第29話-1 二人だけの雪中行軍
転送直後、アベルの口から真っ先に飛び出したのは「寒い!」という言葉だった。
どこかの山頂付近だろうか?
よく晴れているにも関わらず身を切るような寒風が叩きつけてきてはあっという間に体温を奪っていく。降り出している雪こそ今は無いが、鼻奥につんとくるほどの冷気からは今にも雪に変わりそうな不安定さを感じる。
ぶるぶる震える手で外套の襟元を寄せるアベルの肩上で、これまた厚手の衣を着込んでいるリュリュが懐かしそうに目を眇めては周囲を見渡していた。
「な、なあリュリュ、転送先間違えたんじゃないの!? もっと南じゃないと実がならないんじゃないのか?」
泡を食って確認するアベルに一瞬きょとんとしたリュリュだが、すぐにああ、と小さく声を上げた。
「大丈夫大丈夫、この山であってるよ。グリザは普通の花じゃないから、標高の高いところで無いと駄目なんだ。…あれ、もしかして言ってなかったっけ?」
呑気なリュリュの返事に、アベルはまくしたてた。
「聞いてないよ、言ってないよ、初耳だよ! ああもう、こんなに寒いんならもっとしっかり厚着しておくんだった…」
今更ながらにユーリィンに感謝する。彼女の忠告が無ければ、まともに動くこともできなかったろう。
歯の根もあわさぬほどかちかちと凍えているのを見てさすがに悪いと思ったのだろう、リュリュは頭を下げた。
「あぁ…ごめん。でも、ボクもこんなに寒いとは思いもしなかったんだ。普段はもう少しましで、ここまで冷え込むのは珍しいんだよ」
気遣っているつもりだろうが、余り役立ったとは言いがたい情報である。
「そうなのか…まあ、それはもういいよ。それで僕らはどうするんだ? 先に実を採りにいくのか?」
「そうだね…アベル、ちょっとここで待っててくれる」
返事も待たず、リュリュは空に飛び上がる。傍の木の頂を越えたところで周囲をきょろきょろ見渡した。
「ここから下った先に避難所があるね。ここはそこと目的地のほぼ中間だよ」
「そうなんだ。場所がはっきりしただけでもありがたいな。それで、どちらに向かうんだ?」
「うーん…」
空を見上げ、リュリュは考え込む。そして右手の人差し指を舐め、天に向かって突き出す。
「今は天気が安定しているけど山の向こうに大きな雲が見えるし、風がこっちに向かって吹いてきてるから、まず避難所へ向かおっか」
高度が高いのか、周囲にはぽつりぽつりとたまに潅木がまばらに生えているだけだ。行く手は斜面で上り坂だが、この調子で行くと木自体が無くなるのは時間の問題だろう。
果たしてこの先に目指す樹が生えているのだろうか…心配が募る。
何より、上も下も見渡す限り真っ白だ。ここを何度も往復すると考えるとげんなりする。アベルはなるべく移動距離を減らすべく提案した。
「ねえリュリュ、グリザの実がなってる場所で休むことはできないかな? そこなら木も生えてるだろうから、暖を取るのもできるだろうし」
しかし、リュリュが話の途中で首を横に振る。
「休むのはちょっと厳しいかな。狭いし、何より火を使っちゃだめなんだ」
「え、何でさ?」
「火を使って温まっちゃったらグリザが花をつけなくなっちゃうからだよ。だから、寝床は別に確保しないと駄目」
「寝床って…一泊しないで、転送球で使って実を確保出来次第学府へ飛ぼうよ?」
「それも無理。グリザの実の付近は魔素が濃くて、術法自体がまず使えないの。だから、転送球を使うにもかなり下…ここよりもっと下に行かないと」
にべもなく断られ、アベルは肩を落とした。
「ええ……なんだよもう、不便なんてもんじゃあないな…」
「小翅族にとっては聖域だもん、しょうがないじゃん」
リュリュの回答にアベルは依然納得できなかったものの、そういうものだと割り切るしかないようだ。
「なら、やっぱり往復することになるけど…大丈夫かなぁ」
自分の経験に照らし合わせて考えたアベルは今後の予定に不安を覚えたが、リュリュは大丈夫だと胸を張って断言した。
「ボクの故郷からでも一日も掛からず到着できる距離だから、そんなに遠くないって」
「それならいいんだけど…」
軽く応じたその言葉にふとアベルは何かひっかかったが、それが何かはっきりする前にリュリュが先を促した。
「ほらほら、のんびりしてる暇は無いよ。はやくいこっ」
そういうとリュリュは飛んでいく。彼女の行く手には、二つの山稜に挟まれている鞍部が広がっている。
そちらに向けて下り出したアベルだが、一時間と経たずして安易に彼女の誘いに乗ったことを猛烈に後悔しはじめていた。
何しろ足元は一面踝まで埋まるほど雪が積もっているのだ。舗装された道など当然あるわけも無く、不安定な石くれを警戒しながら雪の中を掻き分け進むのは並大抵の労力ではない。
最初は肌寒かったのが、すぐに服の下は汗みずくになってしまった。肌にひんやりとした服が張り付き、それがまた体の熱を奪うという悪循環。
おまけにアベルの鼻は、かつて祖父と暮らしていたときに覚えのある大雪の匂いを感じている。
このままでは、直に大雪になりそうだ――アベルの予感は残念ながら当たってしまった。
午後を回った頃辺りからいつしかちらほらと降り出した柔らかい雪は、夕刻前には渦を巻いて吹き荒ぶ氷雨となってアベルの頬にばちばちと打ち付けていた。
リュリュは大人しくアベルの服の隙間に退避している。そうさせたのは、氷雨だと飛翔しているリュリュの薄い翅が傷つくだろうとアベルが考えたからだ。
早くも埋もれてしまったか、アベルたちが進んできた蹊はとうに見えない。
このままでは、直に視界を確保するのが難しくなるのもそう遠くないだろう。
「こっちのままでいいのか?!」
焦り出したアベルが風になびく外套を手繰り寄せ、吹き飛ばされないようにしながら大声で尋ねると、胸元の隙間からひょっこり顔を覗かせたリュリュがすばやく辺りを見渡した。
「あっち!」
指差した方角へ足を向ける。
「もう少し行ったその先に、ボクらが普段休憩に使う岩屋があるんだよ! そこまで頑張って!!」
想定より遥かに遅くなったことについて、アベルは『頑張ってじゃないだろ! 誰のせいでこんな面倒なことになったんだ!』と責めたくなる言葉を口に出る寸前辛うじて飲み込んだ。こんな悪環境の中にたった二人しかいない今、空気を悪くしたら命に関わる。
深呼吸して気持ちを落ち着かせ、アベルは確認を頼んだ。
「リュリュ、最後まで進路の確認頼んだよ。ここまできて入り口を見失ったりしたら洒落にならない」
「そうだね…うん、ボクも頑張るから、アベルもお願い」
「ああ」
アベルは気持ちを奮い立たせ早足で進むが、雪が降る速度はそれを遥かに上回っていく。やがて膝下まで雪が積もる頃、どうにか二人は目的の洞窟を見つけることができた。
「ここで…、いいの……?」
すでにアベルは体の奥まで凍みる寒さと疲れとでよたよたになっていた。
「うん…」
リュリュが案内した岩屋はどちらかといえば窪みと呼ぶほうが正確で、小翅族が使うなら十分すぎる大きさだろうが、人族ではかろうじて大人三人納まるかどうかの小さなものでしかない。
アベルが震えながら手早く傍に転がる石くれと積もりだした雪で入り口に即席の風除けを作ると、その間にリュリュが集めてくれた木っ端で火を焚いて暖を取ることにした。
岩屋内に吹き込まれていた枝は小ぶりな物ばかりで量も少なく、大きな焚き火にはならない。そのためアベルは服を脱ぎ、丁寧に水気を拭うと体を擦って暖を取る。
時間をかけてようやく岩屋内に暖かい空気が生じ始めた頃、神妙な面持ちでリュリュがぽつりとこぼした。
「その…アベル、ごめんね」
「何がさ?」
出掛けの元気はどこへやら、今のリュリュは今にも泣きそうに表情を曇らせている。 どうやら一息ついたことで、これまでの浮かれていた気分が完全に吹き飛んだらしい。
「色々、ボクがしでかしちゃったこと…」
想定では、すでにグリザの実を収穫して、転送球で学府へ戻っているはずだったし、学府にも日帰りのつもりで伝えていたのだそうだ。携帯してきた食料も僅かしかない。
それというのも、彼女は『空を飛んでいく』つもりで考えていたためだ。寒いところに向かうことを伝え忘れたりと、どうにも普段より注意力散漫である。
「色々うっかりしすぎだろ、リュリュ…」
「うん…本当、ごめん…」
故郷のことを思い出して気がそぞろになっていたのかもしれない。それを思えば自分も共感できる部分があるため、アベルもあまり強くリュリュを責めることはできなかった。
「ま、いいさ。よほどグリザの実の収穫を楽しみにしてたってことだろ。気にするなよ」
見たことが無いほどしょぼくれるリュリュに少し戸惑ったものの、アベルはそう慰めて焚き火に新しい枝をくべた。外の枝は濡れて使い物にならないため洞窟内に吹き込まれたものを使うしかないため、熾せる火の大きさにも自ずと限界がある。
「…そうなんだけどさ。そうじゃなくて…うう」
「何か言ったか?」
頬をぷっと膨らまし、もごもごと呟くリュリュの声は外を吹き荒ぶ寒風にかき消されアベルの耳には届かなかった。
「うぅん、別に。…ねぇアベル、寒くない?」
「え? …うん、だいぶ温まったよ」
そう強がるアベルの声は微かに震えている。つい先ほども特大のくしゃみを二回、たてつづけに放ったばかりだ。
「でもやっぱり、ちゃんと服を乾かしたほうがいいよ! このままだと風邪引いちゃうよ?」
大丈夫、そういいかけた途中でまたもやくしゃみをしたアベルは気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「…分かったよ。でも先に外套を乾かしてからだ。濡れた物をまとうわけにもいかないし」
そういうと、アベルは再び外套を絞り水を切る。
と、しばらく唇を噛んで何事か考え込んでいたリュリュがそうだと言って飛び上がった。
「これなら!」
そういって、傍に転がっていた子供の掌大の小石を焚き火の傍に蹴り転がした。
「何をするんだ、リュリュ?」
「いいからいいから、見てて」
そういうと、硬く目を瞑って集中しはじめた。やがて二言三言、ささやくように呟くとその石が青い光を上げて燃えあがる。
「石が、燃えてる?」
驚いたアベルに、額に玉のような汗を浮かせたリュリュがうんと頷いた。
「…上手くいってよかった。”燃えない火”の原理を応用して、この石を構成する魔素を転化して燃やしたんだ。上手くいってよかった」
外套を火の傍に干すとそそくさと屈み込み、アベルは手をかざした。なるほどそれほど大きくはないが、焚き火としては十分な熱量を放っている。
「リュリュはこんなこともできるんだな」
感心したアベルにうん、と答えたリュリュは汗をぬぐいながら説明する。
「燃えないはずの物を無理やり燃やすから、たくさんは作れないけど…その分素材の大きさに影響されないで熱を出すし、長持ちもするはずだよ」
「そりゃありがたい、さっそく温まらせてもらうよ」
まずはしっかり手が温めてから次は足を伸ばし、その傍で底を焦がさないよう注意しながら靴を乾かしていく。
「リュリュは暖めなくていいのか?」
ようやく靴が乾燥したところで、今度は服を脱ぎながらアベルが尋ねた。リュリュは彼が服を脱いでいる間所在無いのか、ゆったりと頭上を飛び回っていた。
「う、うん、ボクはアベルのおかげでほとんど濡れてないから平気! 気にせず乾かして!」
「そう? じゃあ遠慮なくそうさせてもらうよ」
そうやってアベルが体や服を暖めている間に、携行していた大き目の干し肉をリュリュが炙っておく。柔らかくなったところでアベルが引き裂き、二人で分けて食べた。
簡素な食事を終えると術の疲れが出たのか、火のそばで掻き集めた枯れ草を敷いた上に横になったリュリュは程なく眠りに落ちた。
「それにしても…こりゃ思ったより大仕事になりそうだなぁ……」
アベルは雪を集めて飲料用に溶かしながら洞窟の外を見やった。
天候はようやく落ち着こうとしているようだ。この調子なら明け方には止みそうだが、どれだけ積もっていることか。事によっては、ひょっとすると明日一杯掛かってしまうかもしれない。
日数は十分に余裕があるが、問題は食料と燃料だ。
「ま、進むしかないか。戻りだけはリュリュに預けた転送球ですぐに戻れるのだけが幸いだな」
悩んでいても仕方ない、嘆息してアベルも睡眠をとる準備に取り掛かった。
狭いため、アベルは火に向かったまま横にならず足を組んだまま座った。ようやく水気を飛ばせた衣服を羽織り、外套の下半分を尻に敷くと上半分で体をしっかり覆い、ぴっちり立てた襟を首元に巻きつけるようにして織り込んだ。
「もっと楽な道行になると思ってたんだけど…ままならないもんだ」
とはいえ、こうなったのも元はといえば自分のせいである。次からはもう少し、迂闊な真似を戒めよう、そうアベルは心に誓い目を瞑った。
やがて狭い洞窟内に二つの規則正しい寝息が聞こえはじめた。




