第34話-8 リュリュ、告白する
同じころ、一人考え込んでいたリュリュは、やがてある確信に至るとそれを確かめるべく相手を探して野営地を飛び回っていた。
「ここにいたんだ」
程なくしてリュリュは、野営地から少し離れた空き地でアベルの姿を見つけた。
アベルは一人、剣を手に素振りに勤しんでいる。その様子は、普段に比べても熱が入っているように見える。
「ん…ああ、リュリュか。どうしたんだ?」
そういって迎えるアベルの一見いつもどおりの笑顔に、リュリュが抱いていた違和感は確信に変わった。
「うん、ちょっと気になったことがあってさ…他のみんなは?」
アベルは男性陣のことだと判断した。女性陣はちょうど風呂が終わるところで、今はムクロが天幕の中で順番待ちしている頃だからだ。
「向こうで放置されてたよ。縛られて」
それにリュリュは肩をすくめた。
「そっか。…ね、見てってもいい?」
「構わないけど…面白くないよ?」
「いいって、いいって」
許可を得たリュリュはすいっとそばの岩に腰掛けた。
「ねえ、アベル」
アベルの素振りをしばらく見ていたリュリュは、さらりと尋ねた。
「ねえ、アベル。…その、緊張してるよね。今度の任務。自分たちが先陣だって聞いて」
リュリュは努めて自然体を装っているが、視線はアベルをじっと見つめたままだ。
彼女の質問や行動の意図するところが判らず、アベルはひとまず否定した。
「そんなこと…無いよ。任務はいつものことだし」
「嘘」
今度は即断され、アベルはちょっとむっとした。
「なんでそんなことが分かるのさ、リュリュに」
「分かるよ」
リュリュはふわりと浮き上がり、アベルの周りを一巡すると彼の手にそっと触れた。
「だって、ボク…気づけばいつも君の事見てたから。だから、今のアベルが今までに無いくらいすっごく不安にしてるのが分かる。何年の付き合いだと思ってんのさ。今こうして素振りしてたのって、その気持ちを紛らわすため――でしょ?」
アベルは言葉を失った。
事実、その通りだったからだ。リュリュが触れるまで、アベルの手は不安で震えていた。
クゥレルたちと騒いでいた間は馬鹿騒ぎしていたおかげで忘れることができていた。
だが、こうして一人の時間ができてしまったことで抑えきれない不安が心に忍び寄る。
果たして一介の学生に過ぎなかったはずの自分たちが、ディル皇帝、そしてディル皇国軍の侵攻を止めることができるのか?
アリウスたちの過大評価ではないのか?
止められなかったら…アリウスを守りきれなかったら、フューリラウド大陸に更なる血風が吹き荒れることになるだろう。
小さな両の手に乗る大量の命の前には、ほんのわずかな失敗も許されない。
重すぎる責任に、はじめてアベルは恐怖を抱いていた。
そんな葛藤を吹き飛ばすためリュリュは言い放つ。
「ほんっと、馬鹿だよねぇアベルって」
「…何がだよ」
言われたアベルは当然ながらむっとする。
「気にすることなんて、ないんだよ」
いつもと違わぬ、軽い口ぶり。
だが、その瞳だけは真摯だ。リュリュは今、アベルに嫌われることも受け入れる覚悟をした上で訪れていた。
「ボクもアベルも、まだ学生なんだよ。そんなのに重い責任を押し付けるのがおかしいんだって」
「おかしいって…」
しばしの沈黙の末、アベルは首を振った。
「しょうがないじゃあないか。他の人たちはすでに配属が決まってるし、何より…僕には化獣と因縁がある」
ふわり、とリュリュが飛び上がり、目線を同じ高さにする。
「そんなの、アベルの思い上がりだよ」
「思い上がり、だって? 僕のどこがだよ!」
仲間から掛けられた酷薄とも感じられる言葉に感情を害され、アベルはリュリュをにらみつける。その視線からリュリュは逃げ出したかったが、それでも勇気を振り絞り立ちふさがりつづけた。
「あのさぁ、化獣と因縁がある? じゃあ何、アベルは出てくる化獣全部を相手する気なの? そんな馬鹿なことできるわけないでしょ!」
リュリュもつられて声を荒げた。
これがユーリィンやリティアナなら、もっと上手く彼を傷つけずに導くことができただろうか。しかし、リュリュは自分でもそんな真似ができないのが判っているからこそ、代わりに精一杯の想いをぶつける。
「忘れてるかもしれないけど、ボクもアベルもただの学生でしかないんだよ? ボクたちにできることなら、きっとクゥレルやウォード、パオリンにだってできることなんだ」
アベルが顔をこわばらせた。
「そんなことあるもんか! 今までだって、僕たちが化獣と率先して戦ってきたからこそ被害が抑えられてきたんだ! なのにリュリュは、僕らがそうしないことで他の人たちが傷ついてもいいっていうのか?!」
リュリュが大きく頭を振る。
「違う、違うよ! 誰かが傷ついていいなんて思う訳無いじゃない!」
「そうだよ! だから、僕が…」
「だから、それが違うって言ってるの!」
眼前の少年の度し難い鈍さに、リュリュの感情も爆発する。
「ボクは、アベルにも傷ついて欲しくないんだってば!」
リュリュは眦に大粒の涙を湛えたまま、唐突に自分の名前を呼ばわれたことにびっくりして反論することも忘れているアベルを睨んでいた。
「……ねえアベル、気づいてる? 今、アベルはクゥレルやウォード、パオリンたちが傷つくのが嫌って言ったけど、その中に自分は含んでないよね?」
「それは…」
「ううん!」
有無を言わせぬ迫力に、アベルは口ごもる。
「言っとくけど当然じゃないよ。そんなこと、決して当然なんかじゃない」
リュリュは激しく頭を振った。
「アベルは、命を賭して誰かを守る英雄なんかじゃない。あってたまるもんか! クゥレルたちやボクたちと一緒、ただの学生。なのに、何もかも背負い込もうとしないでよ! 今のアベル、何もかも背負い込みすぎてて、自分のことを見失ってる…」
目を背けたアベルの正面に回り、リュリュは説得をつづける。
「今のアベルは、きっと化獣、そしてブレイアを無茶苦茶にしたディル皇帝たちを前にしたら冷静でいられないと思う。ねぇ、そんな状態できちんと戦える? 自信をもって、みんなの前に立って護るって言える?」
もちろん、と言い掛けてアベルは口をつぐんだ。
不安に目が曇っていても、経験と才能に裏打ちされたアベルの戦力を見抜く目は確かだ――それが例え自分のものであっても。
改めて鑑みてみるに恐らく、今の状態では十全の力を発揮するのは難しい。そう、判断せざるを得なかった。
「だけど…じゃあ、どうしろっていうのさ」
素直に自分の心の弱さを認めるのが悔しくてアベルは拗ねたように言うが、リュリュはあっさり答えを示した。
「前にも言ったと思うけどさ、ボクたちをもっと頼ってよ」
「頼ってるじゃないか。戦いのときはみんなにいつも助けてもらってる」
「うん、戦いに関してはね。だけど、それだけの話じゃないよ。普段の気持ちの問題」
混乱するアベルに、頭を振ったリュリュは辛抱強く語りかける。
「アベルは今もまだ、リティアナを守れなかったことで自分を責めてるんだね。だから、何かあると自分が前に出てみんなを守ろうとする。今回だってそうだった。一人で解決しようとしたよね? でも、それじゃ駄目なんだ。人一人の手で護れる相手には限りがあるんだよ。今日だってそう。ムクロが助けを求めてくれたから、みんなが動いたからメロサー先生たちを止められたんじゃん」
彼女がアベルへ向ける眼差しは、ひたすらに大切な人を想う真心で溢れていた。
「ボクたちも、そしてリティアナも、もう守られるしかない子供じゃない。ちゃんと、戦える。戦うだけの意思も力もあるんだよ。アベルは、まだそこを見てくれていない。あのさ、それって…寂しいことなんだよ?」
それが、頑なだったアベルの心を溶かしていく。
「怖いなら怖い、そう言ってよ。一人で抱え込まないで。これまでにアベルがみんなを助けてくれたように、今度はボクたちが支えたいんだ」
「リュリュ…」
心の底から自分のことを心配してくれていることを感じたアベルは、不意に惹かれあうようにして自分を見上げるリュリュの眼差しとかち合った。
しばらくそうして言葉を失ったまま見詰め合っていた二人だが、とうとう奇妙な沈黙に耐えかねたリュリュがごほんとわざとらしい咳払いをした。
「だっ、大体、先生たちも無責任なんだよね! 生徒に押し付けておいて自分たちは学府でふんぞり返っててさ。そんなに重大事なら、自分たちが出てくりゃいいんだよ!」
おどけて頬を膨らませるリュリュに、アベルも笑顔になった。
「…あはは、そう言われてみれば、確かにそうだね!」
「でしょでしょ! だからそんなこと思い悩むことなんて無いんだってば。世の中なんてもんはさ、案外なるようにしかならないもんなんだよ…たぶんね」
「…うん」
アベルは頷くが、つづく言葉が見つからないのか黙り込んでしまった。
まだ煮え切らないアベルにリュリュは次の瞬間、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そういえばさ。野営実習でボクとの約束をすっぽかしたときがあったよね?」
「うっ…」
ぎくり、としたアベルの周りをリュリュはゆったりと飛んだ。
「やだな、もう怒ってなんか無いってば。ユーリィンから聞いたけどさ、そのときリティアナを守って啖呵を切ったんだってね? 今回も、それと同じだって考えればいいんだよ。難しいことなんて何にも無いって」
そしてリュリュはそっと、アベルの頭を抱え込んだ。
アベルは突然のことに、身じろぎもできない。
しばらくそのままで、とくん、とくん…小さくも高鳴る鼓動が彼に伝わるのに身を任せていたリュリュは、やがて顔を赤らめたまま身を離した。
「戦うときは今までと同じように、余計なこと考えないで戦えばいいんだよ」
「そんな訳にいかないだろ…」
「結果、うまくいけばフューリラウド大陸が救われるってだけで。おまけだよ、おまけ。というかアベルが難しいこと考えるのは無駄だって」
そう言い放った言葉はやや早口だ。
「おまけって……もう、世界を天秤に掛かってるってのにリュリュは無茶苦茶だなぁ。大体僕の扱いひどくないか?」
呆れたように言うアベルだが、とうとう耐え切れずにぷっと吹き出してしまう。
アベルも、これでようやく吹っ切れたようだ。
リュリュは、これならもう大丈夫と内心胸をなでおろした。
そして、正面に向き直ると本当に伝えたかったことを口にした。
「例え、今回の作戦が失敗して世界が滅ぶことになってもボクたち…ううん。ボクだけでも何があっても必ず最後の最後まで君の傍にいる。ボクも一緒に責任を取るから…だから、背負わせて。君の思いを」
彼女の言葉の裏に秘められた覚悟が、到底その身の大きさにそぐわないほど強く大きなものだということをアベルは知らない。
「…気持ちは嬉しいけど、リュリュにそんな迷惑掛けられないよ」
「もう。迷惑なんかじゃないってば」
ほんのちょっと、自分がこれからやろうとすることを逡巡したものの。
「リュリュ?!」
リュリュはアベルの頬に手をあてがい、そして目を閉じるとそっと唇を重ねた。
しばしそうしていたが、やがてリュリュはふわりと離れる。そして、熱く潤んだ瞳を節目がちにしながらはっきりと言った。
「ボクは…君が好きなんだ。一人の女の子として、好きだから…そばにずっといたいんだよ。迷惑だなんて思うわけ、ないじゃない」
「え…あ……?」
アベルは黙ってリュリュの言葉の意味を反芻する。
やや遅れて、気の毒なくらい真っ赤になった頭でようやくぼんやりとした形に為りかけた答えを口にしようとしたが、先に唇をリュリュのひとさし指で押さえられた。
「待って、アベル。今は答えないで」
「だけど…」
リュリュは黙って首を振る。
「あのね。今のアベルが余裕無いのは知ってるし、何よりずっと心に留めている人のことも知ってる。だから本当は最後の最後まで我慢しておくつもりだったんだけどさ…えへへ、我慢できなかったよ」
小さな手が、アベルの頬を愛しげにそっと撫でた。
「心底弱ってるアベルを見てるのが辛かったから…ボク、弱さにつけ込んじゃった。ずるくてごめんね。だからせめて、アベルの気持ちが整理つくまで待つよ。それがボクのけじめ」
有無を言わせない覚悟を感じ取り、アベルは黙って頷くに留めた。
「繰り返すけど…アベルは一人じゃない。何があってもボクがずっとずっとそばにいるから…だから、ボクが好きになった、信じることのためにひたすら前を見てみんなに勇気付けてくれるアベルに戻って欲しいんだ」
そういうと、リュリュはいつもの屈託の無い笑顔を浮かべる。そんな彼女の表情へ、はじめて不思議な安らぎと胸の高鳴りを覚えたことにアベルは驚きを禁じえなかった。
「…え、えと、さ。その…とても気持ちが楽になったよ。ありがとう、リュリュ」
「うん、どういたしまして」
リュリュも嬉しそうに答えた。
「ねえ、アベルはまだここにいる?」
そう言われてアベルは少し顔が火照っていることに気づいた。気づけばいつしか満月が昇っており、気温が冷えてきているようで頬を撫ぜる風が心地よい。
「ああ、もう少し風に当たってから戻るつもりだよ」
「風呂には?」
「…最後に一人で入るよ。さすがに今はクゥレルたちと一緒に入るのは怖いからね」
リュリュはちょっと名残惜しそうにしたものの、ほほえんでいった。
「そっか。あ、そういえばボクユーリィンのとこにも顔を出さないといけないんだった。それじゃあ、また後でね!」
「ああ、まあ後で」
野営地へと飛び去っていくリュリュを見送り、アベルは一人物思いに耽る。
やや遅れて、それまで岩陰で息を潜めて一部始終を聞いていた人影も、リュリュの向かった先へ去っていった。




