4.ガラスの靴の中は蒸し風呂状態
曲に合わせて、その腕の中で半回転して向かい合う。
わたしよりずっと高い身長。その人の向こう側に、微かにランプの灯が燈っている。月の無い夜のせいで、顔は見えないけれど。繋いだ手はとても温かい。曲が終わると同時に向かい合い、紳士淑女のお辞儀を交わす。
お辞儀をしたまま逃げようとしたわたしの腰を強く掴んで、その人が身体を引き寄せた。
「今宵はこのまま僕と過ごして下さいませんか」
「ーーっ!」
うそっ! この声ってあの人じゃない? 艶のあるその声が、例のチョビ髭の鼻眼鏡紳士のものと分かって、息が止まりそうなほどに驚いた。
「貴女の名を教わる栄誉を、僕に与えて下さい」
ああなるほどね、その一言で合点がいったわ。この人、わたしを別人と勘違いしているんだ。鼻眼鏡の彼と会う時わたしはいつも、ぐるぐる眼鏡を掛けていて、メイドの格好をしていた。
今は眼鏡も外して髪も下ろして、新月の暗い夜の庭だもの。どこぞの令嬢と間違われても仕方がない事だけど。いえ、一応わたしは伯爵家令嬢なんだから、間違ってはないのだけれど……。
そっか。彼はダンスを踊りたがっていたけれど、相手は誰でも良かったのね。メイド姿のわたしの前では、あの変な鼻眼鏡を掛けていたのに。他の人の前では外して、あの綺麗な蒼い瞳を見せて甘い言葉を囁いているんだ。
ふわふわのスフレみたいに楽しかった気持ちが、びっくりするくらい急速にしぼんでゆく。
「貴女を帰したくない」
キャラメルのように甘い声で囁いて、わたしの頬に手を当て傾けた顔を寄せてきたその時。
ーーゴーン。ゴーン。
零時を知らせる鐘が鳴り、慌てて身を翻す……はずだったんだけど。
「ぐぬぬぬぬっ」
彼にがっちり捕まれていて、ジタバタと腕の中で暴れてもちっとも振りほどけない。
「ごめんあそばせっ!」
「ゲフッ」
八つ当たりも含めて渾身の力で蹴りをお見舞いしてやった! 蹴られて彼の力が緩んだ隙に、逃げ出した。なぁんだなんだ。そっか。彼は別にわたしだけ特別に、会いに来てた訳じゃ無かったのね。
そもそも彼が“あのお方”だとしたらなおさら、ただのメイドを本気で口説く訳なんかない。あのお方に相応しいのは、由緒正しき家柄と後ろ楯を持つ令嬢だもの。
いや、もしかしたら遊んでポイしてもメイドなら問題にもならないから、声をかけてきたのかしら。パーティーで出された食事にがっつく下賤な人間だと思われていたのかも。
どうして彼はわたしに声をかけてきたの? 優しくしてくれたその裏でわたしを嘲り蔑んできたの?答えの出ない問いを一人で考えて、泥沼にはまってしまったみたいに心が沈んでゆく。
ーーその日を境に、わたしは舞踏会の付き添いを止めてしまった。
時々キリキリ痛む胸を抑えながら、黙々と屋敷の管理をしていた。三人の継姉たちは何があったのかとすごく心配してくれたけど、誰にもなんにも話せなかった。
わたしの様子をただじっと見ていた継母から、ある日一通の封書を差し出された。何かしら?
「え……王家主催のですか」
「ええ、メイドではなく我が家の由緒正しき嫡子としてね」
「でも……」
今はハッキリ言って、パーティには出たくないわ。万一彼に会ってしまったら、どんな顔すればいいのか分からないもの。
「フォン・ド・ボー伯爵家令嬢ローズ・マリーベルとして、必ず出席せよと正式に招待を受けた以上、欠席は許されません。
といっても幸い仮面舞踏会ですから、当日は名を明かす必要はありませんよ」
仮面を着けて、表面上はどこの誰だかみな気付かないフリをして楽しむのが、仮面舞踏会。結婚相手を探す者にとっても、一夜の恋の相手を探す者にとっても、都合のよいものなの。
いわゆる王家主催の婚活パーティなのよ。
「貴女のドレスは、娘たちが総力を挙げて縫い上げます。靴はあのガラスの靴を履いて行きなさい」
「お継母さま……」
社交会に出るのに、既製品を着てゆく訳にはいかないけれど……間に合うのかしら。間に合わなかったら欠席しても仕方ないわよね、なんて思っていたのに。三人の継姉たちは有能だった。
「はい、手を上げて」
「あれだけ食べてても腰が細いわね」
「その分胸にいってるんじゃない?ほら、また大きくなって」
「ひょーっほっほっほ」
採寸の為にと脇やら腰やら胸やら、三人の継姉達に必要以上に撫でまわされてしまい、ケタケタと久しぶりに大笑いしたのだった。
そんなこんなで仮面舞踏会当日。
ーー何てこったい。ぐるぐる眼鏡を禁止されてしまったわ。
仮面舞踏会だから、あの眼鏡でも良いかと思ったら、「一発で我が伯爵家ゆかりの者だとバレますよ」って、お継母さまが。
深夜零時までの約束で借りた、外見だけは立派なボロ馬車に揺られながら溜息をつく。あの鼻眼鏡の彼も来ているのかしら。顔を合わせたら、どうすればいいのかしら。
そう思ったけど、今夜の自分の衣装を見てまた別の意味で溜息が出た。流行りのドレスに身を包み、下品でない程度に胸を寄せて上げて。
「どっちみちこれじゃあ誰か分かんないわよね」
ちょっと変わった形に結い上げたストロベリーブロンドは、わざとひと房垂らして毛先を巻いている。ぐるぐる眼鏡の代わりには、紅葉の葉を眼鏡に仕立てた仮面を付けているの。
ドレスの生地代に縫い糸。飾りのレースや借りた馬車の代金を思うと、仮面ごときにお金は掛けていられない。そしてこの柔軟性も、通気性も何も無いガラスの靴……すでに靴の中は蒸れ始め、ツルツル滑る上に高いヒールは久しぶりで履き慣れないわ。
仕方ないわね。適当に時間を過ごしたら料理を持って脱出しようと、溜息をついた。壁の花を決め込んで、出された食事を楽しみながら、人間観察しようと企んでいたんだけども。
なぜかわたしは今、この仮装パーティーの主宰者と踊っている。主宰者はもちろんこの国の王家。国王唯一の子である、アルフレッド王子殿下。