第26話-3 ラシュバーン
時は少し遡る。
丁度アリウスが亡命の理由について説明していた頃、王宮へ戻ったラシュバーンは出立したときの出で立ちのまま、壁を豪奢な織物で飾られた長廊下を歩んでいた。
窓の外にはすでに白く雪が積もりつつある。恐らくはもう、殺された供回りや追っ手の姿を隠してしまっているに違いない。山間にあるディル皇国は雪の影響を受けやすいのだ。
国王の私室の前まできたラシュバーンは彼らの無念を想い小さく嘆息すると、扉をこつこつと叩いた。
「失礼します」
返事を待たずして扉を開き、中に足を踏み入れる。元々国王一族と親しかったラシュバーンだから許される芸当だ。
丸天井造りの大きな部屋。
壁面には見事な彫刻が施されている。
意匠に沿って設けられた細く丈の長い銀縁の窓が外の重くよどんだ空を切り抜いており、ちらほら舞う雪を映し出していた。
「このような時間に何用だ、ラシュバーン」
毛足の長い絨毯を敷いた先。
深紅の引き幕を背に細かい彫刻の施された肘掛付きの長椅子があり、そこに座している老人が頬杖をついたままつまらなさそうに深いとび色の瞳で真夜中の来客を見つめている。傍には他に誰もいない。
黄金の冠に金色の外衣を纏った現ディル皇国皇帝――レラザール=ディルベイン十一世はたっぷりした口ひげに覆われた口元をわずかに動かしたきり、後は黙ったままだ。
その表情はセプテクトが宮殿に現れたころからよく目にするようになったが、ラシュバーンは何の感情も見せないこの眼差しがどうにも好きになれなかった。
かつての王の瞳は、謹厳なれど精気溢れていたはずだ。
「はっ。恐れながら申し上げます」
感情を押し殺し、膝を付き両手を垂れた頭の上に組むと報告する。
「先ごろ、アリウス皇太子が亡命いたしました」
「そうか」
それきり、ディルベインは何も答えない。つづく言葉を待ったが、反応が無いことにラシュバーンは不審を感じ顔を上げた。
「…王?」
ディルベインの目は先ほどと変わらず、まったく感情を感じさせないままだ。
「王よ、王子が…」
「それは聞いた。他に何も無ければ退去して構わぬ。そのような些事、捨て置け」
あまりに冷たい言葉に、ラシュバーンは思わず歯軋りした。確かに以前から王子の諫言を疎んじていたのは知っていたが、仮にも実の子ではないのか。
「王は父としてなんとも思われないのですか?!」 知らず声を荒げるが。
「何を思う必要がある。あやつはわしに逆らった。これまでにも幾たびも余の重臣であるセプテクトの邪魔をしてきた上、国まで捨てたとなれば親でもなければ子でもない、ただの反逆人に過ぎぬ。そのような昧者の行く末などに興味は無いわ」
「なんと…民を憂いた心優しき御令息をそのように言われるとは…」
「民?」
ディルベインがはじめて眉を動かした。
「民なぞ、ただの地虫ではないか。放っておけばそこいらから勝手に湧き出てくる。そんなものに心を裂くアリウスは王としての資質が無かったということだ。所詮、魔人などという下級種族と昵懇にする出来損ないよ」
「なんと…」
情愛の欠片も無い酷薄な物言いに、ラシュバーンの顔が怒りでどす黒く変色していく。
もはや、ここにいるのはかつて忠誠を誓った王ではない、ただの愚昧な暴君だ。もしここで僅かなりとも動揺する素振りを見せたなら抑えるつもりでいたが、事ここに至ってとうとうラシュバーンも最後の迷いを断ち切ることができた。
「王よ…もう、昔日の尊公では無いのですな…」
言葉は無い。
ラシュバーンも返事を待たず立ち上がると、佩剣を音も無く抜いた。国王の私室に入るため、いつも愛用している巨剣ではなく、儀礼用の小振りの物だ。それでもラシュバーンの腕ならば老いた王の首をすっぱり断ち切るのに何の不足も無い。
「開戦前からお止めすべきであったとずっと後悔してきた…ディルの民のためにも、過日の過ち! 王子に代わって今ここで断たせていただく!」
ラシュバーンは喚きながら切りかかる。
その間も王は動かない。自身の突発的な行為の前に動揺し、逃げる機会を失った――ラシュバーンはそう見て取った。
「お命頂戴仕る!」
間合いに飛び込み、渾身の力を込めて剣をディルベインの素っ首目掛けて振り下ろす。
次の瞬間、真っ赤な血潮が弧を描いて王宮の壁を彩る――はずだった。
「なんと…?!」
だが、弧を描いて跳んだのは紅い血飛沫ではなく、白銀だった。
はじめは不覚にも玉座を切りつけたのかと思ったが、すぐにそれは違うと知った。何しろ、ディルベインはまったく身動きしていなかったのである。 玉座にも傷らしきものは見当たらない――そこまで呆然としながらも見て取ったラシュバーンはようやく、ディルベインの異変に気付いた。
「お、王よ……その首――はぁっ」
ラシュバーンは最後まで言い切ることができなかった。
ずん、と重い感覚が体を走った。
直後ぐるり、視界が回転する。その端に一瞬だけ、華美な司祭服が映りこむ。
「ふむ、 王子は捕り逃したか…存外動きが早かったな」
いつの間にか背後に立っていたセプテクトが水平に大きく一振りして手についた鮮血を払い飛ばす。その血糊がびしゃりと床を彩ったところで、それまで宙を舞っていたラシュバーンの頭が驚愕の表情を貼り付けたままどさり、と音を立てて床を転がった。
「…まあ良い、将軍が手に入っただけでもよしとしよう。これはなかなかの素体になりそうだからな」
淡々と呟きながらラシュバーンの頭をつまみ上げたセプテクトは、ディルベインに一瞥をくれるとそのまま部屋を出て行く。
薄れ行くラシュバーンの視界の中に映し出されたディルベインは、最後の瞬間まで肘掛に頬杖をついて胡乱な瞳を向けたまま一切の身じろぎも見せなかった。
こうしてラシュバーンの意識は、王、そして自身の身に何が起こったか把握することなく闇に沈んだのだった。
ラシュバーン:元はディル皇国の筆頭将軍でしたが、セプテクトの台頭により蟄居させられていたのは本文にもあるとおりです。
元々ガンドルスとも先の大戦で知り合っており、戦には倦んでいたので蟄居には素直に従ったのですが、それがセプテクトの計略だと気づいたときには手遅れでした。
慌てて皇子や、その私兵となる魔人族を囲い込むことは出来ましたが、彼にできたのはそこまででついには将軍職とは名ばかりの扱いにされてしまいます。
このままでは皇子も危うい、と考えていたところにネクロたちからアグストヤラナへ亡命させることを進言され、親しくしていた彼らの反応から信頼できそうだと判断したラシュバーンは最後の奉公と王へ直訴することを覚悟するのです。
その結果は…




