、目をそらされてしまう。

 勿論、書斎内にいる息子は問題外だ。そもそもの元凶なのだから。

 

 城内で開かれる、例の後始末の為の会議まであまり時間がない。早く登城しなければならないのに自分の書斎から出られないなんて。

 

 文官とはいえ、軍属のジェイド伯爵は毎日の鍛錬は欠かさない。壮年と呼ばれる年になったとは言え、三歳の娘など片手で簡単に持ち上げられる。

 

 そう、この二時間、伯爵は何度となくそれを実行している。しかし、その度にこのピンクのまん丸は、この世の終わりように泣き喚いて暴れ回るのだ。その上、

 

「お父様なんて大嫌い! 

 もう絶対にお父様にキスをしてあげない!

 ユーリお兄様がおうちを出るなら、私も一緒に出て行くから~!」

 

 などと言われたら、もう()(すべ)もない。

 

 

 伯爵の美しく切り揃えられた黒髪はバサバサに乱れ、顔は痴話喧嘩でもした跡のように引っ掻き傷だらけである。たとえこの書斎から出られたとしても、その顔で登城出来るのか? と皆思った。

 まあ、ここを出る事さえ出来れば、伯爵夫人の癒し魔法でどうにかなるかもしれないが。

 

 とはいえ、さすがに遅刻してはまずいだろうと、大体の事情を察している伯爵夫人が問題解決に乗り出した。

 

「あなた、猛獣使いがいなくなったら、我が家がどうなるか、これでおわかりでしょう? もう、あの事は諦めた方がよろしいのではなくて?」

 

 しかし、ここに及んでも伯爵は抵抗した。これは息子の将来がかかっているのだ。それに我が家の名誉も。陛下の申し出を断るなどとんでもない。

 目に入れても痛くないほど可愛い末娘に嫌われるのは、本当に辛い。しかしそんな事は言っていられない。

 

 夫人はふーっ!と深いため息をつくとこう言った。

 

「今回の事は私がさいしょうとよく相談して、何か解決法を模索してみますわ。

 ですから、とりあえず今は登城された方がよろしいのではなくて? 遅刻しては、それこそあなたの名誉に傷がつきますわ」

 

「ううっ!」

 

 伯爵は歯ぎしりしながらも観念し、猛獣使いを振り返った。

 

「頼む。これをなんとかしてくれ」

 

 だから俺はこう言った。

 

「ですから、最初の私のお願いさえ、聞いて下されば。

 私は与えられた元々のミッションを全うしたいだけなんです」

 

「お前は本当にそれでいいのか?」

 

「はい。父上のお気持ちには感謝しています。でも、俺は、そのお気持ちだけで、本当に嬉しいし幸せなんです」

 

 俺は真っ直ぐに父の目を見た。父もようやく俺の本気を理解してくれたようだった。

 父が頷いてくれたので、俺は片膝をつくと、ピンクの猛獣に両手を差し出した。

 

「イズミン、こちらにおいで。俺はどこへも行かないよ。悲しませてごめんね」

 

「ホント? どこへも行かない?」

 

「うん。行かないよ」

 

「わ~ん!!」

 

 イズミンは起き上がると、トコトコと俺のところへやって来て抱きついてきた。俺はイズミンを抱き上げて立ち上がり、涙でぐしょ濡れの頬にすりすりした。

 

 仕方なかったとはいえ、小さな妹を利用した事を申し訳なく思った。

 

 父はほっと胸を撫で下ろすと、急いで登城の準備のために書斎を出て行った。

 

 

 

 何故か俺には『猛獣使い』の通り名がある。

 

 最初にそう呼ばれたきっかけは、まだ幼い頃にみんなから遠巻きにされていた、あの変わり者の天才、サンエット=ココッティと仲良くしていた事が起因していると思う。例のしつけ前の防犯犬も平気で相手をしていたし。

 

 それと、みんなが手を焼いている弟のセブオンとも普通に付き合っているからだろう。

 俺からすれば、あいつと上手く付き合っているとは到底思えなかったのだが。いやむしろ、どうしたらいいのか教えて欲しいくらいだったのだが。

 

 そして最終的にこの通り名が定着したのは、このピンク怪獣である妹、イズミンに懐かれているからだろう。

 

 しかし、俺はけしてイズミンを手懐けているわけではない。イズミンはサンエット同様に、強い自我をもった人間だ。俺は彼女達を自分に都合よく動かそうとは思っていないし、実際出来る筈もない。

 さっきは、利用する形になってしまったので、説得力に欠けるが・・・

 

 何故かいつもイズミンは、俺の意図を汲んで、わざとみんなの前で可愛い怪獣を演じてくれている気がしてならない。本当に俺は、猛獣使いなんて大層な技術は持ち合わせていないんだ。

 

 

 

 さすがに二時間も泣き喚いたので、イズミンは疲れて俺の腕の中で眠ってしまった。

 

 俺は自分の部屋のソファーに、イズミンを抱いたまま座った。

 ベルークが用意してくれた蒸しタオルでイズミンの汚れた顔を拭いた。それからようやくゆっくりとミルクティーを口にした。

 

「ユーリ様。ええと、結婚のお話というのはもしかしてアルビー様ですか?」

 

「ああ。元々は兄貴と彼女がお見合いする話だったんだ。だけど、癒しの魔剣の件で、陛下が俺と結び付けようとしたんだ。結婚すれば俺に侯爵の爵位を下さるって」

 

 俺の説明にベルークもさすがに驚いた。そしてすぐに悲しい顔になったが、その顔とは全くそぐわない事を言った。

 

「それは大変名誉な、喜ばしい事ですね」

 

「いや、イズミンのおかげで回避できそうだ」

 

「このお話をお受けにならないのですか?」

 

「あたりまえだ。お前も気付いているだろう? 兄貴とアルビーは互いに想い合っている。弟がその邪魔をしてどうするんだ」

 

「でも、爵位は・・・」

 

「お前が一番俺の事をわかっているだろ? 俺がそんなもの望んでると思っているのか? それとも、お前は侯爵家の執事になりたいのか?」

 

 俺がからかうと、ベルークは慌てて首を振った。すると、その時、イズミンが寝言を言った。

 

「私、本当は侯爵夫人になりたいの・・・・・」

 

 俺はそれを聞いておませな寝言だなぁと笑ったが、何故かベルークは真っ赤な顔をしていた。

 

 

 結局、母と宰相である叔父のおかげで俺の結婚話はなくなった。そして兄とアルビーは形式上の見合いをして、その後無事に婚約をしたのだった。

 そして俺の爵位の話は有耶無耶になったが、家の方にお咎めがないならそれで十分だった。

 

 しかも、城から世界中のナッツとチーズを十年分貰える事になって、俺は万々歳だった。俺はこれを使用人や友人たちに配って、人気者になったのだった。

今回で主人公の過去回想が終わりました。ようやく次回からは、皇太子の誕生日の日に戻ります。長くなって、すみませんでした。

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