第29話-3 リュリュの献身
二人は言葉少なに来た道を下っていく。
雪に足跡がそのまま残っているため、遠くからでも落し物が無いことがはっきりするのはありがたいが、その分アベルたちは落胆する。
次第に降り積もる雪が重みを増していくのに比例して、アベルもまた自分を押し潰さんと膨らむ焦りを懸命に抑えなくてはならなくなっていた。
何しろ、今下っているのは足元の悪い下り坂で、すぐ傍には崖がある。気温が冷え、自分が踏み拉いてきたことで凍った上、しかも雪でどんどん見えなくなっていく中を歩くのには命の危険が付きまとう。その焦燥が、更なる疲弊となってアベルを蝕んでいく。
やがて、永遠とも思えた雪中行軍も終わりを迎えることができた。
昨日の仮宿とした岩屋が遠目に見えたころには、アベルの脚は彼の意思に関わらずひっきりなしにがくがく震えつづけ、何度か石くれに脚を取られて崖を転がり落ちそうになったりしたものだ。
「見えた! アベル、もう少しだよ!! がんばって!」
リュリュの声が、どこか遠くに感じる。困憊するアベルは答える代わりに、微かに頭を上下させるしかできない。
どうにか岩屋についたとき、アベルは入り口で身を投げ出すようにして倒れこむ。
もう、限界であった。
「今度はボクが頑張らないと…!」
返事の無いアベルは横になったままがたがた震えている。その顔色は真っ青だ。
一方、リュリュはアベルに比べて体力はほとんど消耗していない。アベルから濡れた外套をどうにか引き剥がして(服は彼女の力ではどうにもならなかった)からひとまず薪になりそうな枝を捜しに表へ出た。
「待っててね、アベル! 今暖めるから!!」
だが、小一時間かけて拾い集めた程度の枝では当然ながら岩屋の中に十分な暖気を行き渡らせられる訳も無い。
「うう…だめだ、こんなんじゃ無理だよ…やっぱり、石を燃やすしか…!」
手近な小石を掻き集め燃やしていく。一片に大量の魔素を消耗したリュリュはしばらくへたり込んだが。
「アベル?!」
アベルの異変に気づいて慌てて飛びよったリュリュの血相が変わった。
震えが止まっている。装備が整っていない状態でリュリュを吹雪から庇いつづけただけなく、かつ先日の冷えがここにきて響いたのだろうか。
そして、幾ら呼んでも返事が無いことが決定的だ。座学で危険な兆候だと習った記憶がある。
これは恐らく低体温症の中期症状が出ている、とリュリュは看て取った。
「このままじゃ、アベルが凍死しちゃう…でも、どうしたらいいの?!」
石はまだ燃えている。が、到底その熱量だけでは長くはもつまい。
けれども、もはや燃やせるものは岩屋の中には無い。
どうしたらいいか迷う間も、無常にも水分を含んだ服に体温を奪われアベルの体は冷たくなっていく。
「うぅっ…ボクがこんな小さくなかったら…!」
自分の無力さに、悔し涙がにじんでくる。ぼやけた視界の中、リュリュの視線はある物を捕らえた。 「そっか、グリザの実!」
倒れこんだアベルの手から零れ落ちたグリザの実。昏倒するときまで気を払っていたのか、傷一つ付いていない。
「これなら…」
高濃度の魔素の結晶体であるグリザの実を上手く使えば、この危地を脱することはできるだろう。
問題は…これを使えば、次手に入るのは少なく見積もっても百年後になることだ。
「待ってて、アベル。どんな手を使っても、ボクは君を死なせたりなんてしない」
しかし、リュリュはすぐにその葛藤を断ち切った。
元々、彼がいたからこそ得ようと思った実だ。
ならば、彼のために使うことに聊かの迷いも無い。
覚悟を決めたリュリュは服を脱いで一糸纏わぬ姿になる。冷気が肌を刺し、リュリュは顔を顰めた。
「んっ…」
寒さにひるむことなくグリザの実を胸に擁し、両腕に力を込めて割った。
その瞬間、実から迸った光が岩屋の中に満ちる。それも一瞬のことで、光はリュリュの全身へと吸い込まれていく。
変化はそれだけで終わらない。
光が体内に吸い込まれていくに随いリュリュの背中の翅は縮んで行き、それに伴って彼女の体が大きくなっていく。やがて光が消えうせると、そこにアベルより頭二つ分ほど低い背丈の姿となったリュリュがいた。
「っと、ぼけっとしてらんない!」
大きくなった自分の手足をものめずらしそうに見ていたリュリュだったが、冷え込みを感じたことで本来の目的を思い出した。
濡れたアベルの衣服を素早く脱がしてから、未だ意識の戻らぬ彼の胸元に身を預けるようにして横になり、その上にようやく乾きはじめた外套を掛ける。
「今暖めてあげるからね、アベル。頑張って…」
リュリュは僅かな体温でも伝えられるよう、アベルの冷え切った腕を背中側から掻き抱くよう自分に回す。
まるでアベルをおんぶして横倒しになったような体勢のまま、リュリュは残っていた小石を、魔素を使い切らないよう調節しながら順次燃やしていく。魔素の使いすぎで意識が落ちそうになるたび、リュリュはアベルの鼓動を聞いては気持ちを奮い立たせ、ひたすら新しい石を燃やしつづけた。
そうやってどれくらいのときが経っただろう。
「良かった…もう、大丈夫だ…」
ほう、とリュリュは安殿の吐息をはきだした。
リュリュの献身のおかげで、アベルはいつの間にか穏やかな呼気に戻っていた。
途端、どっと疲れが押し寄せてくる。疲れきり、彼の胸に頭を委ねたリュリュは以前にも同じような経験があったことをふと思い出した。
「…えへっ、前に抱きしめてもらったときも思ったんだけどさ。アベルもやっぱり男の子なんだね」
当時のことを思い出し、リュリュは穏やかに微笑んだ。
そのときからだ、アベルのことをただの友人から特別な異性だと認識するようになったのは。
「…今だから言うけどさ。あのとき、ボク本当に嬉しかったんだよ? 誰も気づかなかったのに、アベルだけがボクのことに気づいてくれたって。…その頃からだったんだね」
そういうと、ぐるっと身を反転して正面に向き直った。
まだ湿り気を帯びている前髪をそっと指ですく。
あどけなさを残した少年の顔に、リュリュはそっと顔を寄せた。
一旦躊躇したものの、リュリュはそっと唇を重ね…そしてまた、そっと離れた。
「アベル、君はきっと知らないよね。ボクがどれだけ君に感謝したか、ボクがどれだけ君の事気になっていったか…」
その先を、リュリュは自身の心のうちだけで紡いでいく。




