第34話-4 悪魔の誘い
大樹の盛り上がった根方に顔を埋めるようにして、石に生えた苔を食んでいる大鉄鹿がいる。まだ人の親指ほどしかない角の大きさから見て、この春に乳離れしたばかりなのだろうか。恐らく餌を求め、山の麓から上がってきてしまったものと思われる。
と、その斜め上にある小さな茂みがかさり、とかすかな音を立てた。
大鉄鹿が驚いて顔を上げたのと、そこから何か煌くものが飛来したのはほぼ同時だった。投げつけられた短剣が大鉄鹿の肩と首の間辺りに刺さり、一瞬後ろ足が沈み込む。
しかし、ある程度大きい体を持つ獣がその程度の怪我で仕留められることはまず無い。むしろ反射的に逃げ出すのがおちだ。
だが、襲撃者はその習性を知っている。
襲撃者――アベルは身を投げ出すようにして茂みから飛び出すと、陸王烏賊のときの経験を生かし剣を構えたまま体当たりする格好で大鉄鹿にぶち当たる。短剣は、ほんの数瞬獲物の動きを止めることに意味があった。
逃走のために再び跳躍の姿勢をとった大鉄鹿の背中を突き刺したアベルは、勢いそのままにごろごろと地面を転がった。すばやく立ち上がると、まだ尚逃げようと蹄を大地に立ててもがく大鉄鹿を追いかけ止めを刺した。
手馴れた動きで血抜きだけ済ませたアベルは額の汗を拭い空を見上げる。思っていたより順調で、この調子で行けば夕暮れ前には十分な肉が確保できるはずだ。
「おぅい、アベル。ここにいたのか、探したぜ」
アベルを見つけたウォードが斜面を登ってくる。片手を挙げて迎えようとしたアベルだが、ウォードの表情にどこかしら不穏なものを嗅ぎ取った。
「どうしたんだ、まだ狩りの最中だろ?」
「ばっかだなぁお前、本気で狩りになんか精を出すわけ無いだろ」
そう朗らかに答えるウォード。腰には小柄な一角兎が一羽下げられているが、これだけでは到底今晩の食事には足りるまい。
「どういうことだ?」
「分かってんだろ? 俺たちは男女に分かれ、そして今女子は開放感溢れる風呂に入ってるんだ」
大仰に両手を振り回しながら実に楽しそうに言うウォードだったが、アベルはまだ彼が何をしたいのかがさっぱり分からない。
そんなアベルに業を煮やしたか、ぐいっと顔を寄せたウォードが小声でささやいた。
「覗こうぜ」
「…は?」
言葉としては即座に理解している。だが、突飛すぎてその言葉が意味するところを理解するのに時間が掛かった。
「…お前、本気か? いや、正気か?」
ようやく意味を飲み込んだアベルが問いかける。仲間の風呂を覗くということについてアベルは、興奮するよりも信頼を裏切るような気がして罪悪感の方が勝った。
「本気だし、正気だぜ」
これまでに見たことの無い真面目な顔で、ウォードは熱く語り始めた。
「お前、いいのか? 若いうちはあっという間に流れ去る。後になってやっておけばよかった、そう後悔しても遅いんだぜ? な、だからお前も一緒に女子風呂覗きに行くんだよ」
満面の笑顔を浮かべるウォードに、アベルは素直な気持ちで答えた。
「いや、そんなこと勝手に決め付けられても困るんだけど。相手が嫌な思いするだろ」
アベルが本心からそう言っていることを悟ったウォードは、まるではじめて見た珍妙な生き物と相対しているような表情になった。
「え? ……いやいやいや、待って待って、ちょっと待って。お前、あんな美人どころを、しかも毛色の違うの五人と一緒にいてムラムラとかモヤモヤとかしないの?! 裸見てみたいなーとか、覗きたいなーとか、そうこと考えないの?!」
言われてアベルは首をかしげた。
「え…? うん? うぅん……そういえば僕、そういうことあんまり考えたこと無いな」
大切な家族のような親しみを覚えているからというのもあるだろうが、何より女性全般をそういう目で見るような心の余裕が無かったというのが正しい。
だが、それをウォードは当然知る由も無い。
「うっそ、信じられない?! え、お前女に興味ないの? もしかして俺やクゥレルのほうが好みなの?!」
「いや、それはない。断じてそれは無い」
誤解の無いようにまず重要なところをきちんと訂正した。
「ていうか気にならないわけじゃないけどさ、みんな大事な仲間だから、そういうことをするのはよくないと思うんだ。相手だって嫌だろうし、嫌がることを無理に行うのは良くないことだよ」
模範的な回答に、ウォードはまるで酸っぱいものでも口にしたように顔をゆがめた。
「かぁ~っ、さっすがは優等生様ぁ!」
「いや、そういうつもりじゃないけど…」
弁解しようとするのを聞き流し、ウォードは芝居がかった動きでアベルの肩をぽんぽんと叩いた。
「まあ、嫌なら仕方ない。お前の代わりに、俺たちが女性陣の裸を目にしっかり焼き付けておくさ」
「俺“たち”?!」
アベルはまじまじとウォードを見返した。
「アルキュス先生の胸はさぞかし豊満だろうなぁ! リティアナ先輩の尻とか、レニーのふくらはぎとか、きっと白くて滑らかで美しいんだろうなぁ!! ああ、今から楽しみだぜぇ!!」
きびすを返して元来た道へ戻ろうとするウォードを、アベルは慌てて引き戻した。
「ま、待ってよ! たち、ってことは他にもいるのか?」
「そうだがなにか? 周りの説明のために席外してるがグリューもだぜ…というか声掛けるのはお前で最後だ。後は全員参加してる」
こともなげに返されたその言葉を聞いてアベルは愕然とした。
そういえば今になって気づいたが、自分以外目に付く範囲内で狩りをしている者はいない。恐らく自分を最後にまわしたのは、こうやって反対される可能性を見越してのことなのだろう。
この周到な仕込みから察するに、この計画はかなり前から立てられていたと思われる。いや、もしかしたらこの旅行すら仕組まれていた可能性すらありそうだ。
「俺たちはこれから忙しいんだ、悪いんだが良い子ちゃんに構ってる時間はねぇ。さあ、道を空けてくんな」
アベルの推論を裏付けるように、ウォードの目は断固としてやり遂げてやるという強い覚悟に煌いていた。仮にアベルが加わらず反対を主張しても、あらゆる手段を使ってでもその意見を封殺し彼らは覗きを敢行しようとするに違いない。
「…い、いややっぱりまずいって! 大体、アルキュス先生をはじめ大人しい連中じゃないんだ、見つかったらどんな目に合わされるかわからないぞ?!」
無理を承知で最後の説得を試みるアベルだったが、それを見透かしているのかウォードは鼻で笑った。
「そんなこたぁ分かってるさ。だが、男には、やらねばならないときがある。例えどんなに危険な任務だと分かっててもな」
「ただの覗きだろ!」
「覗きか…そうとも言うな」
「そうとしか言わないよ!」
終始噛み合わない会話に苛々としながらアベルは説得を試みるが、ウォードはまったく聞く耳を持たない。
「デッガニヒ臨時校長だって言ってただろ、後悔しない様にしろってな。しかも学府に戻れば今度は戦争だ。いつ、誰が死んでもおかしくはねぇ。人生は一度こっきり。だったら、俺は…後悔しないように生きてぇんだ…」
「いや爽やかに言ってるけどやろうとしてることは最低なことだからね?!」
「なんと言おうとも、俺の…いや、俺たちの覚悟は変わらない。もう…俺だけの問題じゃねぇんでな」
肩を掴んで止めていたアベルの手を振り払い、ウォードは背を向けて歩き出した。
「お前は頑張って一人狩りをつづけてくれ。代わりに俺たちは、お前の分まで女子の秘密をこの瞳に焼き付けてくる。…じゃあな、達者ですごせよ」
だめだ、これは止められない。
自己陶酔に浸りながら死地へ向かおうとする友の背中に、アベルはとうとう覚悟を決めざるを得なかった。
「……ああもう、分かった! 僕もついていくよ!」
満面の笑顔で振り向いたウォードは、アベルの元へ戻ると右手を差し出した。
「その言葉を待っていた。ようこそ――同士よ」
こうしてアベルは悪魔の手を取った。




