第38話-2 傾慕と恋慕
「本当に、ごめんって」
ひとしきり泣いたリティアナが落ち着いたところで、アベルはもう一度頭を下げた。傍で服を乾かすために熾した焚き火が静かにぱちぱちと燃えている。
気まずい沈黙の中、拗ねたように正面の岩に腰掛けていたリティアナは、じろりと横目でアベルを睨むと、
「そうね。すんでで殴られるところだったから、その前に過ちに気づいてもらって助かったわ。ただ注文をつけるなら、もう少し早くに気づいてもらえればお互いこんなずぶぬれにならずに済んでもっと良かったのだけど」とあてつけがましく皮肉を言った。
「…悪かったってば」
目元の赤いリティアナの視線から逃れるように、アベルはばつが悪そうに頭を掻いている。
「さて、そろそろ大人気なく暴れまわったことで鬱屈もだいぶ晴れたことでしょう?」
「だから悪かったって言ってるじゃないか…」
アベルは絶望的なしぐさで両腕を天に伸ばし言った。
「大体、リティアナだって分かるだろ? セプテクトのせいで、何もかもがめちゃくちゃにされたんだ。校長だって…」
そこまで言ってアベルは顔を曇らせる。
気づけばアベルにとっても、ガンドルスの存在は大きくなっていた。あるいは生まれてこの方見たことの無い、父親というものに向ける感情のようなものだろうか。
だからこそ、アベルはリティアナならば共感してもらえると思っていたし、よりによって彼女が反対したことに並々ならぬ憤りを抱いたのだ。
「そうね…」
しかし驚いたことに、リティアナの表情はアベルが想像していたほどに悲痛さを感じさせるものではなかった。
「リティアナ?」
煮え切らない返答が気になったアベルが先を促すと、リティアナは困惑したように耳を掻いた。
「…自分でも良く分からないの。確かに、校長がドゥルガンに怪我させられたとき、そして意識を取り戻したときは衝撃を受けたわ。でも、校長が亡くなったとき……ううん、たぶんその後でアルキュス先生が縋りついたのを見たことで、不思議と余裕を持ってみることが出来た」
一旦そこで切ったリティアナは、力なく息を吐いた。
「ああ、アルキュス先生は本当にガンドルス校長が好きだったんだなぁ。そう考えたとき、わたし気づいたの。じゃあ、わたしがガンドルス校長に抱いていた感情は何だったのか。どんな相手だったなら、アルキュス先生のように嘆いただろう…って。そうしたら…」
そこで口を噤み、リティアナはじっとアベルのことを見つめる。
「そうしたら?」
アベルの問いを無視し、リティアナはふいと視線を反らした。
「ねえ、アベル。ここ、どこだか…見覚え、無い?」
そう言われてあたりを見渡したアベルはあっ、と声を上げた。
「ここ…レジエン湖?!」
「そう。懐かしのね…」
寂しげにつぶやくリティアナに、アベルも同意する。
思えば、ここからすべてがはじまったのだ。
「だけど、どうしてここへ?」
「元々、わたしは何度か墓参りに来てたのよ」
はじめて聞いた事実に、アベルが目を丸くする。
「どうしてそれを僕に黙ってたんだ? 言ってくれたら一緒に来たのに」
アベルとて死者を悼む気持ちはある。
しかし、実の肉親を亡くしている彼女の気持ちを思えばこそ言葉にできなかったのだ。
リティアナは小さく首を振った。
「…あなたに、もう負担を掛けたくなかったからよ」
それは、リティアナの自身の経験に裏打ちされた直感によるものだった。
二人が知る由も無かったが、大きな災害などで生き残った人が自分が生き残ってしまったことに対して罪悪感を感じてしまうことがある。アベルの場合、そうなるところを幸か不幸か、目の前で(事情はともかく)リティアナが浚われたことで己の無力感をぶつけられる対象ができてしまった。
リティアナの場合肉親の死を目の当たりにし、更にガンドルスに命を救ってもらったことで彼への感謝が先に立った。一方でアベルの場合は祖父に助けられた経緯も含めただただ無力感を痛感させられる形になってしまったため、それがこうと決めたことを我武者羅に突き進む情動を養ったと言って良い。
学府に入り、リティアナに再会し、そしてガンドルスから真実を聞かされたことで表面的には落ち着いたように見えるアベルだった…が、リティアナは自身の経験から見るにその傷が癒え切っていないらしきことをうっすらと感じとっていた。
過剰なまでに仲間を信頼し、一方で自分の存在意義を確立するためひたすらわが身を省みず前衛に立ちたがったことは、その影響の最たるものといって良かろう。
「ブレイアの墓参りにきたら、多分…また自分を責めるんじゃないか。そう思ったら誘うことができなかったのよ」
そう言われればアベル自身にも思い当たる節がなくもない。
「まあ、一番の理由は、先生方に言われたことが頭に引っかかっていたってことが大きいのだけど」
今年の墓参りにはまだ少し早い。
アルキュスとオンセンで話したとき、彼女が校長の命が長くないと断言したことでジーン先生の予言を思い出し、以降持つようにしていたのだ。
「ジーン先生には感謝しないとならないわね。もし、彼女の占いがなければあなただけが転送して、一人でセプテクトに立ち向かうことになっていただろうから」
そうなれば、アベルは確実に生きて帰ってこれなかっただろう。
「うん…」
アベルも同意したのをリティアナは横目で見て言った。
「なんにせよ、アベルの頭が冷えたようで良かったわ」
言い返そうとしたアベルだったが、リティアナはまだ怒っているらしいと判断し口を噤んだ。確かに望まぬ水浴びのおかげで頭は十二分に冷えたが、焚き火で多少はましになったとはいえ身体は夏の風に吹かれて肌寒くなっている。
「…そろそろ学府へ戻らない?」
「そうね…」
アベルの提案に一旦は頷いたリティアナだったが。
「あ、ちょっと待ってアベル」
慌てて制止したリティアナは、周囲をきょろきょろ見渡し一人頷いている。その表情は、かつて幼少時に見慣れた、優れた(とリティアナが思い込んでいる)発想を閃いたときのものだ。
「学府に戻る前に…アベルは、湖の水を汲んでくれない?」
そういって視線を湖畔に生える大きな紅苹果の木にやったことで、アベルは彼女が何をしようとしているかぴんときた。
「…もしかして、昔やったあれをやるのかい?」
そんなリティアナを、アベルはまじまじと凝視した――今はそれどころじゃないのに!
「ええ」
「ねぇ、どうしても今じゃないと駄目かな」
早く学府へ戻りたいと気を揉むアベルがやんわり断るが、リティアナは頑として言った。
「ええ、駄目。…お願い。ほんの数分、わたしにあなたの時間を頂戴」
アベルはあきらめてため息をついた。
「わかったよ。ただし、水を汲むのは君だ。もうお互い子供じゃないんだし、木に登るのは僕がやる」
リティアナは文句を言いたげだったが、ここで言い争っても特にならないと判断しおとなしく引き下がった。
「…この木、こんなに小さかったっけな」
子供の時分には巨大だと思っていた紅苹果の木は、今のアベルにとってそれほど難易度が高いものではなかった。するすると樹上に辿り着くと、真っ赤に熟れている実を二つ、もぎり取る。ブレイアが滅びて以来ここに訪れる者は誰もいない様で、美味しそうに生っている実が選びたい放題だった。
「そっちは準備できた?」
「ええ」
地面に降り立ったところで呼びかけると、先に水を汲んできていたリティアナが皮袋を掲げて見せた。二人は湖畔を見下ろせる小高い丘に登ると、向き合う形で芝生に腰を下ろした。
「…本当に、やるのかい? 僕とで」
この期に及んでも尚、アベルは困惑気味に尋ねた。
「いいのよ。あなたがいい…ううん、あなたじゃないと駄目なの」
迷い無くそう言われたアベルは紅苹果の実をひとつリティアナに渡しながらわかったと答えた。
「『赤い実食べよう 勇気があふれるから』」
数年ぶりに口ずさんだはずの唄は、存外二人ともしっかり覚えていた。
風が微かに草をそよがせる中、まずはリティアナから、そしてアベルへ。お互い手にした紅苹果の実を一口齧り、
「『青い水で潤そう 願いが届くから』」
同じように皮袋の水を一口飲み干す。
「『ブレイア湖のほとりで』」
「『ブレイア湖のほとりで』」
そして、リティアナは目を瞑り何かを願った。その真剣な様子に、アベルは黙ったまま彼女が満足するまで待ちつづける。
「お待たせ、アベル」
リティアナの祈りは程なくして済んだ。
「さあ、学府へ戻りましょう」
「そういえば、リティアナはどうしてこの儀式をしようと思ったんだ?」
転送球を取り出し、念じようとしたリティアナに、アベルは待っていた間に浮かんだ疑問を訪ねた。
「みんなが無事に戻れるように、そうお願いしたのよ」
「…前にもやったけど、この儀式って効果あるのかな?」
リティアナは肩をすくめたが、次の言葉でアベルも納得した。
「さあ? でも、無駄なこととは限らないんじゃないかしら。何しろ、神様だっていたんだから、ここのお呪いがただの迷信とも限らないでしょう?」




