第4話-5 実戦
アベルたちが現れたのは、石造りの広場の高い石階の上だった。
そこから見下ろす風景は、本来なら南国特有の濃藍色の夏空を背景に白く浮かぶ波間の光景が印象的であったろう。しかし、今は違う色に染まっていた。
「ああ、フィルよ!」
呆然とするアベルの耳に届く、震えるユーリィンが信仰する神の名を呼ぶ声が遠くに聞こえる。他の仲間たちも、固唾を呑んだきり動けない。
広場から正面。
美しい栃の並木のある通りの先を見やると、木造の明るい色彩の古風な家並みの向こうには澄み切った湖畔が広がっている。
大勢の天人族がそこから続々と上陸しようとする化獣の群れを街に入れまいと懸命に戦っていた。しかし力及ばず、天人の包囲を押し破って侵入してきた二匹の巨獣が逃げ惑う女子供を追いかけ家並みを踏み砕きながらこちらに向かってきている。
たった二匹だけだが、それでも周囲に与えている被害は甚大なものだ。
その化獣の特徴的な姿に、アベルは見覚えがあった。
「あれは…陸王烏賊…?」
以前、アベルは酒のつまみにしようと市場で買ってきたというデッガニヒに陸王烏賊を見せてもらったことがある。
そのとき見た陸王烏賊はずんぐりむっくりした、大人の膝ほどもある陸生に進化した雑食性の軟体動物だった。普段は湖や川のほとりで暮らしており、身体を支える骨の無い八本足は筋肉質で触手というより太い脚だ(炙った物をお裾分けされたので食べたらなかなか美味だった)。ひっくり返したお椀のような、石灰質の甲殻にすっぽり覆われている上体もそっくりである。
ただ一点。その大きさがアベルが見たそれと比べるべくも無い。
二階建ての建物をゆうに越える大きさは自然に育ったものでは到底あり得なく、化獣化している何よりの証左だった。
大木のような八足を繰り出し逃げ惑う人々を追い掛け回しては、人の胴回りほどもある太さの蝕腕で天人を転がる家の残骸と一緒くたに絡めとり、体の下側にある口元へ運び入れる。何もかもまとめて噛み潰すごりごりという気分の悪くなる咀嚼音は、喰われている天人の悲鳴と併せて遠くにいるはずの四人にまで届いていた。
「ひぃっ」
生々しい惨状に青ざめたリュリュが尻餅をつく。ユーリィンも、呆然と見ているアベルの隣で顔を青ざめて立ち竦んでいる。
真っ先に我に返ったのは、ムクロだった。
「おい、アベル! お前まで呆けてどうする!!」
肩を強く揺さぶられ、アベルも我に返った。
「あ、ああ」
「いいか。よく聞け。ここは戦場だ! 俺たちはこれから何をするべきか、全員が無事に学府へ帰るにはしっかり方針を決めないとならない。…判るか?」
普段より、ややゆっくりめに喋るムクロ。意図して遅く聞かせることにより、それを聞くアベルに思考するゆとりを設ける為だ。 その意図を悟り、アベルはしっかり頷いてみせる。
「…そうだね。ありがとう、もう大丈夫だ」
アベルがいつもの調子を取り戻したと看て、ムクロも普段の口調に戻った。
「この後、俺たちはどうする? 撤退か、或いはあれと戦うか…この班をまとめているのはお前だ、俺たちはアベルの指示に従う」
それまでのやりとりでアベルを注視したユーリィンとリュリュも力強く頷く。
「そんな、僕にできるとは…」
「いや、お前だからこそだ」
ムクロが珍しく強い口調で断言する。
「力量に勝る相手でも諦めず、戦いの方策を探り出す。そんな戦い方はお前しかできないんだ。俺に勝ったときのことを思い出せ!」
「…判った」
どうするべきか、必死に思考をめぐらす。果たして自分達はどうすべきか…
その間情報を少しでも得ようと視界をめぐらしてみる。戦える天人は食い止めるだけで手一杯なのか、街の中に突入してしまった陸王烏賊と戦おうとする者はいなかった――只一人を除いては。
孤軍奮闘している天人の少女の姿にアベルは気がついた。
「レイニストゥエラ?!」
聞き覚えのある名前に、仲間たちもアベルの視線の先を向いた。
遠目だが、蒼い髪の毛を翻して宙を舞う姿は間違いない。
レイニストゥエラは長槍を手に二匹の陸王烏賊の意識を惹く様に飛び回っていた。
残念ながら一匹は逃げる天人たちを追うことに決めたようだが、残ったもう一匹は周囲をうるさく飛び回る邪魔者を先に片付けることにしたようで、蝕腕を振り回して叩き落そうとしている。それを華麗に避けながら胴を幾度も刺すが、ぶ厚い甲羅に邪魔され決定打を与えられないようだ。
「あれなら僕たちが加勢する必要は無いかな…」
ならばまずは逃げ遅れてる人を救助するべきと判断したアベルたちは改めて周囲を見渡した。
「あれ?」
妙な人影にリュリュが気付いた。
「ねね、アベル。あの人…ちょっと変じゃない?」
リュリュの指し示した方角を眇めて見て、アベルもその人物に気付いた。
彫刻を施した巨大な石造りの迫持が目立つ広場の外れだ。
大勢の人々が街の中心から外へ向けて逃げ出している中、灰色のゆったりした外套を着たその人物は頭巾を目深に被ったままその場に立ち尽くしている様子が殊更目を惹く。
「何やってるんだろう、あんなところで」
少なくとも、逃げる人を先導しているようには見えない。逃げる人々はまるで岩に沿って流れる渓流のように、自然とその眼前で左右に分かれているのが印象的だ。
二人の様子に気付いたユーリィンも隣で目を凝らすと、あっと声をあげた。
「魔素がうねってる! あいつの周りで!!」
「見えるのか?」
ユーリィンは力強くうなずいた。
「ええ。あたしたち森人は感覚がするどいのよ。意識を集中させれば魔素も見えるわ」
「あいつが陸王烏賊の邪魔をしているという可能性は無いのか?」
最後にやってきたムクロの言葉に、ユーリィンは首を振った。
「逃げる様子も無い…怪しいな」
ムクロの意見にアベルも頷いた。
「そうだね。まず、あいつを捕まえよう」
そう宣言した矢先、どぉんと重い音が響くと同時に足元を揺れが襲った。
「な、なんだ?!」
音の発生源は、レイニストゥエラが相対している陸王烏賊だった。
アベルたちが聞いたのは、うろちょろ飛び回る獲物に業を煮やし、一度大きくのけぞってから両前足を地面に打ち付けた音だ。たっぷりの重量を受けた石畳は薄氷のように砕け散り、細かい無数の破片がレイニストゥエラの身体を襲う。
咄嗟に身をこごめて致命傷は避けられたものの、小柄なレイニストゥエラは瓦礫の山へと吹き飛ばされた。このままでは陸王烏賊が彼女へ追撃するのは時間の問題だろう。
一瞬、どちらを優先すべきか迷ったが。
「みんな、まずはあいつを倒す! レイニストゥエラを援護するんだ!!」
決断を下したアベルは剣を抜いて走り出す。ムクロたちも、返事をするより早く後につづいた。
アベルが足元に駆け寄ったとき、ちょうど陸王烏賊は瓦礫の中に倒れて気絶しているレイニストゥエラを見つけ触腕を伸ばしたところだった。
「やらせないっ」
アベルは懐に飛び込みざま、足の一本を内側から力の限りなぎ払う。断ち切ることは無理としても、中ほどまでは断ち切れる…そう思っての一撃だったが。
「硬い?!」
わずかに剣は刃をめり込ませただけで、有効打というには程遠い。それでも、意識をレイニストゥエラからこちらに向けさせることには成功したようだ。 ぐおおお、という新たな邪魔者が現れたことへの怒りの唸り声が胴の中央にある鳴嚢から発される。
そのまま踏み潰そうとする足を避けつづけるアベルの視界の端に、闖入者に気づいた頭巾の人物が逃げ出すのが見えた。一瞬後を追いたい欲求に駆られたアベルだが、陸王烏賊の脚を避けることに専念している間に姿を見失ってしまった。
しまったと臍を噛んだがこうなっては仕方ない、アベルは眼前の敵をなるべく早く倒すことに専念することに気持ちを切り替えた。
「ムクロは僕とクロコと並んであいつを包囲して注意を惹くんだ。リュリュはその間に彼女の気付けを頼む。ユーリィンは弓で奴をけん制してくれ」
その指示に従い、仲間たちが散開して己の仕事に取り掛かる。
新たに近寄る敵を確認しようと、陸王烏賊は触腕のすぐ上にある小さな頭部から細長い触覚を伸ばし、先端に小さくついている眼球を向けた。そのすぐ眼前を横切るようにクロコが飛び回り、すばやい動きで翻弄すると陸王烏賊は煩わしそうに触覚を振る。
その隙をついたアベルとムクロは、素早い動きで視界を遮断するクロコを中心に左右に展開すると、同時に足に剣を叩きつけた。
「こっちはもう大丈夫!」
リュリュの呼びかけに、アベルは内心安堵した。例えあまり好きじゃない相手でも、見知った顔が死ぬのはやはり良い気持ちでは無い。
「よし、それじゃあ後はこいつを片付けるだけだ!」
そう言ったものの、実際にはそれは簡単ではなかった。
陸王烏賊は動きこそ鈍重なものの、とにかく頑丈なのだ。
足を幾ら切りつけても一向にひるまず、逆に怒りに猛って暴れまわるため胴体に向けて攻撃することすらままならない。陸王烏賊は底抜けの体力で暴れる一方なのに対し、アベルたちは一撃まともにもらおうものなら大怪我は免れないだろう。
やがてかわし続けるアベルたちに疲労の色が濃く出はじめてきた。
「ああっ、クロコが!!」
最初に包囲網にほころびをつくったのは、クロコだった。リュリュの与えた魔素が切れ、動きが鈍くなったところへ触腕の一撃がかすめたのだ。
掠めただけでも、小さな人形を跳ね飛ばすには余りある。視界をちらちら遮る小ざかしい邪魔者がいなくなった今、左右に伸びた陸王烏賊の触覚がムクロとアベル、二人の姿を確実に捉えた。
「くっ」
今度はムクロに狙いを絞った陸王烏賊が執拗に踏み付けて追い詰めようと試みる。ユーリィンが足を狙って矢を放つが、刺さっても痛痒を感じないようで動きを止めるには至らない。
「させないっ」
アベルは背を向け、傍にある家の残骸となった壁に向けて走り出す。激突しそうな勢いそのままに飛び上がると、壁の裂け目を選んで四、五歩と駆け上がる。ムクロの頭より高くなった位置で身を翻し、剣を逆手に持ち替えながら甲羅めがけ自身の体ごと叩き付けると、陸王烏賊は滅茶苦茶に暴れて振り落とそうとした。
「うわっ、たっ、とっ」
転がり落ちるようにして飛び降りたアベルの剣先、三分の一ディストンが陸王烏賊の体液で青くぬらぬらと塗れている。アベルの攻撃は致命傷といかないまでも、それなりに効果があったようだ。
傷を与えたアベルに怒り狂った陸王烏賊が叩き落とそうと攻撃の矛先を変え、せまい場所に追い込まれ逃げ場を失いつつあったムクロはかろうじて危機を脱した。
「すまん、助かった!」
「だけど、今度はアベルが!」
矢を撃ち尽くしたユーリィンが駆け寄るが、他の武器を持たない彼女はどうすることもできない。藁にもすがる思いで何か打てる手は無いかと周囲を見渡していた。
「ぜえっ、はあっ」
一方回避に専念している間も、アベルは何か手が無いか必死に思考をめぐらしていた。 ムクロより若干余裕があるのは、ここ最近の過剰とも言える鍛錬の成果と言えよう。
「胴体さえ攻撃できれば、何とかなるはず…」
剣で傷をつけられたことが、倒せない相手でないことを示している。しかし、今のままではこれまでと変わらない。
先の手は使えるかも知れないが、 体重を込めてもひるむ程度では多少の傷は与えられても一撃で絶命させることはできない。もっと重い攻撃を当てるようにしなくては…
「危ないっ!」
どおん、という爆発音でアベルははっとした。わずかな隙を突いて彼の左手からにじり寄っていた触腕が、火球に包まれた音だ。
やや遅れて放たれた水の球が、今度は右手の背後から伸ばされた別の触腕を弾き飛ばした。立て続けに邪魔された陸王烏賊が怒りの咆哮をあげた。
触腕の粘液に阻まれた火の球が火勢を落としたところで水球を浴び、完全に消えてしまう。熱と冷気がじゅっと音を立てて互いの熱量を食い合い、大量の蒸気と化して周囲を包んだ。
「ああもうっ、よく見えなくなったじゃん! 邪魔しないでよ!!」
先刻援護にリュリュが火球を放ったのにわずかに遅れ、先端の折れた槍を支えに立ったレイニストゥエラが水の球を放ったのだ。リュリュが怒鳴ると負けじとレイニストゥエラも怒鳴り返す。
「そういうあなたこそ、私の攻め手を打ち消さないで下さいまし!」
二人に仲間割れはやめてくれと言い掛けたアベルの前で、今尚互いが放った互いの術を打ち消しあうようにしてぶつかり、散発的に真っ白な湯気の塊が出来ては消えていく。
それを見て、アベルにはふと思いついたことがあった。
「リュリュ、レイニ…っ、今のをもう一度…」
頭上に迫っていた陸王烏賊の連続足踏みをアベルは辛うじて転がってかわしながらも指示を出すが、瓦礫の砕ける音に掻き消されてしまった。 何とか指示を出したいが、体勢を崩したアベルは避けるので精一杯だ。
「何!? どうしたらいいの!?」
リュリュの悲鳴にも似た質問に応じたのは飛散した瓦礫から身を起こしたユーリィンだった。彼女の鋭敏な聴覚は、アベルが叫んだ言葉をしっかり捉えた。
「リュリュ、それにレイニストゥエラ。あたしの指示に従って、合図したらあの烏賊野郎の鳴嚢へ同時に全力で天幻術を撃って!」
その命令に、レイニストゥエラがあからさまに不快そうな顔をした。
「私に命令なさらないで!」
それでも、彼女もまた狙いを察し右手を向けて準備に入る。リュリュも同様、いつでも撃てるよう詠唱を呟いていた。
「三…二…一……」
ユーリィンはアベルの奮闘を無駄にしてはならないと全力で耳を澄ます。
そして、遂にその機会を捉えた。
「今だ!」
真正面に捕らえたアベルを渾身の力で叩き潰そうと前の二本足を持ち上げた瞬間を狙い、火の球と水の球がほぼ同時に同一点に叩きつけられた。
陸王烏賊は鼻っ柱に強い衝撃を受けて驚くが、すぐにそれが自分の命を脅かすものでないと判断する。事実その通りだったのだが、標的から視線を外したのが運命を決した。
火球と水の球はお互いにぶつかり合い、その力の大部分は陸王烏賊に傷を負わすよりも互いを相殺するのに使われる。結果、大量の水蒸気となって辺りに飛散し、周辺を包む煙幕となった。
「ここ…だあああっ」
陸王烏賊が見失った隙に腹の下にもぐりこんだアベルが、裂ぱくの気合を放つ。
すでに剣を右肩に担いだ得意の構えを取っており、陸王烏賊の真下にある口吻の真横へ全力を持って叩きつける。
剣は思っていたより柔らかな陸王烏賊の腹にあっさりとめり込んだ。
「まだまだぁっ」
剣が肉に引っかかってこれ以上は振れないとなると、今度は膝のばねを使って上に向け突き上げる。
ずぶずぶと真っ青な血をまき散らしながら、剣は鍔元までめり込んでいった。
「アベル、手を伸ばせ!!」
いつの間にか傍まで近寄ってきていたムクロの手が眼前に差し伸ばされた。深く考えるより先にその手をとると、意外と強い力で外へ引っ張り出される。
次の瞬間、一声汽笛にも似た大きな咆哮を上げたかと思うと、アベルがいた場所に力を喪った陸王烏賊の体がぐにゃりと崩れ落ちた。
「やった…のか?」
陸王烏賊は触腕をだらんと投げ出し、ぴくりともしない。あれだけ力強く動いていた八本足も、しつこく獲物を探していた触角も今は動く気配すら無い。
アベルたちは、陸王烏賊の化獣を仕留めたのだ。
「は…はは、やった…んだ」
「ああ…」
アベルはフラフラと足をもたつかせる。同じく支える力も残っていないムクロともたれるようにして、その場にへたり込んだ。
「やったわね」
駆け寄るユーリィンたちの声も明るい。
「…お礼なんて言いませんわよ」
いつのまにか仲間の輪の傍まで来ていたレイニストゥエラがむすっとした声で宣言したのを聞いて、アベルは一瞬あっけにとられたものの。
「いいよ、そんなの。こっちだって勝手にやったことだし」
気付くと笑顔でそう返していた。
「…そう」
レイニストゥエラもそれだけ言うと、その場にへたり込んだ。
「…良かった…本当に、良かった……」
それ以上、彼女の方を向くものはいなかった。
「あ、そうだ、クロコ! クロコ取ってこないと」
ようやく思い出したリュリュがクロコの飛んでいった辺りへ向かったのを見て、ユーリィンは苦笑した。
「どこだよもぅ~…あ! あったあった、あぁもう、腕が取れかけてるじゃん…」
「あんたねぇ、もう少しはやく思い出してやりなさいよ。あんたの相棒でしょ」
言いながら首をめぐらしたところで、ユーリィンは言葉の変わりに息を呑んだ。
「リュリュ!」
アベルたちが気付いたときには、手遅れだった。
いつの間にか、残ったもう一匹がクロコを抱え起こしているリュリュのすぐ傍まで来ていた。リュリュよりもはるかに大きい足が振り下ろされる瞬間を、アベルたちはコマ落としのようにゆっくりした動きで見ているしかなかった。
「《止まれ》」
次の瞬間、静かな、それでいて異様な威圧感を含む女の声をアベルたちは耳にした。
その影響が顕著に現れたのは陸王烏賊だった。
振り下ろした足はリュリュの鼻先でぴたりと、まるで空間自体に釘付けにされたように止まっている。
拭き起こされた風によって巻き上げられた前髪がふわりと降りたところで、ようやく我に返ったリュリュは慌ててクロコを抱えたままおたおたとその場を離れた。
リュリュが安全圏に逃れたのを見届けたところで、アベルは先の声の主を探した。
「じっとしていなさい」
声の主はリティアナだった。
アベルたちが転送してきた石階から大股で近づいてくる。その右手に大きく張り出した護拳から垂れている、大人の腕ほどの太さもある鎖が一際目を惹いた。
「で、でもあいつを何とかしないと」
「必要ありません」
「あいつを放置するつもりですの?!」
レイニストゥエラの悲鳴にも似た叫びを、リティアナは冷たい視線で受け流す。
「いいえ。余計なことをするな。そう言ってるの」
それだけを言うと、リティアナは未だ足を振り上げたままの陸王烏賊に向き直る。アベルは、澄ました彼女の瞳が怒りに燃えているように思えた。
「ゆきなさい」
小さな声で命じられ、腕に巻きつけられていた鈍色の鎖が真っ白な光を放ちつつじゃらじゃらとリティアナの腕から離れ、だらりと垂れ下がっていく。
「え?」
アベルは妙なことに気付いた。
垂れていく鎖がいつまで経っても伸びない。いや、よくよく見ると先端が三分の一ディストンを境に空中で消失している。
どういうことかといぶかしんでいると、突然背後の陸王烏賊から苦しむような咆哮があがった。
驚いてそちらを見たアベルは、鎖の先端の行方を理解した。
鎖は陸王烏賊の真下――と言っても地中ではなく、地面と陸王烏賊の胴体との間の空間――から、まるで元からそこに一本の柱があったかのように、あれだけ苦労した甲羅をぶち抜き一直線にその巨体を貫いている。
その信じがたい出来事に、アベルたちはゆっくり鎖が引き抜かれた陸王烏賊が倒れるまでの間、視線を逸らすことができずにいた。
「す…すごい…」
リュリュが感極まった声をあげるが、誰もが同じ感想を抱いていた。これならなるほど確かに自分たちの助勢など不必要だろう。
「ふう」
リティアナはというと、まったく疲れたそぶりも見せていない。軽く右腕を揺らすと、血糊をまったく残していない鎖が元のように腕に絡みあがっていく。
この間、アベルはリティアナの表情に釘付けになっていた。
「…これはどういうことですか? あなたたちは本来、授業に出ているはずよね」
鎖がぴたりと腕に絡まったところで、リティアナは今度はアベルたちを一瞥する。
その視線は冷たく、険しい。声も穏やかでこそあるが明らかに怒気が含まれていた。
先ほどの完膚なきまでの強さを目の当たりにして、下手なことを言うのはなかなかの勇気がいる。それでもと覚悟を決め、アベルは口を開いた。
「僕が」
「私が」
同時に口を開いた者がいた。
思わずレイニストゥエラと顔を見合わせる。
今度こそ、とアベルは身を乗り出した。
「僕が」
「私が」
「無理やり連れ出したんです」
「勝負を挑んだんです」
再び、お互いに顔を見合わせる。
「だから、彼女たちには責任は無い」
「だから私が悪いんです」
しばしの沈黙。
「お前、少しはこちらに合わせろよ!!」
「あなたこそ、空気をお読みになったらいかがですの?!」
後ろでぷっと誰かが吹き出すような声が聞こえたが、お互いもう半ば意固地になっている。
二人を一瞥したリティアナも、困ったようにこめかみを抑えた。
「…もういいわ。細かいことは先生方に聞いてもらいます」
ええ、という悲鳴が聞こえてきた。今度はリュリュだろうか。
「当たり前でしょう。授業を抜け出した上、勝手に転送球を使ってこんなことをしたんですから。きつい厳罰が与えられることは覚悟しなさい」
こちらに駆け寄ってくる天人族の人々を見やってから、リティアナはレイニストゥエラにも同じ口調で注げた。
「わたしは関わった以上、残った陸王烏賊を片付ける手伝いをしなくてはならないのでこれ以上あなたたちの茶番に付き合ってられません。さあ、さっさと帰りなさい。ドゥルガン先生たちがお怒りであなたたちを待ってます」
両腕を腰にあて、これ以上の議論を許さない迫力で宣言されたアベルたちはこの後のことを考え、憂鬱になりながらも石階へ向かう為揃ってのろのろと足を向けた。
「それと、最後にこれだけは言っておきます」
二、三歩歩みだしたところでふと思い出したのか、リティアナが声を掛けた。何事かと振り向いたアベルたちに、リティアナはこほんと小さく咳払いすると言った。
「勝手なことをしたことはともかく、ヴァンディラの人たちを見捨てなかったことを、私は高く評価に値します。…よく頑張りましたね」
一瞬のことだったけど、そう言ったリティアナは最後に微笑んだのだった。
フィル:風神。灰色狼を連れた、ショートカットの闊達な少女として描かれることが多い。その性質上、船乗りにだけでなく商売・牧畜の神としても崇められている。
陸王烏賊:大陸の南西を中心に見られる、陸上に生活の場を移した烏賊の進化体。
触腕以外の触手を移動用に進化させ、筋肉の塊の足へと変えた。
本来の大きさは成体で大人の膝くらいまでしかないが、肉食で気が荒いため素人が迂闊に手を出すと危険だったりする。
眉間を下の口から突いて殺しすぐに腸を抜いてから日干しにすると、縮んだ足が非常に噛み応えのあるおつまみになるため、酒飲みには重宝されている。
進化途上に蛙のように跳ねる、より小柄な種類もいる。




