第25話-2 夜襲
ルークが保護されてから六日後、約束の日の前日。
アベルたちは指定の地――ディル皇国からほんの少し離れたところにある、人気の無くなった街道へ転送されていた。
転送球は、使用した場所から好きなところに飛べる代わりに逆は使えない。そのため転送陣を使用することになったわけだが、転送陣での転送はあらかじめ目的地に専用の陣を設けておく必要があり、畢竟そこから目的地に向かうまでは自力での移動を強いられる。
夜を迎え、急速に冷え込んでいったためアベルたちは外套の襟を立てて進んでいる。 ほんの数日前まで真逆の気候に身を置いていたが、三年間みっちり鍛えたアベルたちには何ほどのことも無い。
尾根や木々はすでに漆黒に染まっており、まだ明るい空に気の早い一番星がすぐ傍を流れる小さな沢の向こう、西の稜線の上に出ている。見慣れない生き物がうろついていることで警戒してだろうか、もうじき日が完全に落ちるというのに蜷局をまく鳥たちのじゅい、じゅいと喧しく騒ぐ声が鳴り止まない。
しばらくはその沢沿いに下り、谷を抜けた先にある小高い丘。そこが今回の目的地、ムクロたちと落ち合う予定の場所だ。
アベルたちは出来る限り足音を立てないよう、下生えのまばらなところを選んでは早足で先を急いだ。久しぶりにムクロに再会できるという気持ちが拍車を掛けていたことは否定できないだろう。
まばらに布置される、箒を逆さに立てたような針葉樹のうち一本の梢に、いつしか昇っていた蛾眉が煌々とした白光を放ちだしたところで先頭を行くアベルが足を止め、指示を下した。
「よし、今日はこの辺で休むことにしよう」
今いるところは緩やかな斜面になっていて、すぐ下が半円形の窪地になっている。そこの南西側は水が染み出ている扇状の泥地になっていて、そこから沢に合流するための小さな流れを作っていた。土が全体的に湿っており、この上で寝るのはなかなか冷え込みそうだ。
中心に薪を組み、目立たない小さな火を熾すとアベルたちは各人思い思いの場所に寝床を作るべく散開する。天幕は斥候に見つかることを恐れ使わない。
アベルが選んだのは少し斜面を昇ったところ、樅の若木が生えだしているやや平たい草地だ。日当たりが良かったのか、ここは周囲に比べ比較的乾燥している。
そこから小石や実生の若芽を避け、地面を軽く足で均してから荷物を置く。寝てる間に泥地へ転がり落ちないよう、体の下に適当な枝を敷いて即席の寝台にすることも忘れない。
そうやって準備の出来たものから順次薪の傍に戻った。
最初に作業を終えた者が、行軍の途中で狩った一角兎の肉を切り分ける。受け取ったものは細い削り出しの枝に突き刺し、焚火を囲みながら思い思いに炙り出した。
ほどよく焼けたと思う傍からソイユの汁を掛けてむしゃぶりつくが、一角兎は結構大ぶりの身をしているので、齧っては焼き、齧っては焼きを繰り返す。ソイユの汁の焦げた香りがほの苦い抑揚となって舌を楽しませた。
一通り食事を済ませ、道具の手入れを済ませた者から寝床に戻っていく。最後に火の始末をするため残っていたアベルは、明日の朝すぐに使えるよう、軽く灰を被せ燠火が燃え尽きないように調節する。
「ねえ、アベル。ちょっといいかしら」
保持作業を終え、いざ寝ようと寝床に潜り込んだところでリティアナから小声が掛けられた。
彼女はアベルの少し左上に位置したところでうつ伏せになったまま、何か言いたげにアベルを見つめていた。
「リティアナ、まだ寝てなかったのか?」
リティアナにあわせアベルも小声で返した。他の仲間たちはもう寝たのか、寝息しか聞こえない。
「ええ、なんか色々考えてしまって」
ごろりと横向きになったリティアナは頬杖をつくとアベルと視線を合わせた。
「そうか…無理も無いよな、明日…いや、もう今日かな。これから僕たちが会う人が戦争を終わらせる鍵を握ってる、だなんて話…未だに僕も信じられないよ」
「ええ、わたしも」
リティアナもこくりと頷く。
「一昨年までは、こんなことになるなんて想像もつかなかったわね」
遠い昔を懐かしむように、リティアナの目が細められた。 たった二年前のことなのに。
「うん。あの頃は君に会うことや、ルークと戦うことで頭が一杯だったしね」
「そういえばそうだったわね」
「当初はずいぶん冷たくなったと思ったっけ」
リティアナが口を尖らせた。
「…悪かったわね。そういうあなたは、なんて野蛮なのかしらとわたしは思ったわよ」
「そ、それは言わないでくれよ。お互い様ってことでさ」
「そうね」
当時のことを思い出し、くすくす笑いあう二人。
「まあ、実際にはあまり変わってなかったわけだけどさ」
「あら。それは喜ぶべきかしら、それとも嘆くべきかしら?」
アベルはわざとらしく視線を反らすに留め、その顔にリティアナは思わず噴き出しそうになった。
「…来年の今頃、わたしたちはどうなってるのかしらね」
アベルには勿論判るはずもない。だから、何となく思い付きを口にした。
「案外、今のようにこうやって仲間と一緒に冒険に出てるんじゃないかな。というより、他には思いつかないや」
リティアナの口角がわずかに上がった。
「アベルらしい返事ね」
「…僕、変なこと言った?」
不安げに尋ねるアベル。
「ううん。逆よ。とても素敵だと思うわ」
そうやって穏やかに微笑みかけたリティアナと見つめあったアベルは、冷たい夜気にも関わらず頬が熱くなるのを覚えた。
「えぇと、その…ありがとう」
心臓の鼓動が早くなったのが自分でも判る。
気恥ずかしくなったアベルは慌てて包まっていた外套を引き上げ、顔をリティアナから見えないようにした。
「アベル、急にどうしたの」
「あ、明日は早いからさ…」
くすっと笑う声が聞こえたような気がした。
「分かったわ。そうね、もう遅いもの…」
そういうと、外套の擦れる音がした。リティアナも、就寝に向けて外套を引っ張り上げたようだ。
ほっとしたような、それでいて何故か失敗したような気持ちになった矢先。
「今のは?!」
アベルは甲高い金属の打ち合う音を聞いたような気がして身を起こした。
がば、と跳ね起きたのはアベルだけではない。リティアナ、そしてユーリィンもだ。ユーリィンは狸寝入りしていたようで言いたいことは色々あったが、一先ず今は置いておくことにする。
「二人も?」
「ええ…気のせいかと思ったけど」
「はっきり聞こえたわ。剣の切り結ぶ音ね」
ユーリィンが断言するなら聞き間違いでは決してない。今彼らのいる付近で戦いが起きているのだ――恐らく、ムクロたちと追手との戦いが。
「二人も起きろ!」
大きな声を上げながらアベルは素早く立ち上がり、外套を羽織る。同様に、ユーリィンとリティアナも身支度に取り掛かった。
「んぁ…なぁにぃ? もう朝? ご飯?」
「寝ぼけてるなよリュリュ! これから合流地点へ急ぐぞ」
「な、何事ですの一体?」
「襲われてるのよ。ムクロたちが」
リティアナの言葉に、ようやく頭のはっきりしたリュリュたちが驚きに目を丸くした。
「ええっ?!」
「だから急いで準備をして! とりあえずは武器と防具だけでいいわ」
「え、ええ、判りましたわ」
押っ取り刀で装備を身につけたアベルたちは夜闇の中を駆け出していく。暗い中、抜剣したアベルとユーリィンが先を行き、二人の剣先へリュリュが小さな炎を灯して後続の灯りを確保する。
時々進行に邪魔な枝を切り払いながら進むと、微かなせせらぎの中に混じる争闘音が、次第にはっきり聞こえてきた。
「あそこだ!」
剣と剣の交差する音、喚き声、そして何者かの吼え声。ぬかるんだ道が岩と小石の川原に変わる頃、ようやくアベルたちは目的の戦場へ飛び出した。
「くそっ、手遅れか?!」
「いえ、まだよ!」
すでに丘の上では入り乱れた十数人が石を蹴立てて剣を振っており、混迷を極めている。一方は真っ黒な頭巾つきの外套をまとい、もう一方は甲冑を纏っている。
的を外した矢が混戦の中から飛んできたが、それにいち早く気付いたユーリィンが叫んだ。
「みんな、このまま進んで! ”風よ、我等を護る障壁となれ!”」
アベルたちの身体に纏った風によって流れ矢がそれていくのを尻目に、アベルたちは戦っている者たちへ声が届く距離へ辿り着いた。
「ムクロ! いるか!」
剣を振り回す彼らは足元に投げ捨てた松明によってぼんやりと照らされており、そのため肩章で所属を見分けることはできそうにない。夜目の利くユーリィンであっても、そこから顔見知り一人の顔を探すのは至難の業だ。
やむを得ず、アベルは皆に向かって目配せすると真っ先に単身戦陣へ身を躍らせる。
「こちらはアグストヤラナのハルトネク隊だ! 救助に来た!」
突然の乱入者に、両勢力ともにようやく気づいたようだ。その合間を大音声あげつつ突っ切っていく。これで切りかかってくる者だけ相手取れば良い。
さっそく右手から甲冑を身に着けている兵がこちらに突っ込んでくるが、剣を弾き飛ばしてから足払いを掛けて転ばせる。それでも尚斬りつけようとするのでやむなく手首を切り飛ばすと、そいつはぎゃっと悲鳴を上げてうずくまった。
「自分の身を守ることを優先しなさい! 深追いしないで!」
仲間たちも各自戦いに入ったようだ。リティアナが叫ぶのがどこか遠くに聞こえる。
「アベル、危ないっ!」
左手で爆炎が上がり、熱風がアベルの髪を撫でた。後ろから切りかかってきた相手をリュリュが迎撃したらしい。その火灯りに一瞬、周囲の兵たちがひるんだ。
「こいつら!」
明るくなったことで相手の姿をはっきり認識したアベルが叫んだ。
火に浮かび上がった襲撃者たちは増援を強敵と見て取ったか、鎧こそ襤褸切れの如く申し訳程度に付けているものの蝕腕や六対の脚といった、いずれもドゥルガンのような異形の姿へ転じている。
「こいつらが敵だ!」
飛び掛ってくる敵を右に左に打ち払い、また魔法で蹴散らしながら合流したアベルたちは一丸となり、鋒矢の陣形となって戦場の中心へと突き進んでいった。
先頭のアベルが敵の攻撃を防ぎ、その隙を縫って突きこまれた槍の螻蛄首をすぐ後ろにつけたユーリィンが抜く手も見せず斬り飛ばす。左右から押し寄せる攻め手はリュリュが操る炎の魔法で薙ぎながら、なおも切りかかる者をリティアナの光の鎖が絡めとり、とりこぼした相手はクロコとリュリュで翻弄しながらレニーが槍で突き倒していく。
その隙を見せない戦いぶりに、はじめて敵側が動揺を見せた。
「いまだ、押し返せ!」
低い男の声がびりびりと夜気を震わせる。戦の潮目が変わったことに気付いたのだ。
「アベル、こっちだ!」
「ムクロ!」
アベルは聞き覚えのある声を確かに聞いた。そちらに向かうよう仲間たちを誘導する。
その動きにつられ襲撃者も、一丸となってアベルたちの方に向かってきた。
「いた!」
激戦の中互いの顔が良く見える範囲まで辿り着いたところで、アベルを認めたムクロが自身の頭巾を後ろへ剥ぎ取った。緑色の蓬髪が月明かりにひかめく。
「よし、これでいけるぞ!」
心強い救助者を視認できたことで、それまで疲労で押し込まれていたムクロ一派も萎えかけていた気力を再び取り戻した。
「みんな、援護頼む!」
ムクロが三人を相手取っているのをさっと見て取ったアベルはそう言い残し、単身飛び込んでいく。遅れて残った仲間たちはその場で散開し、アベルが追撃されないよう周囲に壁を作って各自敵を相手取った。
「遅れてごめん!」
つばぜり合いしているムクロに切りかかろうとしている兵の剣を跳ね上げ蹴り飛ばし、そこへ無理やり体を割って入りながらアベルが謝罪すると、ムクロはにやっと口角を吊り上げた。
「なに、暇つぶしには困らなかったから問題ない」
その皮肉に、アベルも思わず笑った。
「ははっ、違いない!」
そういうと、対手の剣が振り下ろされる直前二人がぱっと飛び退る。相手を見失いうろたえる兵の隙を付き、アベルとムクロの攻撃が相手の急所を的確に捉えた。意識を刈り取られ、ぐんにゃりとする兵を適当に蹴り飛ばしながらムクロが嬉しそうに声を掛けた。
「ふ、少し見ない間に腕をあげたな」
アベルも負けていない。
「そっちこそ、腕が落ちていないようで安心したよ!」
「言うじゃないか」
離れていたにも関わらず、ぴったり息を合わせて背中を預けながら戦う二人のやり取りに、少し離れたところで戦っていたネクロが不満げに鼻を鳴らした。
「おい、再会を喜ぶのはわかるがもう少し回りを手伝ってくれよ」
「ご、ごめん」
謝りながらアベルは周囲の状況を確認する。ネクロの後ろ、少し離れたところで白銀の髪をした男が数人の兵を相手に渡り合っている。その男の動きを見るに、背後に誰かを庇っているようだ。
どうやらその人物こそが敵の狙いらしいと悟ったアベルは対手の剣を受け止めると、力いっぱい押し返す。相手は突き飛ばされ、後ろの敵もろともどたりと転んだ。
その隙をついて、アベルは救援に向かった。
「助太刀します!」
叫びながら剣を左右に大きく二振りして二人の兵士に手傷を負わせ、爪を振り下ろそうとする三人目の攻撃を剣の根元でがっきと受け止めた。
「おお、君がムクロの言っていた…すまぬ、恩に着る!」
庇うように戦っていた男が長大な剣を振り回しながら嬉しそうに礼を述べる。よくよく見ると、頭にグリューのような角が生えている。竜人族らしい。
落ち着いた低音の声から温和な人柄に見受けられたが、その立ち居振る舞いからどことなくガンドルスに通ずる雰囲気をアベルは感じ取っていた。かなりの使い手と見て良さそうだ。
体勢を立て直した男が新手の首を斬り飛ばしたところで、ようやく追っ手側は逃走に転じた。退けぃという下知の声が上がり、千々に背を向けて逃げ出していくのをアベルは剣を納めながら確認した。
「逃げる相手には手を出すな! こちらも撤退の準備に取り掛かる!」
ムクロたちだけでなく、ハルトネク隊員も銀髪の男の指示に従い素早く負傷者の確認に入る。残念ながら、ムクロとネクロ、そして白銀の髪の男を除いた供回りは生き残れなかったようだ。
「すまない、僕たちが来るのがもう少し早ければ…」
アベルがそういうと、それまで竜人の後ろに隠れていた人物が姿を現した。
「いや…むしろ、そなたたちは良くやってくれた。礼を言う」
それは澄んだ青い瞳をした、金色の蓬髪をした人族の少年だった。
年のころはベルティナと同じか、それより少し上か。煌びやかな衣服もだが、何よりまるで女子と見まがうかのような端正な顔つきには気品があふれており、止ん事無い生まれの者であろうことが田舎者のアベルでも判った。
「御自らそのような言葉…」
「いや、良い」
ムクロに制止された少年は、自分よりはるかに年上のはずにも関わらず傍らに跪く白銀の髪の竜人を見やった後、状況を把握し切れていないアベルに向かい穏やかに答えた。
「諸兄らは本来敵である立場の我等の言葉を信じてくれただけでなく、こうして危難に現れ獅子奮迅の働きをしてくれた。なれば、王子としてそれ相応の礼節をもって対応するのが当然と言うものであろう、ムクロよ」
その言葉に、アベルたちは一様に耳を疑った。
今、なんと言った?
「…あの、ムクロ。王子って、どういうこと?」
リュリュがこっそりそう尋ねたのが耳に入ったらしい。少年ははにかんだような笑顔を浮かべてそちらに向いた。
「おお、これは失礼した、お小さい方。自己紹介が遅れたな。我が名はアリウス=ド=レラザール=ディルベイン。第一王位継承権を有す、正真正銘のディル皇国皇太子だ」
「ディル皇国の…第一王子?!」
アベルたちの驚きは一様ではない。
それなりに地位のある人物ではないかと言う推測こそしていたが、まさか皇国の王子だなどという大物中の大物が出てくるとは予想もつかなかった。
「そしてこの者はラシュバーン。ディル皇国第一将軍にして、余の後見人としてついてきてもらうこととなる」
その名に聞き覚えのあるらしいレニーが顔を引きつらせる。
「ラシュバーン…って、ディル皇国にこの人ありと恐れられたあの“銀鱗将軍”ですの?!」
ラシュバーンは微かに口元をほころばせた。その表情はどことなく、寂しげでさえあった。
「そう呼ばれたのは昔のことだ。今は第二将軍へ降格したただの隠居爺に過ぎぬよ」
アリウスが何かを言いたそうに口を開きかけるも、ラシュバーンは小さく首を振りそれを止めた。
「え?! あれ?! で、でも待って! そうすると、あいつら自分たちの国の王子様を襲ってきたってこと?! 何で?!」
混乱して口をついて出たリュリュの言葉に、アベルは頭を殴られたような衝撃を受けた。
その通り、確かに追っ手が掛かるのは理解できる。だが、あの気迫を見るに取り返すというよりも殺しに掛かってきていたようにしか見えなかった。
「それに後見人って…確か、ディル国の王はまだ存命だったはずじゃなかったかしら?」
リティアナも首を捻っている。
「その辺りは色々あってな。詳しいことを話すなら、時間も掛かるから安全なところへ転送してからにしたいんだがどうだい? いい加減、温かい飲み物でも飲んで一息つきたいぜ」
動揺を収めるようにネクロが口を挟んできたが、軽口の内容はともかくとして確かにもっともな話である。ここでのんびりしていたらいつまた追撃を受けるとも限らない。
「分かった。それじゃあ転送球を使うから、みんな集まってくれ」
指示に従って一同が一塊になる中。
「ラシュバーンさん?」
唯一ラシュバーンだけはその場に立ったまま動こうとしない。不審げに見返る全員に聞こえるよう、彼ははっきりした口調で告げた。
「王子、それに皆さんも。私はここに残ります」
彼の言葉に、アベルたちは驚いた。
「だ、だめだ!」
そして、驚いたのはアリウスもだった。
「そのようなことをすればそなたの身がどのような危険な目に合うやも知れぬ! ならぬ、ならぬぞ! そのようなこと余は許さん!」
彼もまた、今始めて聞いたのだろう。はじめて気色ばんだアリウスに、ラシュバーンは柔和な笑みを返した。
「このような老骨に暖かいお言葉、誠に痛み入ります」
「ならば我と共に…」
「失礼」
アリウスがすべてを言い終える前にラシュバーンの右手が動いた。
うっと小さく呻いて意識をなくした王子を抱きとめると、ラシュバーンはアベルに向かい言った。
「済まぬな、見苦しいところをお見せした」
「…良いんですか?」
アベルは王子の気持ちを慮り再考を促したが、ラシュバーンは静かに首を振った。
「元よりそのつもりだったからな」
「でも王子が…!」
尚も言いさしたアベルの肩に手が置かれる。振り返ると、ムクロが黙ったまま首を振った。ムクロはラシュバーンの決意を知っていて止めなかったのだ。
「優しいな、君は。息子たちが君のような好漢に出会えたことを心より感謝する。ありがとう」
そう礼を言うと、ラシュバーンは意識を喪ったままのアリウスの頭をそっと撫でた。アリウスの頬には、真新しい涙の筋が残っている。
「王子はお優しい方だ。きっとこのように言われると思っていたが…やはり、目の当たりにすると辛いものがあるな」
ラシュバーンはぽつり、辛そうに漏らした。
「どうしても、行かれるんですか?」
ムクロに止められても尚どうしても納得できないアベルに、ラシュバーンはもう一度頷いた。
「王はセプテクトと会ってから変わってしまわれた。本来ならばわしが王を諌めるべきであったが、力が及ばずこうまで戦乱が起きてしまった…」
「けどよ、それは将軍のせいじゃないだろ」
ネクロの反論にラシュバーンは首を振る。
「王の過ちを正すも家臣の務め。それが出来なかった今、わしのいる意義は無い。それに」
視線を地に落とす。
そこには、先の戦いで命を落とした部下が無念そうに目を見開き倒れ伏していた。その一人の元に屈みこむと、目をそっと閉じてやる。
「彼らを見捨てておきながら、将たるわしが真っ先に安全なところに逃げるわけにもいかぬよ。国にはまだ、まともな人々もいる。彼らのためにも今一度、王へ戦を終わらせるよう上奏申し上げるつもりだ」
この戦に出た兵たち、そして国許の民への想いが痛いほど伝わったアベルにはもはや掛けられる言葉が見当たらなかった。
ラシュバーン自身、王が聞く耳を持っていないことはわかっている。また、その先に待ち受ける未来も理解している上で、覚悟を決めたのだ。
「…判りました。それなら、これだけでも」
そういうと、転送球を手渡した。
「もし、誰か他にも助けたい方がいたときにお使いください。アグストヤラナへ直接転送できます」
未練である。
暗に、彼の亡命を促したが、 ラシュバーンはしっかり転送球を握り締め、
「かたじけない」
そういうと、頭を下げただけに留めた。そして自分のことの代わりに、王子の身を案じて言った。
「何卒、王子のことをよしなに…」
「…僕に何ができるかはわかりませんが、きっと王子の身はお守りします」
そんなことしか言えぬアベルは、自分の無力さが歯がゆかった。
「すまぬ」
次いでラシュバーンはムクロとネクロに向き直る。
「お前たちも…今まで汚れ役ばかりさせてしまったのに、これから更なる艱難を押し付けることになってしまうだろうな。すまぬことをした。不甲斐ないわしを恨んでくれ」
「いえ…」
ムクロが首を振り俯く。 声が、微かに震えていた。
「将軍、あなたに拾っていただいたおかげで、我々は日々の糧を得られ、また母は天へ安らかに旅立つことができました。感謝の言葉もありません」
それまで生き残りの敵兵に止めを刺していたネクロも後ろから口を挟んできた。
「まあ確かに汚れ仕事には回されたけどよ。あんたのおかげで前線になるべく立たずに済んだのはありがたいと思ってる。それにその采配のおかげで、こうして外に出るきっかけが得られた訳だからな。俺も恨んじゃいねぇよ……ありがとな、親父」
軽口めかしているが、灯火の加減だろうか。ネクロの目元もまた潤んでいるようにアベルには見えた。
「うむ。さあ、そろそろ行くがよい」
ラシュバーンはそっと二人の頭を撫でると、背を向ける。
「息災でな」
それだけ言い残し、ラシュバーン将軍はもう後ろを振り返ることなく森の闇へと歩み去っていった。しばし彼の後姿を見送っていた一行だが、
「…さあ、行こう」
やがてムクロに促され、アベルたちはアグストヤラナへと繋ぐ転送球を起動させた。




