人間相手に親切にしたい魔王
「あー! 人様の役に立つことがしたいわい」
魔王は悩んでいた。生まれてこのかた、人間に対して親切にしたことがなかったからだ。
もちろん、魔族を治める者として、魔族に対しては善政をしき、街に出て重そうな荷物を持っている同族の老婆に対しては、魔法で荷物を減らして軽くしてやったこともある。接待すごろくで、魔力を使い、自分が出す全部の目を1だけで通し、相手を勝たせてやったことも。でも彼は、自分の敵である人間に対して親切にしたいという欲を持ってしまった。
「ですが魔王様、自分の敵に対して親切にしてやることは我が身を滅ぼし、しいては魔族全体の存亡にかかわるのではないでしょうか」従者のゲボリアンが、魔王をいさめる。ゲボリアンは全身が真っ赤でえりまきを持ち、目の横にあるえくぼが印象的で、お腹にもう一つ顔がつき、口の部分には小さなカンガルーの赤ちゃんが頭をのぞかせている、よくわからない種族の魔物である。
「人間があがめる聖書に、『汝の敵を愛せよ』とあるのではないか」
「魔王様、ここは考えを保留して、今日は、たまった仕事を片付けてください」
仕方なく魔王は、山のように積まれた書類を読み、ハンコを押し始めた。
土砂降りの中を傘もささずに駆け出して、濡れたと感じたぐらいの時間がたったころ。
「ゲボリアン、ちょっといいか」
「なんでございましょうか」
「ちょっと今から草原に出て、歩く毒キノコに苦戦している、駆け出し冒険者に回復魔法をかけてきていいか」
魔王の眼は千里先も見渡せるのであった。
「そんな弱モンスターに苦戦している冒険者を助けた所で、次で詰むのは目に見えています。それより執務を続けてください」
「ちぇっ」
魔王は舌打ちして、仕事に戻った。ハンコを押すのに飽きてしまい茶目っ気で魚拓を始めた。
魚の全身に墨を塗って、丁寧に紙を押し付け指でなぞる。そのお茶目をゲボリアンに見つかり注意されたので、仕方なくまたハンコを押し始めた。しかし慌てていたので、魚の上にハンコを押しまくってた。
ハエが三回羽ばたいたぐらいの時間が過ぎ、魔王がまた口を開く。
「ゲボリアン、ちょっとちょっと」
「なんでございましょうか」
「最終ダンジョンで迷っている冒険者に対して、道案内をしては良いか」
「魔王様は、冒険者が来る頃を見計らって、ダンジョンの奥に瞬間移動するのが仕事です。インチキをして彼らの成長を妨げてはいけません」
そこで魔王は気づいた。
「冒険者に意地悪をして、成長を促すことこそ我が親切と見つけたり」
「その通りです。魔王様」
魔王は、安心して、魔族市民の意見書に目を通し始めた。そこで茶目っ気を出して、カタツムリの触角のように目を伸ばして意見書を突き破らせた。文字通り目を通したのだが、そのお茶目ぶりがゲボリアンの目に留まり、注意を受け仕方なく普通に読み始める魔王であった。
トカゲの切れた尻尾が一振りするぐらいの時間がたったころ、魔王が口を開いた。
「ゲボリアン、ちょっといいか」
「なんでございましょうか」
「冒険者のほかにも一般市民がいるよな」
「はい、仰せの通りでございます」
「草原で大蛇に襲われている一般市民を助けに行っていいか? 大蛇は魔族ではないぞ。助けてもいいだろう」
「魔王様、それをいちいちしていたら、体がいくつあっても足りませぬ」
「わしは分身はできない」
「なら、なおのこと無理でございます」
「ただし、意識なら飛ばせられる」
魔王はしばらくぼーっとしていた。おそらく魔王の意識は草原に行っているのだろう。
「意識でフレーフレーと言ってあげたけど、残念ながら……」
魔王は、ため息をつくと予算書のチェックを始めた。しかし実は魔王は数字が大の苦手で、チェック後に部下が総出で再チェックを三回行うことになっていて、なんのためのチェックかわからない。
モナカを食べて、皮が歯につくぐらいの時間がたったころ。
「ゲボリアン、ちょっといいか」
「なんでございましょうか」
「人間の町の宿屋の主人が耳毛ボーボーで見苦しい。あのままでは宿屋の経営にも響くだろう。ちょっと行って切ってきていいか」
「恐れながら申し上げます。魔王様も耳毛ボーボーです」
「さようであったか。では早速切ろう」
魔王は鏡を見て耳毛を切ろうとした。ところが自分の耳をよく見たらウサギ耳だった。毛が生えていて当たり前なのだ。魔王は耳毛を切るのを諦めて、毛づくろいを始めた。
氷の上に乗せた指が濡れてしまうぐらいの時間がたったころ、魔王がまた口を開いた。
「ゲボリアン、ちょっといいか」
「なんでございましょうか」
「どうせお前があれこれ理屈をつけて、わしのアイディアを止めるのは目に見えてる。もう我慢できん行ってくる」
と言うが早いか魔王は姿を消してしまった。
数分後、
「はっはっは。いいことをするのは気持ちがいいわ」戻ってきた魔王は上機嫌だった。
「何をしてきたのですか」
「異世界で、前座の噺家が『芝浜』をかけたいというから、魔法で真打にしてやったわ」
「魔王様、それは親切でもなんでもありません。現場は大混乱でしょう」
「なんだわしの親切は、無駄だったのか」
魔王は下を向いてしまった。
「相手が噺家だけに落ち込まれましたか」ゲボリアンは心配そうに魔王を見つめた。
若手や駆け出しの噺家は、あまり大きな話を演じさせてもらえないことがあります。