第34話-6 ひとりぼっちの防衛戦
森の中を、飛ぶ様に走る影がある。
幾筋もの樹木の隙間に断続的に写る表情は必死の形相を浮かべていた。
落ち葉を蹴立て、何度も男は後ろを振り返っている。
やがて逃亡者は地肌に露出した木の根に脚を取られ、ごろごろと地面を転がった。すりむいた顔の痛みに顰めながらも、辺りを見渡し手から零れ落ちた水晶球を探す。すぐに彼は少し離れた岩の隙間に嵌まり込んだのを見つけ、ほっとしたように息を吐いた。
「良かった、無くさなくて。これだけはなんとしても守りきらないと…」
そう呟きながら手を伸ばす。水晶球に指先が届くかどうかというところで、逃亡者の顔に影が射した。
あ、という言葉と同時に脳天へ強い衝撃を受け、男は膝を着いた。
意識を失った男の目に映ったのは、拳を固めた険しい形相のアベルだった。
「よし。これで二人…」
そういうと、アベルはウォードが先ほどまで握っていた水晶球を拾い上げる。
「残り二人。追いかけて水晶球を取り上げないと…」
アベルが手を挙げたのは、偏にこのためだった。
言って聞かないのならば、拳で止めるしかない。
「クゥレルたちには恨まれるだろうけど…」
アベルとて男だ、彼らの気持ちは判らなくも無い。
だが、今のアベルは友達と言えど何故か覗きを容認できる気持ちにはなれなかった。
リティアナや、他の仲間たちの裸体が他の連中に見られる。そう考えただけで胸の奥で何かがきゅうっと締め付けるような不快感が沸き起こり、それがどうしても拭えない。
そのため、あえて覗きの汚名を被ってでもただ一人敵に回ることを選んだのだ。
しかし、その覚悟に気づいていた者がいた。
「…やはーり、そういうことでしたーか」
「メロサー先生!」
声を掛けられ、振り向いた先にはメロサーがいた。
「先に行ったんじゃ…」
「君の様子がおかしいのには気づいていたのーで、クゥレルとグリューの二人にーは、先に先行してもらいましーた。我輩ぃーは、あえて遠回りすることーで、君の後ろをさらに追跡していたのでーす」
追跡に集中していたとはいえ、さらに追跡されていたことにはまったく気づかなかった。それなりに野外活動に慣れていると内心自負していただけに、アベルは舌を巻いた。
「多少はできるようになりましたーが、まだまだひよっこですーね。追跡する場合ーは、前だけでなーく後ろにも気をつけねばなりませんーよ」
そう言いながらメロサーは、ゆったりとした足取りでアベルに近寄っていく。余裕綽々なその動きに、アベルは思わず後ずさりした。
「裏切った制裁はあとで加えるとしーて、まずは奪われた分と君の水晶を渡してもらいまーす」
「そうは…させない!」
お互い逃がす気は無い。
ならばとアベルは、すばやく辺りを見渡すと手ごろな枝を拾い上げる。握った感触からして、それなりに使えそうだ。
「おやおーや、抗うつもりですーか」
言葉の割には驚いたそぶりも無く、メロサーも同様に適当な枝を拾い上げた。数度振り回し、感覚を確かめる。
「そういえーば、考えてみれば君とはまだ直接手合わせした機会がありませんでしたーね。いい機会でーす、我輩の実力を教えてあげましょーう」
ためらいの表情を浮かべたアベルに、メロサーはさらに付け加えた。
「本気できなさーい。こちらは手を抜いてあげますーが、あなたは殺すつもりできなさーい。我輩ー、校長ほどではありませーんが、こと剣技に関して言えーば、ドゥルガンよりも強いという自負がありまーす」
それが、皮切りになった。
アベルも、ここは本気を出さないと切り抜けられないと判断し即座に全力で枝を振る。ぶぅんと勢い良く振られた枝はしかし、空を切った。
「そう、それでいいのでーす! さーあ、我輩もいきますーよ!」
その自信が示すとおり、メロサーの腕前は確かに驚嘆に値するものだった。
ただの木の枝が、かすんで見えるほどの速度で突かれ、あるいは裁かれる。
何よりアベルにとって辛いのは、メロサーの攻撃のいずれも、薙ぎや払いがまるで意思を持つ蛇のように滑らかに動き、あるいは退きと変幻自在な攻め手で翻弄してくることだった。
これは圧倒的な力と迫力とで相手を攻め潰すガンドルスや、正確無比な動きで急所を狙うドゥルガンとはまた違う強さだ。剣技学科の担当を勤めるのも宜なるかな、である。
アベルはどうにか間合いを離し相手の攻撃を見極め裁こうとするものの、その分だけ後退を余儀なくされる。
このままでは不味い、そう感じたアベルは一旦大きく振り、間合いを離して自らも後ろに跳び退る。そして、必殺の一撃を出す覚悟を決めた。
「ほーう?」
今アベルのいる位置は、メロサーから見てやや下り斜面に位置している。
腰だめに枝を構え、すばやくぐいと大きく踏み込むと枝を突き上げた。速度も乗っており、当たれば死なないまでもかなりの痛手となるだろう。
しかし、アベルの予想は外れることとなる。
メロサーも退かず、どころか自身も一歩踏み込むと渾身の素早さをもって逆袈裟に薙ぐ。直後、べきぃと鈍い音を立ててアベルの枝が手元からへし折られた。
速度が十分乗る前に振りぬくことで、攻撃に使われるはずだった力に耐え切れず獲物が自壊した…かつてアベルがグリューと戦ったときと同じ手を使われたのだ。
アベルの枝だけがいともあっさり折られたのは、メロサーの練達した目がもっとも力のかかる場所を瞬時に見極めたことによる。
「しまっ…!」
反射的に身を引いたアベルへ、メロサーが追って上段から枝を振り下ろす。しこたま肩口を打ち据えられたアベルは、やがてぐらりとその場に倒れた。
「…ふぅ、思い切った突きを出してきたのーで、思わず本気になってしまいましーた。こういう思い切りの良さーは、なるほーど確かに校長が好きそうですーね」
ぜぇ、ぜぇと肩で息をつきながら、メロサーはその場にへたり込んだ。
「しかーし、これは我輩も大分鈍ってまーす。帰ったーら、少し本腰を入れて鍛えないとだめそうですねーぇ…」
ようやく息が整い、独り言をぶつぶつ呟きながらアベルの持つ水晶球を探そうと腰をあげたところで。
「あら、なんならこれからたっぷり鍛えて差し上げましてよ、せ・ん・せ・い」
氷より冷たい、レニーの声が背後から掛けられた。
「そ、その声ーは…」
ゆっくり振り返ったメロサーは、そこに女性陣が仁王立ちしているのを見た。
「あ、アルキュス先生ーぃ、それーに…皆さーん、おそろいーで。えぇと…入浴の時間はまだでーは…」
その格好は裸体などでは当然無く、完全武装だ。
「生憎、情報がこちらにも届いてましてね、しっかり対策させていただきました。入浴はこの後ゆっくりさせていただきますわ」
そうやんわりリティアナが説明する間に、こっそり影から現れたムクロが気絶したままのアベルを抱えると再び潜り込み、その場を抜け出していた。
「でぇ、でーは我輩たちの作戦はすべて筒抜けーに…?」
「はいな。ああ、あとこれ。お返ししますね先生」
ユーリィンがそう言ったのを合図に、どさりと無造作に放り出された。
「ああっ、同士諸くーん?!」
クゥレルとグリューだったそれはすでに袋叩きにされた後らしく、ぼろ雑巾と見まがうほどくたくたにぐったりしている。
「さて、返すべきものも返したし、返してもらうものも返してもらった。この後は…分かるよね先生?」
リュリュがにこやかに微笑んだ。その言葉を皮切りに、ちゃきりと武器を構える音が一斉に起こる。すでに周囲を包囲する輪は完成しており、メロサーはもはやどこにも逃げ場が無いことを知った。
「先ほど、本気できなさいと仰られましたので…お言葉に甘えて、全員全力でいかせてもらいますわね…あたしら全員で」
丁寧な、それでいて冷たいアルキュスの声が最後に掛けられる。
魂消る悲鳴が静かな山間に響いた。




