第38話-1 アベルとリティアナ
視界が開けた瞬間。
「うわっ」
「きゃっ」
水しぶきとともに着水する音が二つ、静かな山間に響いた。暦の上では夏とはいえ、身を切るような冷たさが全身に纏わりつく。
突然虚空から現れた闖入者に、すぐ傍で水を飲んでいた鉄角鹿の子供は驚き慌てて鮮やかな緑に萌える急勾配の草原を駆け上り逃げていった。
「ぶはっ…リティアナ、何をするんだ!」
鎖の緩んだ隙をついて振りほどいたアベルが怒鳴る。
「僕はセプテクトを倒しに…」
「いいえ。今のあなたは行かせられないわ」
一足先に体勢を立て直したリティアナがアベルの足に鎖を絡ませ、転がした。
「うわっ! くそっ、こうなったら僕だけでも…」
全身水浸しになりつつも片膝を立てて起き直ったアベルが懐をまさぐるが、
「お探しのものはこれ?」
学府へ戻るための転送球はリティアナの手にあった。今の騒ぎで取り落としたのをすばやく拾ったのだ。
「返せ!」
螺旋を描いた光の鎖をばねのように弾ませ、リティアナは掴み掛かるアベルから跳んで離れると岸に降り立った。
「どうしてだよ、リティアナだってベルティナのことは心配じゃないのかよ!」
アベルの怒声に、リティアナはわずかに顔を曇らせる。だが、アベルはそんなリティアナの心情に構うことなく転送球を奪わんと駆け寄った。
「馬鹿いわないで、心配に決まってるでしょう!」
かしゃり、眼前で鎖が幾重にも斜めに交差しアベルの行く手を阻む。
「ならなんで!」
歯噛みするようにうなりながら手を突き伸べてくるアベルを、リティアナの鎖は外開きの扉の如く解けて再び彼を湖に弾き飛ばした。
「今行っても勝てないからよ」
「やってみないとわからないだろ!」
これでは埒が明かないと剣を抜いたアベルを、リティアナは凝視する――まさかアベルが仲間に向けて剣を抜くなんて!
だが、その動揺を押し隠しリティアナは尚も突き放した。
「…今のあなたなら断言できるわ。そんなんじゃ勝てる相手にも勝てない」
「くっ…」
その言葉をアベルは忠告ではなく否定と捉えた。
「リティアナ、その転送球をよこせ。僕はセプテクトを止めに行くんだ!」
「もう、どうして分からないの! 今のまま行っても勝てないって言ってるのよ、さっき全員で切りかかってもあしらわれたのを覚えていないの?!」
「…あれはたまたまだったんだ! 挑んでみないと分からないだろ!!」
「アベル…」
普段の慎重な彼ならば、勝機を得るための方策を巡らすことに注力しただろう。
余りの怒りに自分を完全に見失っている。だが、当人がそれを分かっていない。
「いくら言っても分からないみたいね」
恐らく、ディアンと理事長がその対抗策を講じている真っ最中なのだろうとリティアナは内心考えている。だが、今のアベルにそれを言っても好転するとはとても思えない。
いや、むしろ暴走する可能性のほうが高い。
だから、それについては今はあえて触れないことにした。
「そっちこそ!」
「…良いわ。言葉で言っても理解できないんだったら、力づくで奪ってみなさい」
事実上の宣戦布告に、アベルの表情が一層強張る。
「…どういうつもりだよ」
「どうもこうも、今言ったとおり。大体、わたしから転送球を奪えないのに六人の同時攻撃をいなすような相手に勝てると思ってるの?」
そのとおりだ、怒りに熱されたアベルの頭でもそれくらいのことは分かった。
「…そうだね。リティアナの言うとおりだ」
そして剣を構える。
「…どうしても、やる気なのね」
「リティアナが素直に転送球を渡してくれれば済む話だろ」
リティアナは頭を振る。
「何度も同じことを言わせないで。それはできない」
「なら、しょうがない。力づくでも渡してもらう!」
リティアナが先に動いた。鎖を視認し辛い水面に潜ませ、アベルの足元から絡め取り動きを封じる作戦だ。
「やらせないよ!」
アベルもそのやり口に気づいている。
水を蹴立てて背後まで伸ばされた鎖の動きと垂直になるような形で移動したかと思うと、水面に没した大きな苔むした丸太の前を過ぎたところで今度は一直線にリティアナに向かった。このまま行けば鞭は丸太に引っかかり、動けなくなるだろう。
かと言ってリティアナも慌てず騒がず、軽く両手を小さく波打たせる。そうすることで手元の鎖が大きく湾曲し、壁を作るようにしてアベルの前に立ちふさがった。
「くそっ!」
横振りの剣が食い止められ、アベルは数歩後ろに下がり間合いを測る。もちろん切る気はないので剣を寝かして峰の部分を立ててあるが、昏倒くらいはさせるつもりでいた。
何より、どちらも手加減できるだけの余裕は無い。
アベルが剣を引き戻す隙に、リティアナはアベルの腹めがけて一本の鞭を突き込んだ。こちらももちろん命を奪うほどではないが、まともに当たれば痛みでもんどりうつだろう。
「うそっ?!」
だが、リティアナの目論見は外れた。
腹に当たる寸前、アベルが柄頭で叩き落としたのだ。突いた鞭の先端は振ったときと比べればだいぶ遅いが、それでも十二分に早い。そんな思い切ったやり方で防がれるとは思っても見なかったリティアナに動揺が生まれた。
一方、アベルの方もこれまでにない緊張を強いられている。
「やっぱり強い…けど!」
しかし、こちらはここまでの攻防でリティアナに比べて逆に余裕が生まれていた。
それというのも、彼女の攻撃を見切ることができたからだ。
はじめて彼女にあしらわれた、校長に飛び掛ったときは自分が何をされたかすら分からなかった。そのときに比べれば長足の進歩と言える。
叩き落とした鎖の先端を踏みつけ、地面に文字通り釘付けにして簡単には抜けないようにしてからアベルは駆け出した。
「くぅ、やられたわね…」
アベルの適切な処置に、リティアナが痛恨の呻きを洩らした。
リティアナの伸縮自在を誇る光の鎖は、空間をも越えて攻撃することができる。しかし、制限が無いわけではない。
魔素を流体金属化している鎖と違い、核鋼である先端部はきちんとした金属でできている。そこで空間を越えたりする制御を行うため、そこを抑えられると伸縮は可能だが動きが大幅に制限されてしまうのだ。
共に長く傍にいたアベルだからこそ知りえた弱点だ。
「でも、まだもう一本あるわ!」
頭の中で次の攻め手を組み立てながらリティアナはまだ自由な鞭をたわませ、アベルの胸と腹、脛を狙う。それをアベルは屈み、払い、そして飛び上がって防ぐ。
リティアナの光の鞭は、絡め取るだけでなく薙げば斧、突けば槍に勝るとも劣らない威力を持っている。反面、一番火力があるのは遠心力がもっとも働く先端なため、懐に潜り込まれると大きく力を殺がれてしまう。だからアベルはその機を逃さず踏み込んだ。
「やらせないわ!」
とはいえ、その弱点は使い手であるリティアナにとっても百も承知。
先端が地面に埋められたまま自由に動かせない鞭の方をしならせ、たわんだ中ほどの部分を隆起させ段々重ねの壁とする。彼女の鞭が魔素で出来ており、伸縮自在だからこそできる芸当だ。
「当てが外れたようね。わたしはこうやって自分の身を守れば、それだけでも目的を達することができるわ」
リティアナが勝ち誇ったように言う。
「…そうかな?」
だが、アベルもまだ諦めていない。
「確かにすごい鞭だけど、鎖は鎖。なら…」
言うなりアベルは剣を右肩に担ぐようにし、左半身をリティアナに向けて腕に掛かる負担を少しでも減らす。少しでも強く、少しでも速く振れるように。
そして、二呼吸したところで突っ込んでくる。
「また…っ!」
今度も、鞭をしならせて壁を作るリティアナ。しかも先ほどと違い、今回は二本で防ごうとする。が、
「でやああああっ!」
裂帛の気合とともに振り下ろされたアベルの剣が、鞭の三段目まで叩き付けられた。
「そんな?!」
驚いたのはリティアナだ。中途半端とはいえ、これまでに自分の防御をこんな力技で破られたことはなかった。慌てて振りほどくようにして鞭を展開させるが、反撃を予感していたアベルはとうに間合いの外に出ている。
「…どうやら、もう少しで突破できそうだ」
余裕ありげに呟いたアベルの言葉を、リティアナは確かに聞いた。
(そんな?! このままじゃ、次で破られる…!)
そうなると、守りに入るのは愚策だ。
「ならば!」
「剣を絡め取りに…?!」
再び構えを取られる前に、相手の動きを封じる。
リティアナは咄嗟の判断で、自由になっている鞭を伸ばしアベルの剣を絡め取る。剣さえ封じれば、後は鞭の壁で耐えしのげばいい。
「これで終わりよ!」
「そうだね」
だが、それこそアベルの読みどおりだった!
実際には、渾身の力を込めてもリティアナの防御を破れるとはアベルも思っていない。
リティアナ自身が宣言したとおり、ここで彼女が防御に専念すればアベルは手も足も出なくなる。それを防ぐため、アベルは一計を案じた。
全力、得意としている構えで放てば、防御は破れる。そう思い込ませるため、あえて全力で打ち込んでから余裕あるような態度をしてみせたのだ。
これが、実際に剣を合わせたユーリィンとムクロ、また眼前で強敵相手に使ったところを目の当たりにしているレニーとリュリュならはったりだと見破れたかもしれない。
だが、リティアナはそのどちらの経験も無い。
そこを見越し、誘導できるのではないか――そう咄嗟に賭けに出たアベルの判断が功を奏したといえる。
「なっ?!」
アベルは構える代わりに、手にしていた剣をくるりと逆手に持ち返る。
そして、それを力一杯地面に突き刺し。
「僕はこの隙を待っていたんだ!!」
うろたえるリティアナに全力で体当たりをかました。リティアナはその衝撃で鎖から手を離し、水面に転がった。
「う…ぐ……」
その後を追い、飛び掛ったアベルに。
「…渡さない!」
気丈にもリティアナは顔を振り仰ぎ、ぐっとにらみつける。
後を追い、大きく拳を振り上げたアベルと視線が交錯した。
「リティ…アナ……?」
そこでアベルは見た。
涙を零れ落とさんばかりに双眸に溜め、唇を噛み締めるリティアナの顔を。
そして、その瞳に写る――醜く憎悪にまみれた、自身の顔を。
どうしてリティアナが戦ってまで止めようとしたのか、ようやくアベルは悟った。
「僕は…何を……」
アベルが、挙げたままの己の拳をゆっくりと見た。
ぱぁん!
次の瞬間、固まっているアベルの頬が叩かれた。
「リティアナ…」
そしてもう一度、反対の頬も。
「…リティアナ、ごめん」
そこでようやく、アベルは謝った。ゆっくり拳が下ろされる。
「遅いのよ、馬鹿アベル!」
「…うん」
ようやく、アベルは普段の表情を取り戻した。
それを確認し、重圧から開放されたリティアナはアベルの胸に身を投げ出すと子供のように大声で泣き出した。




