第30話-5 ムクロ、先攻す
アベルたちの当面の指標としたトル・ゴース河へはすぐに合流することができた。降雨の余波で岩場の上部を水面がちゃぷちゃぷと洗う河に沿い、ハルトネク隊は潅木の連なる森の切れ目を移動する。
「この調子で進めば、まだ取り返しがつくかな?」
アベルの疑問に、リティアナは頷く。どうやら想定より激しく遅れることは無さそうだ。
それというのも、王子、そしてベルティナが想像以上に頑張ってくれたことに尽きる。
二人とも、慣れない移動に加え雨で足が取られることによる疲れがあるだろうにも関わらず、未だに音を上げず黙ってついてきた。幼いなりに、無理して同行したことに対して責任を感じているのだろう。
ようやく雨脚が落ち着き、太陽が顔を出したところでリティアナはアベルに提案した。
「ねえアベル、そろそろ休憩にしない? 少し疲れたわ」
頃合を見計らった彼女の提案に、アベルも無論異論は無い。彼女が言い出さなければ、彼が言い出すつもりだった。
「そうだね。それじゃあ少しここで休憩しよう」
ベルティナとアリウスが、ほっと大きく息を吐き出した。
砂漠で数日間活動してきたアベルたちにはまだまだ余裕がある。だのに休憩を挟んだのは、もちろんベルティナたちを慮ってのことだ。実際、彼らに大分疲れがたまっているのは誰の目にも明らかだった。
太陽が出てきた今、周囲の状況を偵察してくる必要が生まれる。その時間を、アベルたちは子供たちの休憩に割り振る心積もりでいた。
「リティアナは二人の様子を見てくれ。僕は少し先に行って周囲を確認してくる」
「わかったわ、こちらは任せておいて」
彼女がしっかり頷くのを見届け、アベルは早足で先を急いだ。
しばらく進むうち、すぐ後ろをついてくる足音に気づいたアベルは振り返り、足音の主を見て驚いた。
「おや、ムクロじゃないか、どうしたんだ?」
今は仮面を取っているムクロだ。以前見かけた夜の樹上ではなく、明るいところで見ると鼻梁の通った端正な面立ちが良くわかる。
「お前だけじゃ偵察は心もとないと思ってな」
そういってぎこちない笑みを浮かべるムクロに、アベルも釣られて笑い返した。
ムクロは、未だわずかに残るしこりを解消するため、あえてアベルと二人きりになれるようやってきたのだった。
「言ってろ、僕だって君がいない間遊んでたわけじゃないんだぞ」
「ふ…なら、それを見せてもらおうか」
互いににやりと笑った次の瞬間、弾けるようにしてどちらともなく駆け出していた。
瞬く間に二人は森を駆け抜け、ほぼ同時に拓けた砂浜へと出る。
激しい潮風が砂浜に押し寄せる白波を伴い吹き付けてきては、遠くで白い波頭が青い波の頂点にまだら模様をつくっているのが見えた。
「海岸か。学府から以外の海は久しぶりだな…」
岩場に片足をかけたムクロが感極まったように呟く。久しぶりというのがいつ以来を指すのか、アベルにはなんとなく推測がついた。
「ああ。…三年前、デッガニヒさんが船頭をしていた船に乗って僕らはアグストヤラナへ入学したんだよね」
ムクロが頷く。
「たった三年だが、色々変わったなぁ僕たち」
「ああ」
しばらくそうやって二人は海を見つめ、思い出に浸った。
「係わり合いのまったく無かったムクロやリュリュ、ユーリィンたちと、フューリラウド全土に広がろうとする戦争を止めるためこうやってディル皇国の王子を護衛して和平交渉に向かう…なんてこと、入学当初には想像もできなかったよ」
「まったくだ」
そういうムクロの声は、やや落ち着いた低音だ。
「そういえば、ユーリィンから聞いたけど。ムクロは今、女になってるんだっけ?」
アベルが何の気なしに尋ねると、ムクロは頬を赤らめて尋ねた。
「まあ、な。どうやらそういうことになっているらしい。…変か?」
そう問われたアベルは不思議そうに首を傾げた。
「なんでさ? ムクロはムクロだろ?」
「…む。それはそうだが」
まったく迷うことなくそう答えられ、逆にムクロの方が言葉に詰まってしまった。
「あ、でも前は仮面つけてたからなあ。今は顔がはっきり見えて、何を考えてるか判りやすい分良いなって思うよ」
「そ、そうか」
ムクロは自分の顔を確かめるように手を伸ばしかけた。が、すぐに手を止め、大きくため息を吐くと恨めしそうにアベルを見やる。
「そういうお前は、入学当時から変わらんな。…これじゃあ、気持ち悪がられるかもと一人でずっと思い悩んでいたのが馬鹿みたいじゃないか」
ムクロがそう言い捨てながら岩場に腰掛けたのを見て、アベルも傍の岩場に腰を下した。
「そりゃたった三年だよ、そう変わるわけ無いじゃないか」
その言葉に、ムクロがにっこり笑った。
「おい、今さっき言ったことと矛盾してるぞ」
「あ、そっか。うっかりしてたよ」
そのまま二人はひとしきり笑いあった。こうして、ムクロの中に残っていたわだかまりは完全に消えたのだった。
「な、なあ…アベル」
笑い声が消えて奇妙な沈黙が訪れたとき、先に口を開いたのはムクロだった。
「覚えてるか、アベル? 入学した日のとき、そして実技確認試験のときのことを」
記憶を掘り返したアベルは頷いた。
「うん」
「いずれのときも俺は言った…『関わるな』と。だが、今は逆に……『待っている』、そう言ってくれたときの俺は…無性に嬉しかった」
「ああ、やっぱりあのとき助けてくれたのはムクロだったんだね」
ムクロがまあな、と頷く。
しばらくそのまま波間を見ながら、互いに黙っていると。
「ムクロ?」
不意に、ムクロが顔を寄せた。互いの鼻がくっつきあいそうな距離で、
「今は――」
お前に捕らえられてしまった――ムクロがそう続けようとした矢先。
「ああっ、いたー!! やっと見つけたよ!!」
頭上から、リュリュの声が割り込んだ。
「うわっ?! りゅ、リュリュかぁ。どうしたんだ一体?」
「どうしたもこうしたも無いよ! どんだけ偵察に時間かけるのさ! もうみんなすぐに追いついてくるよ!!」
「え、もうそんなに時間が経ったのか? 判った、すぐ戻るよ」
「あっ」
そう言って慌ててきびすを返したアベルを呼び戻そうとするようにムクロが手を伸ばしかけたが、すでに手の届かないところに行ってしまっていた。
ムクロはやり場の無い手を閉じたり開いたりしていたが。
「まさかとは思ったんだけど…ねえ」
リュリュの声に、きっと睨み上げる。ふいにムクロの胸の内にきざした疑念が、つづく言葉で確信へと変わった。
「お生憎様~。そう美味しいところ持ってかせたりしないんだからね!」
「…リュリュ。お前…そうか、お前もか」
恨めしそうに邪魔者を見上げたムクロの視線を、リュリュも真っ向から受け止める。
「ボクのほうが先だったんだからね! ムクロには悪いけど、ボクは退く気は無いよ!」
「それはこちらの台詞だ!」
二人の視線が激しくぶつかり合う。
一触即発の空気は、アベルが二人を呼ぶまでつづいていた。無言のままにらみ合いながらアベルに追いついた二人はしかし、すぐに後を追わなかった自分たちの過ちを悟ることとなる。
「大丈夫か、リティアナ。この辺りの岩は濡れてて滑るから気をつけて。ほら、そっちの手を貸して」
真の敵は他にいた。
「ええ。ありがとう。アベルはどう、疲れてない?」
「これくらいどうってことは無いよ。でも、心配してくれてありがとう」
先に仲間の元についたアベルは丁度今、ベルティナを背負い、大きな岩を乗り越えようとするリティアナに手を貸していたところだった。
「……なぁ」
「……なにさ」
その様子に仲の良い子連れの家族を想起させられたリュリュとムクロは、互いの顔を力無く見合わせ、そして同時に大きくため息を吐いた。
「ここはひとまず…」
「…そうだね。休戦協定といこっか」
そしてどちらともなく手が差し伸べられ、硬く握り合わされたのだった。
「…どうやらこれでさし当たっての問題は解決した、ってとこかしらね」
最後尾のユーリィンが呟いたのを聞きつけ、その前をアリウスの手を繋いで歩いていたレニーが振り返って尋ねた。
「ユーリィン、何をぶつぶつ言ってるんですの?」
「なんでもないわ、ほらさっさと行きましょ」
そう返事するユーリィンの顔には、実に楽しそうなにやにや笑いが隠そうともせず浮かんでいた。




