第15話-3 アグストヤラナに来て以来最低最悪な時間
その日の午後は、アベルがアグストヤラナに来て以来最低最悪な時間だった。
昼食はまるで砂でも噛んだように味気なく、試験の疲労が倍になって圧し掛かる。
中でもリュリュの落ち込みようは酷く、夜になっても泣きつづけ目を真っ赤に腫らしていた。精神的負担が比較的ましなレニーが色々なだめようとしたが、すぐに掛ける言葉を失い途方にくれてしまう。
ムクロはムクロでいたたまれなくなったのか、しばらくは教室で椅子に座ってじっと塞ぎ込んでいたが、日が沈む頃に外へ出て考えごとをしたいと出て行ったきり帰ってこない。
ムクロを契機に、やがて誰ともなく教室を出て行く仲間たち。
最後にアベル自身も足取り重く自室に戻った。いつしか窓からの明かりは差し込んでいた夕焼けから、星明りに取って代わっていた。
内心、あれはユーリィンのいつもの悪ふざけだとアベルは思っていた。
頃合を見計らい、「やりすぎちゃったよごめんね」とか言いながら戻ってきてくれるはずだ…そう思ってだらだらと残っていたのだが、現実は無情だった。
「どうしてなんだよ、ユーリィン…」
ぼんやりと寝床に腰掛けたまま窓の外をなんと無しに眺めていたアベルだったが、彼の心は大食堂で交わしたユーリィンの言葉を幾度と無く繰り返していた。
「あの時、ユーリィンは躊躇い無くリュリュを攻撃した…」
排除すると宣言したときのユーリィンの目は真剣そのものだった。
それが、アベルには今でも信じられない。
ユーリィンは、リュリュと並びアグストヤラナに来て以来共に生活してきた仲間だ。
飄々とした風情でいつしか姉のように頼りにしていた彼女が、こんな形で唐突に袂を別つ宣言が齎した影響はアベルにとっても大きい。増してや、もっとも身近な存在だったリュリュにとっての衝撃はいかばかりか…想像するに難くないだろう。
本気でこれからは僕たちの敵に回るのだろうか…幾ら考えても答えが出るはずも無く、同じところをぐるぐる巡りつづけている。いい加減、考えすぎてずきずきこめかみが痛みだしたところでアベルは立ち上がった。
はじめは明日に備えて寝ようと考えたが、まだ気持ちが落ち着かない。
ムクロもまだ帰ってこないようなので、せっかくだから彼を探すついでに夜風に当たり、頭を冷やすことにした。
アベルはぶらぶら歩き、一階、いつもたまり場にしている教室へ向かうことにする。
「はずれ、か…」
ムクロ、或いは誰かがいるかも知れないと考えたためだが、 あいにく教室には暗い片隅で豪勢な鼻提灯を膨らませているダーダが大いびきをかきながら寝こけているだけで、人がいた気配は無い。
「お前はのんきでいいよな…まったく…」
苦笑しながら頭を撫でるとダーダは少し頭を揺らしたものの、起きる気配は無かった。
人気の無い教室のうら寂しさに昼のことをまた連想してしまったアベルは、再び気を紛らわすことに挑戦しようと部屋に戻らず今度は校庭へ寄り道することにした。
夜空には雲ひとつ無く、煌々と照らす月の銀光が無人の校庭を静かに照らしている。
「そういえば、少し前に比べて大分風が涼しくなったな…」
日中に比べると段違いに涼しくなった夜気が、アベルの使いすぎで熱くなった頭をようやく冷ましてくれるようだった。
昼間活気付いていた校庭が、今はしんと静まり返っている。
まるで別の世界に踏み入れたような、訳も無く心躍る感傷が押し寄せてきた。
どうせまだ寝付けないのだから、もう少し遠くまで歩いてみようか――そう決めたアベルは校庭の周囲に沿ってぐるりと歩きはじめた。
半分ほど回ったところで、ふとアベルは時間が気になった。
のんびり歩いてきたからそろそろ消灯の時間のはずだ。見回りの先生に見つかると面倒くさそうだな、そんなことを考えて正面の時計塔を見上げたアベルは自分の予想が正しいことを確認した。
「いい加減そろそろ戻ろったほうがいいな…ん?」
視線を下ろそうとしたときにちらと目の端に入ったものに違和感を覚え、もう一度視線を上げる。今度は時計板の真下の二階だ。
左右が暗い中、唯一そこの位置にある一部屋だけが仄かな灯りを漏らしている。窓の向こうで、影が動いたような気がした。
「あそこは…」
確か校長室だったはずだ。こんな時間にまで校長が仕事をしているのだろうか?
よく見ようと近寄ったところで、灯りが消えた。次いで部屋の窓が開き、そこから何か大きなものが飛び出してきた。
「えっ?!」
はじめは、大きな黒猫のように見えた。
真っ黒な衣服に身を包んだ人影が音も立てずしなやかに着地したからだったが、すぐにアベルはそれが黒装束を纏った人であることに気付いた。
「お前は誰だ!」
誰何されて侵入者はようやく目撃者がいたことに気付いたらしい。慌てて立ち上がった懐から、一枚の羊皮紙が転がり落ちた。
「物取りか!」
アベルが拳を固めて殴りかかると、羊皮紙を拾いかけた侵入者は後ろに跳び退って避けた。その反動で、顔を覆っていた黒頭巾が跳ね上がって顔が月明かりにさらされる。
黒に見紛う翠の髪がふわり夜闇に棚引く。
その顔をしかと見たアベルは思わず叫んでいた。
「お前…まさか、ムクロか?!」
仮面をつけていない闖入者の紫の瞳が驚きに見開かれたのも一瞬のことで、すぐに憎々しげにアベルをねめつけた。面立ちは端正だが、その口は堅くへの字に結ばれたまま一言も発さない。
「お前…」
身を屈めたまま、物取りが瞳から迸しらせる強い憎しみの感情に気圧されたアベルは駆け寄ろうとした足を思わず止めてしまった。
無言のまま互いに睨みあった一瞬の後、先に動いたのは黒尽くめの相手だった。素早く地面から砂を掴むと、それをぱっとアベルの目目掛けて投げつけたのだ。
「しまった!」
何か飛来した動きに対し反射的に目を瞑ったため、幸いにアベルは目を守ることができた。しかしその隙に侵入者はすばやく立ち上がると、一目散に森へ向かって駆け出している。
顔面を腕で拭い視界を取り戻したアベルが慌てて後を追うも、とうに相手は木立の中に飛び込んで夜の森に溶け込んでしまっていた。
しばらくは闇雲に追いかけたものの、すぐに追跡する技能も無いのに夜闇の森の中で黒装束の相手を探すのは不可能だと痛感させられるだけで終わった。
「くそっ、あいつ、なんでこんなことを…?」
校庭に戻ったアベルは悪態をつきながらも落ちている羊皮紙を回収した。本当にムクロなのか断言できないが、まずは校長へ報告しに行かなくてはなるまい。
「それにしても…一体何を?」
わざわざ深夜に忍び込んでまで盗み出そうとした書類が何なのか、興味を覚えたアベルは灯りの届く範囲まで戻るとさっそく手にしていた羊皮紙に視線を落とした。
「これを、ムクロが…? どうして…」
月の光で確認したアベルは、混乱の余りしばらくその場で釘付けになる。
手に残された羊皮紙には、特徴が詳細に記載されたリティアナの似顔絵が描かれていた。




