第36話-2 城内の戦い
凝った彫刻を掘り込んだ重たげな控え壁に支えられた、弧を描いた天井の高い広大な一室。
そこが玉座の間だ。
天井を横切る桟には精緻な花綱模様が満遍なく施され、四方の壁の華美な飾り旗や凝った装飾が無数にある蝋燭の灯りで照らされている。
入り口からは漆黒の絨毯が玉座に向かってまっすぐ伸びており、その突き当たりに鎮座する玉座の前で左右へ広がるようにして五人の武装した兵士たちが立っている。そのうちの一人、巨大な戦斧を手にして一番玉座に近い位置に立っているのはラシュバーンだ。
彼らの中心にいる玉座に腰掛けているディル皇国現皇帝レラザール=ディルベイン十一世は、ラシュバーンの首が飛ばされたときと寸分違わず頬杖ついたまま、身じろぎせずただ一点を茫と見つめている。
室内は一切物音がしない。外の喧騒も、中にいる人の息遣いすらも。
と、ラシュバーンの空ろな瞳がぴくりと反応を示した。
部屋の外にある、大階段を駆け上る足音。音の調子からして複数人だろうか、こちらへ向かってきている。
その足音が、王座の間に達するまで物の数分と掛からなかった。
「父上!」
最初にアベルが飛び込み、ついでその仲間たちに誘われて入室したアリウスが父王の姿を認め喚いた。
「将軍…」
ほぼ同時に、アベルもラシュバーンの存在に気づく。だが、すぐに彼を含めた供廻り、そしてディル国王全員が、侵入者を目視しても尚目立った反応を見せないことに不審を抱いた。
「アリウス、彼らは本物なのか?」
アベルが小声で尋ねるが、アリウスは自信なく首を振る。
父はともかく、あのラシュバーンが自分に対し無反応なのが気に掛かる。
しかし、今は将軍の安否確認より先にやらなくてはならないことがある。アリウスは改めて意を決し、まずは父王を諌めることとした。
「父上! もう、馬鹿な真似はおやめください! 大陸全土の国家に対し戦いを挑むなど、自殺行為でしかありませぬ! ディルの民を無為に殺すおつもりか!」
レラザールはなおも動かない。
それを訣別と受け取り、アリウスは腰の剣を抜いた。
「これ以上、ディルの民の血を無駄に流すようなら…あなたを、この手で弑逆せねばなりませぬ。お覚悟を!」
その言葉を皮切りに、ハルトネク隊、そしてラシュバーンをはじめとした護衛もいっせいに武器を抜き連れた。
「リティアナ!」
五人が一直線にアリウスに向かってくるのを見て間髪入れずアベルが叫ぶと、その意を察したリティアナが両腕を大きく振り光の鎖を横に薙いだ。
ラシュバーンは戦斧の石突を床に突き刺し耐え切ったが、残りの四人は大きく後ろに跳ね飛ばされる。
「ムクロ、リュリュは右、ユーリィンとリティアナは左を! レニーは後ろで待機、状況に応じて水の天元術を頼む! 王子だけは必ず守り抜くんだ!!」
この隙を逃さず、アベルは仲間たちに指示を出しつつアリウスを守るように前に立ちふさがりラシュバーンを迎え撃つ。同時に仲間たちも指示通り動き、三箇所での戦いがはじまった。
真っ先に戦端を開いたのはユーリィンだった。
持ち前の俊敏さを生かし、一番近くにした無手の浅黒い膚をした雁金額の男へ一閃お見舞いしようと踏み込む。だが、刃圏内に入るより早く相手がくるり、と背を向けた。
「え、なに?」
虚を取られたユーリィンに向かい、再び反転させた男の腰から何か紐のような物が煌いた。一瞬それを刀で受けようとしたユーリィンだが、ひゅうっと風を切る細い音に不穏なものを感じ、身を投げ出すようにして地面に伏せる。
その直後、後ろ髪が数筋宙を舞った。
「今のは一体?!」
顔を上げると、男は再び大きく体をねじり、手にした獲物を遠心力に乗せて叩きつけてきた。横に転がってかわすと、さっきまで彼女のいた床を細長い帯のような鉄剣がざっくり叩き割っていた。
「紐? いや、剣…か。いずれにせよ、手ごわい相手ね…」
ユーリィンの額を嫌な汗が流れる。
一方、そのすぐ後ろでリティアナも苦戦していた。
彼女の相手は細目をした、色白の手足が細長いひょろっとした男だ。
だが彼はその体に似合わず、たった2ディストンほどの長さをした刃広な柳葉刀を二本、軽々と振り回していた。左は肩口から振り下ろされ、右はすり上げてくるかと見れば滑らかに逆の動きへと変わる。
それだけの動きを見て、リティアナは自分の不利を悟った。
柳葉刀を振る速度こそそれほどでもないように見えるが、上下左右の攻めに対し彼女の武器は鞭なため下手に手を出そうものなら弾かれた隙に切り込まれてしまう。順逆自在の隙の無い剣技の前になかなかリティアナは攻め込めなかった。
「…リティアナ」
「ええ」
対手の力量が尋常ならざるものと見抜いたユーリィンとリティアナの二人は、ほぼ同時にお互い目配せする。
次の瞬間、リティアナがあえて大きく右の鞭を振るった。
対手はリティアナが痺れを切らしたものと思い、左の剣で受け流す。
だが、それがリティアナの狙いだった。
進路を反らされた力に逆らわず、そのまま鞭の流れるままにまかせる。その先に、ユーリィンの対手がいた。彼が不意の攻撃を慌てて鞭剣で叩き落とした隙に、ユーリィンとリティアナは互いの立ち位置を入れ替えていた。
一瞬遅れて双刀がユーリィンの頭上めがけて振り下ろされたが、他の者ならいざ知らず彼女にとってはその程度、止まっている物を避けるのと何ら変わりがない。身を引き、屈め、或いは反らし、そして脇を駆け抜ける。
ユーリィンがいつの間にか抜いていた刀を鞘に納めたところで、細目の男はくるくる回りながらわき腹から血を噴出させぶっ倒れた。
ユーリィンが決着をつけたのとほぼ同時に、リティアナの方も終わっていた。
同じ鞭ならば、純粋な魔素で構築されたリティアナの光の鞭の方がはるかに硬軟を自在に操る。右手では黄金肌の大蛇が鈍色の小蛇を絞め殺すように鞭剣の先端から根元まで巻きつかれ、武器を封じられた使い手は動揺した隙に背後から伸びた左手の鎖によって首を締め付けられて戦闘から脱落した。
静かな決着が短期で着いたアベルの左手側と対照的に、右手側はめまぐるしい戦いが繰り広げられていた。
こちらは火傷のせいか顔が引き攣れる巨躯の男と、整った顔立ちだが、生気が感じられず作り物めいた印象を与える男が並んでリュリュたちに向かってきた。
最初にリュリュが火の天元術を整った顔立ちの方へぶつけたようとするが、庇うように火傷の男が一歩先んじて立ちふさがる。普通の兵士なら大やけどを負って動けなくなるところを、ひるむどころかまだ燃える炎を突っ切って突撃してきた。
「こいつら…化獣!!」
クロコを呼び出す準備のため空にいたリュリュは一足先に気づいた。
火傷の男は全身を細かい鱗で覆われており、その鱗が細い針のようになっている。
火の天元術の影響があまり無いはずの作り物のような男の方は、口吻をぐぐっとせり出し大量の牙を生やしていた。
そこ以外は元の人間らしさを残しているため、一層異質さが際立って見えて気持ち悪い。
「リュリュ、ぼさっとするな!」
相手の変化に気を取られていたリュリュをムクロが叱咤する。そちらに気を取られて振り返った途端、リュリュはぷうっと何かを吹く音を聞いた。
「うわっ?!」
一瞬後、それまでリュリュの頭があった辺りを何かが通り過ぎ、ばきゃんと乾いた音を立てる。直後、背後の垂木に下げられていた学府の時計板ほどもある巨大な照明のひとつが撃ち落とされた。
何が起きたか分からず驚いて仰け反ったリュリュの眼前を、再び何かが吹き抜ける。
今度ははっきり見えた――天井に突き立ったのは鋭い肉食獣の牙だった。口吻を伸ばした男が自身の牙を噛み折っては、吹き矢のようにして飛ばしているのだ。
ほぼ同時に飛び道具使いだと気づいたムクロが先に片付けようとするが、火傷の男が壁となって邪魔してくる。
こいつは動きは図抜けて早いわけでは無いが、何しろ図体がでかく、そして硬い。グリューより頭ひとつふたつ抜けた高さに加え横幅に至っては倍ほどもある。しかもその全身が硬い鱗で覆われているせいで、ムクロの持つ短刀では掠り傷すらもつけられない。
ムクロが火傷の男に阻まれて手を拱いている間、リュリュはひたすら撃ちつづけられる牙を避けることに専念していた。
前衛同士が膠着している現状では、後衛が戦いの鍵を握る。逃げ回るリュリュもいずれは疲れて隙が生じる、それこそが敵の狙いだった。
しかし、リュリュとてそれが分からぬわけではない。
縦横無尽に逃げ回っていたはずのリュリュが、不意にぴたりと動きを止めて叫んだ。
「いまだよムクロっ、脚をとめて!」
返事より先にムクロが素早く屈みこみ、地面に手を伸ばす。二人が狙っていたのは、リュリュとムクロ、照明、そして敵が一直線に並び、かつ光源がムクロの後ろになるこの位置だった。
影がムクロの脚から頭に向かって伸びており、二人の敵のそれと重なっている。ムクロが「沈め」と呟いた途端、二人の敵は脚を取られてもつれるようにしてその場に膝を付いた。見れば足首まで影に沈みこんでおり、抜こうにも影の中でがっちり掴まれているようにびくともしない。
その隙を逃さず、リュリュが火の玉を放つ。狙いは過たず真上にある照明を吊り下げていた鎖を焼ききり、影から逃れようともがいていた二人を押しつぶした。
こうして左右で決着が着いて尚、アベルとラシュバーンの戦いはつづいていた。
ラシュバーンは強かった。
同じ戦斧を使いこなすグリューですら比べ物にならないほどの重い攻撃を、先端が霞んで見えないほどの速度で繰り出す。その一撃一撃が、アベルの急所を正確無比に襲うのだ。
ほんの一瞬でも隙を見せれば命を落とす綱渡り。
しかし、切り合うアベルはいつしか笑みを浮かべていた。
恐怖から、ではない。
アベル個人はラシュバーンに含むものは無い。しかし、彼の戦技、戦いぶりはこれまでに相対してきた強者たちをアベルに否応無く思い出させ、それが激しい闘志を掻き立てるのだ。
圧倒的な力はグリューを。
正確無比な狙いはドゥルガンを。
そして、一撃必殺の迫力はガンドルスを。
いずれも、アベルにとっては高い壁となった男たちだ。いつしか彼らに追いつき、追い越したいと思うようになったことが自ら剣を振る新しい理由となっていたアベルにとって、この戦いは彼らを超えるまたとない機会だと感じていた。
今の彼には、王子も、仲間たちもない。
無限とも思える打ち合いをつづけながら、アベルはひたすら耐える。
だが、ラシュバーンはまったく息切れする様子が無く、攻める手を一向に休める気配が無い。これまでに身に着けてきた技術をすべて出し切っても尚防御に専念せざるを得ないアベルの方が、じり、じりと壁に押されていく。
と、ちらりと目の端にリティアナが写った。視線を向けたのはほんの一瞬にも満たない時間ながら、不安に押しつぶされそうに見つめているのがはっきり見えた。
「大丈夫、僕は負けない!」
自分に言い聞かせるように、アベルは囁いた。
まだ一つ、試していないことがある。
横殴りにしてきた戦斧の刃を剣で反らし、浮かした隙にアベルは踏み込んだ。そしてそのまま剣を突き上げる。
その動きをラシュバーンも予測していたのだろうか、すぐに斧を引き戻し柄で受けようと構える。
だが、アベルは動きを途中で変えた。これまでであれば受けられ次第すぐに引き、二の突きを繰り出すところを無造作とも言える形でずいと踏み込んだのだ。
これまでに見ないアベルの思い切った行動に、ラシュバーンが刹那動きを止めた。
そこへアベルが渾身の力を込めて袈裟に切り下ろす。メロサーが見せた、攻撃と攻撃の合間を繋ぐ相手を翻弄する動きを真似たのだ。
本来なら食らわないであろう攻撃をもろに受け、ラシュバーンの体がゆっくり二つに別れ床に倒れた。
「これは…!?」
肩で息を荒げながら膝をついたアベルがその断面を見て驚いた。仲間たちも、恐怖と混乱に顔を引きつらせ言葉が出ない。
彼らの疑問を形にしたのは、アリウスだった。
「どういうことです、父上! ラシュバーン…そしてこの者たちの有様は! あなたは、彼らにいったい何をしたのですか!!」
ラシュバーンたちの骸は、いつまで経ってもドゥルガンのそれのように溶けてなくなる気配は無かった。
その代わり、切断面から血液などが滴ることも無い。
アベルたちがはじめてあったときのラシュバーンには確かに温かい血が通っていたが、今の彼の体内には生物の内臓に当たるものが一切見当たらない。
剥き出しになっている腹部一杯に詰められていたのは、内臓ではなく無数の機械。
ラシュバーンの皮を被った何かと、アベルは戦っていたのだ。
「思ったよりあっさり倒されたものだな。見た限りかなり年若いが、なかなかに優れた身体の持ち主のようだ」
「父上! お答えください!」
「いや…それともラシュバーンたちが思っていたより完成度が低かったせいか。彼我戦力を試算するに後者の方が可能性としては高い…」
「父上!!」
半ば絶叫じみたアリウスの叫びに、ようやくレラザールが視線を向ける。光の加減のせいだろうか、その瞳がまるで出来の悪い硝子球のように見えたアリウスはぶるっと身震いした。
「…先ほどから羽虫が何か五月蝿く騒ぐと思えば、アリウス。お前か。国を、民を見捨てて逃げた愚か者が今更何のようだ」
先刻まで何も無かったかのような平坦な口調に、アリウスは一旦声を詰まらせた。
「確かに私は逃げた。ですが、国や民を見捨てたわけではない! すべてはあなたを止めるため戻ってきた!」
「ふん」
レラザールが鼻で笑う。
「なるほど、表でなにやら騒がしいようだがあれも貴様のしたことか。だが無駄だ。所詮虫けらが幾ら寄り集まったところで我らが崇高なる野望は止められん」
「野望ですと?」
「そうだ」
はじめてレラザールの口元が歪んだ。
「余はこの世界の真なる主君にお仕えする」
「真なる…主君?」
「そうだ。この世を統べる支配者にして神。神代の再来。それを、この偉大なるレラザール=ディルベイン十一世が成し遂げるのだ」
狂気。そうとしか形容できない表情を貼り付け、レラザールは天を振り仰ぐ。
アベルたちは異様な雰囲気に呑まれ、黙って見つめていた。
「そうだ…せっかくだ、アリウス。お前もその供廻りを連れて余とともに来い。そして、ディル皇国の名の下にこのフューリラウド大陸に棲むすべての下等生物を駆逐しようではないか。お前たちには、神の尖兵となる栄誉ある資格を最初に与えよう」
突拍子も無い言葉にも関わらず、誰も口を挟む者はいない。それを恍惚と受け取ったレラザールは更に熱っぽく語りつづけていた。
「もうじき神代と同じく、神が蘇りて直接世界を統治する時代が訪れる。その暁には、今の世を我が物顔で這いずり荒らし回る魔人・天人・小翅・森人・獣人、そして人族。祖神を裏切りしありとあらゆる忌々しい地蟲どもは神の御力によって一掃されよう。残された我々選ばれし民は、脆弱な肉体を捨て、超越者となりて蘇った神々とともに清浄なる世界を迎えるのだ! おお、なんといみじきかな!!」
そうレラザールは嬉々として宣言する。
言葉だけ聞けば狂信者の戯言と一笑に付されたであろうが、王としての威厳によるものか、相対して聞くと狂気よりもまず不気味な説得力をその場にいた者たちに抱かせた。
「さあ、アリウスよ。父に剣を向けるなどと愚かしい真似を止めて余と共に来い。そなたには、新たな神々の黄金時代を築く礎となる栄誉を与えてやろう…」
「ラシュバーン将軍を…」
狂ったとしか見えない父への驚きに喘ぐアリウスに代わり、アベルが静かな声で尋ねた。アベルは、今の彼と同じような雰囲気をまとって滅びた男のことを知っている。
「そしてドゥルガンも…そうやって使い捨てたんだな」
一瞬、何のことを言われたのか判らぬと呆けた顔をするレラザール。だが、すぐに再び狂気に満ちた表情に戻った。
「…ああ、何かと思えばあの不良品のことか。下らぬ。劣等種である竜人や魔人は元より、余の役に立たぬ者などそこいらで朽ち果てたところでどうということもあるまいに」
「外で戦っている兵士たちに同じことを言うか!」
「知れたこと。民草など、そこいらに生える雑草と変わらぬだろうが。放っておけば勝手に生えるものに何故王たる余が気を割いてやる必要がある?」
その言葉に、アベルたちは武器を構えなおした。
「愚かな…王は民あってこその王だ! あなたはもはや人でも、父でも無い。ただの…外道だ!」
硬く握った拳で滂沱する涙を拭ったアリウスの叫びに、レラザールは冷ややかな眼差しで応える。
「これでも余の血を分けし子故に手を差し伸べてやったのに…所詮は王者の意識に欠ける出来損ないか。ならばせめてもの手向けだ、余自らその供廻り諸共、ラシュバーンと同じところへ送ってやろう」
そういってゆったりとした動きで玉座から立ち上がる。
かと思いきや一転して、喉を抑えて苦しそうなうめき声を上げはじめた。
「な、何一体?!」
ぼごぼごと、泥濘から泡が浮かび上がるような聞き苦しい音を立て、老境に差し掛かる体が大きく膨れ上がる。
真っ先に変化を見せたのは脇だった。一対の腕が突き出したかと思うと見る間に先端が肥大化し、体を支えるように床へ三本指の鋭い爪を立てる。
一方で元来の腕は胸骨にめり込むようにしてみるみる縮み、手のひらだけが硬く握られたまま申し訳程度に残った。また胸元には縦にぱっくり亀裂が入り、中心から巨大な目玉が姿を現し闖入者たちをぎょろぎょろと一瞥する。
反対に、本来の眼球を含む顔面は首に沿って隆起する胸筋に飲み込まれるように埋没し、わずかに毛髪を残していた後頭部は真上に向かって大きく切れ目が入り、巨大な口と化した。
脚は跳躍力と瞬発力を得るためだろう、膝関節のすぐ下拳一つ辺りのところで逆くの字を描いたかと思うと新しい関節を生み出している。
もはやそこにはかつての父どころか人としての面影などまったく残さない、世にもおぞましい醜悪な化物だけがいた。
アリウスは顔を青ざめさせたまま立ち尽くし、呆然とかつての父だったものの変化を見つめている。と、その腕をアベルが引いた。
「王子、あちらへ退避を!」
促され、言葉も無くかくかく頷いたアリウスは部屋の隅へ駆け出していった。
「来るぞ、みんな! 気をつけろ!」
ぎょろりともう一度、肩の目が一同を睨んだところでアベルたちは散開した。各人すでに息は整っており、迎え撃つ準備は整っている。
「さあて…どいつから食らうか」
頭部が聞き取りにくい発音で吼える。
直後、レラザールの立っていた床が弾け飛んだ。それがレラザールが跳躍したために割れたのだと気づいたのは、矢のような蹴りを受けて体をくの字に曲げたムクロが吹っ飛んだからだ。
「迅い?!」
鈍重そうな見た目に反し、レラザールの動きは俊敏だ。次の獲物と定めたリュリュ目掛け飛び掛り、頭の口で丸呑みにしようとする。だがリュリュに届くより早く、リティアナの光の鞭が足を絡めとり床へと叩き落した。
「気をつけて! 油断していると各個撃破されるわ!」
空いている鞭で吹き飛ばされたムクロを空中で捕らえ、勢いを殺しながら着地させたリティアナが怒鳴った。
とにかく動きがすばやい。自由にさせたらその時点で仲間が危険にさらされる。
「これでもくらえっ!」
アベルとユーリィンがほぼ同時にレラザールに向かい、左右から挟撃する。
アベルが駆け寄った勢いを剣に乗せ、勢いよく振り切る。避けようともしないレラザールの脇をざっくり断ち割った。
反対側ではユーリィンが間合いに入るや否や腰を落とし逆袈裟に切り上げる。狙い過たず、ばさりと乾燥した藁束を切ったような手ごたえと共にレラザールの肉体を切り裂いた。
しかし…
「うそっ?!」
リュリュが驚きの声を上げた。背中と脇、いずれも普通の化獣なら瀕死になるはずの切り口が、急速に筋繊維自身が互いに結び合うように盛り上がり、傷口をふさいだ。明らかに、これまで見てきたどの化獣をも超える能力を有している。
だが、アベルたちも驚いているばかりではない。
「それなら再生できなくなるまで切りつけるだけだ!」
そう言い切り付けつづけるアベルに感化された仲間たちが、思い思いに散開し囲み込んで攻撃を開始した。
リュリュが注意を引くように周辺をすばやく飛び回りながらクロコでけん制を掛け、背を向けているところにレニーが飛び掛り槍を突き立てる。足をリティアナの光の鎖とムクロの影が絡めとり、やっきになって引き剥がそうとする腕をユーリィンやアベルが切り刻む…
見た目こそ凶悪だったが、レラザールがその姿で戦うのははじめてだったのだろう。他の者ならいざ知らず、そんな相手にいまさらハルトネク隊が苦戦する訳も無い。
図抜けた頑丈さのせいでいつまでも続くかに思われた戦いだが、やがてレラザールの動きが鈍くなったことで終わりを迎えた。
疲れと回復しきれないほどの痛手に膝をついたところをムクロとユーリィンに前後から刺し貫かれ、止めにレニー自ら氷で作った巨大な鎌とリュリュが付与した炎を纏ったアベルの剣が斜めに交差し、新しく作り出された目玉ごと胸を切り裂かれたレラザールはゆっくり仰向けにそっくり返る。
どうと音を立てて倒れた後二度、三度と僅かに体を震わせ、ついには頭部の口からごぼりと巨大な血泡を吹いたところでようやく動かなくなった。
「やった…か?」
しばらく遠巻きにして様子を見ていたアベルは赤くにじむ脇腹を抑え顔をしかめていた。仲間たちも大なり小なり負傷しており、疲弊しきった顔をしている。
しばらく幽鬼の如く佇んで萎みつつある死体を見下ろしていた六人だが、微かな声がその中心から聞こえた。
「アリ…ウス…?」
アベルたちは左右に別れてアリウスを通してやった。
倒れたとたん萎みだしたレラザールの肉体は今では、元の肉体よりはるかに老いさらばえて枯れ木のようになっている。もはや、反撃する力は残っていないだろうことは誰の目にも明らかだった。
「余は…何を……しておった……?」
レラザールは不思議そうにつぶやきながらゆるやかに嘆息する。どうやら、先刻までの記憶がごっそり飛んでしまっているようだった。
「誰か…誰か、おらぬか。ここに…」
「父上…ここに、アリウスがおります」
震えながら差し出された手を、アリウスはそっと握り締める。
「おぉ…そこにおったか……」
安堵したのか、レラザールはほぅと吐息を吐く。その曇った瞳はどこか遠くを見ていたが、穏やかな笑みが口元に浮かんでいる。その表情は昔年の厳しくも優しかった父をアリウスに想起させた。
「ここにおります」
「そうか……」
もう一度、息を吐くと視線をさまよわせる。そしてムクロに目が留まったところで一瞬レラザールの顔には驚嘆が満ち溢れ、ぽつりと一言こぼした。
「レライア……」
ムクロの目が、ほんの僅か驚きに見開かれる。そう呼んだレラザールは、辛そうに顔をゆがめていた。
「すまなかったな…我が子を抱かせることすらもできず……お前には、苦労をかけた……もう少し、もう少しだけ我慢して欲しい……セプテクトに命じて、薬を……」
そう言って、レラザールは手を持ち上げようとする。しかし、その手は震えるだけで一向に床から上がる気配が無かった。
「ああ……余が王などでなければ……」
思わずムクロが手を伸ばしかける。その手が伸びきる前に、レラザールは長嘆息をつくとそのまま息を引き取った。
「ムクロ…レライア、とは?」
アリウスがレラザールの目を閉じてやっている横で、ユーリィンが質問する。ムクロは顔を伏せたまま答えた。
「母さんの名だ」
「そうか…」
もしかしたら最後にムクロの母の名を呼んだのは、レラザールが真に愛した女性は魔人族のレライアだけだったからなのかもしれない。
彼女と結ばれなかった悔恨を、セプテクトに付け込まれたのだろうか。だが今となってはもはや、誰も知る由の無いことだ。
「そろそろ、準備を始めよう」
やがて、アリウスの元に離れていたムクロが戻ってきて先を促した。目じりが赤く腫れているようだったが、誰もそれを指摘することは無かった。
「まだ、俺たちにはやらないとならないことがある。だろう?」
仲間たちはうなづく。
すべての元凶はこの段になってもまだ姿を現していないのだ。
傷の手当てもそこそこにアベルたちは王宮の深部の探索に取り掛かる。しかし…
「おかしい、どこにもいない?」
王の間へ戻ってきたアベルたちは困惑してお互いに顔を見合わせた。
駆け足であったが、部屋らしい部屋はあらかた探したもののセプテクトの姿は影も形も無い。いや、戦いの最中にも出る気配が無かったことを考えると、アベルたちが侵入する前からいなかったのかもしれない。
だが、そうだとすると一体どこへ?
アリウスにも尋ねたが、彼にもセプテクトがいる場所の心当たりは無かった。
妙な胸騒ぎを誰もが抱き出したころ、答えは意外な人物から齎された。
「おお、ハルトネク隊! ここにいたか!!」
大扉を音を立てて開き、ずかずかと早足で近寄ってきたのは白狼騎士団を引き連れたデザムだった。三角巾で吊られている左腕は、肘から下が半分ほどからなくなっている。
「デザムさん、その腕…!」
「なぁに、ちょっとした費えって奴だ。そんなことより…」
顔色を変えたレニーが癒そうとして近寄るのを手で制し、デザムはアベルに告げた。
「お前たちは一刻も早く学府へ戻れ。今、学府が化獣に攻め入られているという連絡が入った」




